第2話:神保町の雨宿り
大学四年の六月。就職活動の合間を縫って、私は神保町の古本屋街の狭い路地にいた。
急に空が暗くなったかと思うと、空の裂け目から水が落ちてきたような土砂降りが始まった。私は慌てて、近くにあった古びた本屋の庇の下に駆け込んだ。抱えた紙袋のなかの本が濡れていないか確かめながら、濡れた前髪を払う。
海のにおいはしない。ここにあるのは、古い紙の匂いと、インクの匂い、そして雨がアスファルトを焦がすような懐かしい匂いだ。
「あのさ」
ふと、すぐ隣から声が聞こえた。
「その傘、まだ骨が曲がってるんだな」
聞き覚えのある声だった。低くて、少し掠れていて、語尾だけがやわらかい声。
息が止まった。
振り返る。
そこに立っていたのは、見慣れないトレンチコートを着た、背の高い男の人だった。雨に濡れた黒髪は少し癖があって、あの頃よりもずっと大人びていたけれど、困ったように口の端だけで笑う癖は、少しも変わっていなかった。
「……高橋、くん?」
声に出した瞬間、名前が自分のなかで鈴のように響いた。
彼はあの骨の曲がった生成りの傘を少し傾けて、私の顔をのぞき込む。
「遅くなってごめん。迎えに来たよ、鈴木」
心臓が、うるさく跳ねた。
八年という長い空白も、イギリスという海の向こうの遠さも、目の前にある彼のその一言で、まるでなかったことのように溶けていく。あんなに強がって忘れたふりをしていたのに、心の奥底でずっと待ち続けていた自分がいたことに、私は初めて気づいた。
「……遅すぎるよ」
私は笑いそうになるのを必死でこらえながら、でも、どうしても頬が緩むのを止められなかった。
足元では、東京の雨がアスファルトの上で小さな水たまりの輪をいくつも広げている。もう私のせいの雨じゃないかもしれない。でも、どちらでもよかった。
高橋蓮は、濡れたトレンチコートの裾を少しだけ払うと、私の持っている傘に目をやった。
「ほんとに、まだそれ使ってるんだな」
「……しょうがないでしょ。おさがりだもん」
「変える気ないだろ、それ」
彼はふっと笑った。あの頃と同じ、不器用な笑い方。8年という歳月が嘘みたいに、あの日の教室の空気が、神保町の古い軒先にそのままスライドしてきたような気がした。
「イギリスは?」
私は、胸のつかえをひとつずつ取り除くみたいに、ずっと訊きたかったことを口にした。
「終わった。向こうで大学も卒業して、こっちに戻ってきたんだ。就職も、こっちで決まってさ」
「そう……なんだ」
「うん」彼は少しだけ目を細めた。「ずっと、帰ってきたかったけどな」
「どうして?」
「決まってるだろ。迎えに来るって、約束したから」
「……ずるい人だね」
「なにが?」
「急に行って、急に出てきて」
「ごめんって」彼は苦笑いしながら、持っていた黒い傘を少しだけ私の方へ傾けた。「……で、鈴木は? 大学は、こっち?」
「うん。文学部。本が好きだから」
「相変わらずだな。図書室の端っこにいた頃から変わってない」
「蓮くんこそ、全然変わってない……わけじゃないか。背も高くなったし、声も低くなったし」
「そりゃ、8年経ってるからな。お互い様だろ」
そう言って彼は、私の持っていた紙袋に視線を落とした。
「それ、重いだろ。持たせてよ」
ううん、と首を振ろうとしたけれど、彼はすでに私の手から紙袋の持ち手をひょいと奪っていた。その手のひらが、ほんの一瞬だけ私の指先に触れる。あの日の消しゴムの貸し借りをしていた頃と同じ、少し冷たい指先だった。
雨脚は少し弱まっていたけれど、空はまだ重い灰色のままで街を包み込んでいた。
「ねえ」と、蓮が言った。
「なに?」
「このあと、時間ある?」
「……一応、就活の予定はもう終わったけど」
「じゃさ、どこかでコーヒーでも飲まないか? 話したいこと、山ほどあるんだよ」
彼はそう言って、少しだけはにかんだ。
私たちは、生成りの傘と黒い傘を並べて、神保町の濡れた歩道を踏み出した。ふたりの距離は、あの日の十四番の席から一歩も動いていない。けれど、並んで歩く肩の温もりは、あの頃よりもずっと近くにあった。
雨はまだ、やんでいない。
けれど、この雨の向こうには、きっと新しい季節が続いている。そんな予感がしながら、私は少しだけ歩幅を彼に合わせた。




