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ひまわり  作者: 橘 塔子
3/3

其の三

 和志の暴力に耐えかねた綾香は、隙を突いて彼を背後から刺したらしい。凶器は普段使っている万能包丁だった。

 倒れた彼の上に馬乗りになって、彼女はその後何度も何度も、背と言わず首と言わず、彼が完全に動かなくなるまで刺し続けた。

 自分自身と、何よりも娘を守るために――。





 三○三号室の老夫婦からの通報を受けてパトカーがやって来ても、綾香はまだ向日葵を探し続けていた。

 交番の巡査は現場を見て即、応援を呼び、やがて大挙して押し寄せた警察官によって綾香は連行されて行った。彼女は口も利けないほどの虚脱状態になっていて、抵抗することなくパトカーに乗った。その腕には血のついた猫のぬいぐるみが大事そうに抱えられている。赤い回転灯に照らされた彼女は、ぬいぐるみに向かって何か語りかけているようだった。

 部屋から出された私は、警官に長いこと事情を聞かれた。争う声と物音がして様子を見に行ったら、ご主人が血を流して倒れていた――見た通りのことしか答えようがなかった。

 マンションの住人たちが何事かと集まる中、三○二号室には立入禁止の黄色いテープが張られ、スーツや制服や作業服や、様々な身なりの人間たちが忙しなく出入りしている。見慣れた風景が一瞬にして様変わりする様子はシュールで、私は夢を見ているような気分で廊下に立ち尽くしていた。

 どこかで予想していたのだ、この結末を。期待していた、のかもしれない。

 また後日詳しくお話を伺うかもしれません、と担当の警察官から名刺を渡されて、私がようやく解放されたのは二十三時を回った頃だった。

 まだ喧騒の収まらない隣室から離れ、私は自宅に戻った。おそらくしばらくは周辺が騒がしくなるだろう。どっと疲れが出て足が萎えて、私はリビングに入るやいなやカーペットの上に座り込んだ。

 落とした視線の先に、白いソックスを履いた足があった。

 私は勢いよく顔を上げる。二人がけのソファに、丸顔おかっぱ頭の幼女が座っていた。

「おかあさんがね、いっちゃったの」

 向日葵は桃色の唇を尖らせて言った。その表情は悲しそうというよりもつまらなさそうだった。お気に入りの玩具をなくしてしまったような。

「だからね、あたしここにきたんだ」

「ど、どうして……?」

「だっておばちゃん、あたしがいれば『しあわせ』でしょ?」

 黄色いワンピースをふわりと揺らせて、向日葵は私の前に歩いてきた。太陽の光を一身に集めた、金色の笑顔が私に向けられる。何の邪気もない、恐ろしく純粋な親愛の情。

「そのひとよりも、あたしがいいんだよね?」

 向日葵が私の肩の向こうに目をやったので、私は振り返った。

 ダイニングに祐一が立っている。少し襟元のくたびれたストライプのシャツは普段と同じだ。この人はいつも音も立てずに帰ってきて、私が気づくとそこにいるのだ。

 祐一は優しい、寂しそうな目をしていた。

「その子が欲しいんだね」

「ええ――そうよ」

「僕はいない方がいい?」

「そうね。本当に足りなかったのはあなたじゃなかったみたい。あなたは、もういらないわ」

 




 あなたはもういらない。

 悩んで苦しんで、ようやく二人で生きていこうと決めたのに。

 ヒマワリ畑でそう誓い合ったのに。

 舌の根も乾かぬうちに別の女と浮気して。

 挙句にその女に子供ができたからって私を捨てた。

 あなたはもういらない。





 どんなにお金を貰っても、家を譲られても、償いになんかならなかった。

 何で別れたんだろう、あの薄っぺらい書類に判子を押したんだろうって後悔して、一人になったこの部屋で死んでやろうと思った。

 練炭を買ってきて、寝室を締め切って、後は火を点けるだけという時になって。

 祐一はいきなり帰って来たのだ。

 ごく自然に、何事もなかったように、遅くなってごめんね夕食まだある? と笑いながら。

 だから、私もそのまま受け入れた。

 それから半年間、二人で平穏に暮らしてきたけれど。





「あなたがいない暮らしが耐え難かった。裏切られたって事実が受け入れられなかった。あなたさえいてくれれば幸せだと思っていたけど、違ったわ」

 私は立ち上がって、祐一と対峙した。向日葵が甘えるように腰に抱きついてくる。

 おかあさん、という声は耳に心地よく、今まで感じたことのない高揚感を覚えた。

「そう……だったら僕はいらないね」

 祐一の姿が、ふと歪んだ。水面に垂らした水彩絵の具がゆっくり滲んでゆく様に似ている。

「さよなら、美由紀」

「うん」

 そのまま薄らいで空気に溶ける彼を、夫の形をしたものを、私はただ眺めていた。

 残ったのは、見慣れたリビングの光景。二人で選んだ家具やインテリアは、変えてしまおうと思った。あの写真立ても処分しなければならない。

「おかあさん、おなかすいた」

 私を見上げる向日葵の体温は、ずっと昔から知っているものだった。私の子供――夫とは離婚したけれど、手元に残ったいちばん大切な宝物。

「待っててね、すぐにごはんを作るわ」

 私は向日葵の頭を撫でて、キッチンで放り出されたままのエプロンへ向かった。





 ダイニングテーブル向かい合って座った中年女性は、白いハンカチでしきりと額の汗を拭っている。エアコンの効いた室内だが、猛暑の屋外から入ってきたばかりではまだ身体が冷えないのだろう。

 私はテーブルに置いた彼女の名刺を見る。弁護士の肩書のついた彼女の名前と、所属する事務所の名前が印字されている。

「我々としては、綾香さんの心身喪失状態を主張したいところなんですよ」

 彼女は冷たい麦茶を一口飲んで話を続けた。

「夫の和志さんから再三に渡る暴力を受けていたということですから、精神的に参っていたと考えられます。何でも、自分がミュージシャンの夢を捨てたのはおまえのせいだって、ずいぶん綾香さんを責めたらしいです」

「そうなんですか……酷いですね」

「綾香さんの妊娠をきっかけに二人は結婚したんですが、籍を入れた後に、それが間違いだったって分かったらしくて。いえ、綾香さんは本当に妊娠してるって思い込んでたんです。いわゆる想像妊娠ってやつかしら。でも和志さんはずっと妻の狂言に騙されたって根に持ってたんですねえ」

「本当にお子さんがいれば、幸せに暮らしていたかもしれないのに、お気の毒です」

「ええ、それでですね」

 弁護士はもう一口麦茶をのんで、ふうと息をついた。ようやくハンカチをバッグにしまい、手元の手帳に目を落とす。

「綾香さんがお隣に引っ越してきてから事件が起こるまで一週間ほどですが、その間にご主人が暴力を振るっているような……物音とか悲鳴とか、何かお聞きになっていませんか? もしお心当たりがあれば、ぜひ証言して頂きたいんですが」

 私は首を傾げた。

「さあ……気づきませんでした。昼間は仕事に出てて留守ですし、ここは壁も厚いですからね」

 リビングの方から小さな足音が近づいてくる。私の視界の隅で黄色いワンピースが揺れた。

 私の隣に来て、まだおわらないの、とばかりに服の裾を引っ張る向日葵を弁護士は見ようともしない。困ったように眉を寄せ、身を乗り出してくる。

「綾香さんの身体にはずいぶん痣や傷があったんですけどねえ。何かお話聞いてませんか、菅原さん」

「ごめんなさい、本当に分かりません。お隣とはあまりおつき合いがなかったもので。それから私、菅原じゃなくて飯野です」

「あら? 綾香さんはお隣は菅原さんだって」

「それは離婚した夫の姓なの。不便だからそのまま名乗ってたんだけど、最近旧姓に戻しました」

「あ、ごめんなさいね」

 弁護士は気まずげに微笑んで、いそいそと手帳のページを捲った。

「ああそれから……綾香さんは『ひまわりがいなくなった』ってずいぶん気にしてるんですが、ペットか何かなんでしょうか? こちらにお心当たりは?」

「それも分かりません――ごめんなさい、そろそろ出かけなくちゃいけないので」

 私が時計を見ると、彼女は残念そうに肩を落とし、席を立った。

「お休みの日にすいませんでした」

「いえ、こちらもお役に立てなくて。相馬さんの刑が軽く済むことをお祈りしてます」

 私は彼女を玄関まで送った。その後を向日葵がついてくるが、彼女はやはり気にするふうもない。

 重たげなバッグを持って、弁護士が灼熱の日差しの中へ帰って行くと、私は向日葵に向き直って、お待たせと微笑んだ。





 七月の最初の日曜日、私は娘の向日葵と手を繋いでマンションの階段を降りた。今日は電車に乗って遊園地へ行こうと約束していたのだ。

 隣室の三○二号室は、さすがにもう立入禁止は解けたものの、まだ空室のままだった。あんな事件があったのだ、しばらくは買い手も借り手もつきそうになかった。当分の間、娘と二人きりの静かな生活が守られる。

 お気に入りの黄色いワンピースを着て、真新しい麦藁帽子を被った向日葵は、とてもはしゃいでいる。エントランスから飛び出して行きそうになる生命力の塊を、私は苦笑しながら引き戻さなければならなかった。

 太陽は高く輝き、日差しは肌を突き刺して、耳には蝉の合唱が喧しい。アスファルトの先にゆらゆらと陽炎が見えた。

「おかあさん、あれなんてはな?」

 並んで歩きながらきょろきょろと落ち着きなく周囲を見回していた娘は、マンションの敷地の端にある花壇を指差した。ごくささやかなスペースだが、誰か庭いじりの好きな住人が手入れをしているようだ。この季節は、金色の大きな花が数本育っていた。

 向日葵は私を引っ張ってそこへ行き、自分の背丈よりもすいぶん上にある花を見上げる。私は彼女の隣にしゃがみ、同じように見上げた。

「これはヒマワリよ。あなたと同じ名前」

「へえ、きれい!」

「お母さんのいちばん好きな花なの」

 そうは言ったものの、どうしてこの花が好きなのか、自分でも分からなかった。この花をこの色を、どこかで誰かと眺めたような気がするが、思い出せなかった。

 でも、まあ、いい。今の私はとても幸せだ。足りない物など何ひとつなく、満たされている。

 この子さえいれば。

「さ、行こう。メリーゴーランドに乗るんでしょ?」

「うん! かんらんしゃにものるの!」

 向日葵は私の手を力いっぱい握り締め、いつもと同じ輝くような笑みを見せた。

 私たちは二人で手を繋いで、光に溢れる鮮明な世界の中を、歩き出した。

   

                                         <了>

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