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The Second Choice of MIRA  作者: ゆぴろ ✎*


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15/15

第15話 いつもの

友人でも、家族でも、同僚でもない。


高槻湊には、三年間通っている弁当屋がある。店員とは名字を知る程度で、連絡先も知らない。それでも「いつもの」で唐揚げ弁当が出てくる。


ある夜、電車が止まり、端末も壊れ、姉へ連絡する方法を失った高槻は、その店へ入った。


そこで起きたことは、「助けてもらった」の一言では、少し説明しきれなかった。

高槻湊は、椅子に座る前に、端末を机の上へ伏せて置いた。新しい端末だった。画面の保護フィルムの端に、まだ小さな空気の泡が残っている。


「すみません、買い替えたばかりで。まだ手に馴染まなくて」


「いえ。どうぞ、楽にしてください」


シンが言うと、高槻は頷いて、今度はちゃんと椅子に腰を下ろした。三十一歳。市の東にある物流センターで、入出庫と在庫の管理をしている。作業着の上着は着てこなかったが、袖口の擦れた痕に、箱を持つ仕事の癖が残っていた。ミオが紙コップの麦茶を机に置くと、彼は両手で受け取った。


相談の内容は、はっきりしていた。来春、同じ系列の新しいセンターが川向こうに開く。そちらへの異動を打診されている。断っても不利にはならないと言われたが、返事は月末までにほしいらしい。


画面に出た推薦は、現在の拠点に残る、だった。異動は二番目に並んでいる。順位は動いていない。


「納得はされましたか」ミオが聞いた。


「納得というか、まあそうだろうな、と。ずっとここにいますし、新しい場所のことは、まだ想像がつかなくて」


「想像がつかない、というのは」


「通勤とか、昼をどこで食べるかとか、そういうことです。仕事の中身は、たぶんほとんど変わらないんですけど」


シンは相談票に目を落とした。仕事の中身は変わらない。変わるのは、仕事の外側だった。


「今の通勤を、教えてもらえますか」


高槻は、電車で十五分、駅から歩いて七分と答えた。異動先だと、バスの乗り継ぎで二十五分ほどになる。住まいは今のままで、引っ越す予定はない。休みの日は、洗濯と、近所のスーパーと、たまに姉と食事に行く。


「お姉さんがいらっしゃるんですね」


「千鶴といいます。車で十分くらいのところに住んでます。去年引っ越したとき、保証人になってもらって」


「今回の異動のことは」


「最初に話しました。そしたら、どっちでもいいんじゃない、自分で決めなよ、って」


そこで高槻は、少しだけ眉を下げた。「姉はいつもそうなんです。聞くと必ず、自分で決めなって言うんですけど、決めたあとは全部知ってます。仕事の愚痴を言った日付まで」


ミオが、麦茶の紙コップを持ったまま小さく笑った。シンは笑わず、しかし相談票の「頼れる相手」の欄に、姉の名前を書き込んだ。書き込みながら、聞いた。「普段、仕事の帰りは、どのように」


「まっすぐ帰ります。ただ、駅前の弁当屋にだけは、だいたい寄ります」


「弁当屋」


「センターの最寄り駅の前にある、小さい店です。三年くらい通ってるので、いつもの、で通じます。唐揚げ弁当です」


「異動されたら」


「そうですね。そこには、寄れなくなります」高槻は、その言葉を、特に重さもなく口にした。


「でも、それは別にいいです。大した話じゃないので」


シンはその一行を書かなかった。書かないまま、顔を上げた。


「端末が、新しいですね」ミオが言った。高槻の手元を見ていた。


「あ、はい。先月、急に動かなくなって」


「壊れた」


「画面が真っ暗になって、それきりです。充電はあったはずなんですけど。店に持っていったら、基板がどうとかで、買い替えを勧められました」


「それは、困りましたね」ミオが言うと、高槻は短く息を吐いた。


「困りました。その日は特に」


その日、と彼は言った。シンは、相談票の余白にペンを置いたまま、続きを待った。


「聞いても、構いませんか」


「構いませんけど、本当に、大した話じゃないんです」


そう前置きしてから、高槻は話し始めた。木曜の夜だった。センターの最寄り駅から乗るはずの下り線が、信号の故障で止まった。駅の掲示は、運転再開の見込みなし、と出ていた。その夜は、姉と夕食の約束があった。母の誕生日の贈り物を、二人で相談する予定だった。待ち合わせは、高槻の家の最寄り駅の改札に十九時。


「遅れる、って送ろうとしたんです。そしたら、画面が真っ暗で」


押しても、長押ししても、何も映らない。


「姉の番号は、覚えていませんでした。端末に入っているのを呼び出すだけだったので」


「他に、方法は」


「公衆電話は、駅の隅に一台残ってたんですけど、番号が分からないので意味がなくて」高槻は苦笑した。


「姉は、心配性なんです。三十分来なかったら、僕の部屋まで来ます。合鍵もないのに、ドアの前で待つ人です」


シンは、手帳のように相談票を引き寄せ、時刻を確認した。「その時点で、何時ですか」


「六時二十分くらいでした。電車が止まって、ホームが人でいっぱいで。それで、改札を出て、いつもの弁当屋に入りました。座れる場所がなかったので」


「弁当を買うために」


「半分は、そうです。もう半分は、人のいないところに行きたくて」


弁当屋の店員は、五十代くらいの女性だと高槻は言った。名札には佐伯と書いてある。三角巾をつけていて、いつも唐揚げ弁当を、何も言わなくても用意してくれる。向こうも高槻の名字は知っているらしいが、店の外で会ったことは一度もない。その夜も、佐伯が聞いたのは、いつもの、だけだった。


「でも、さっきからずっと、真っ暗な画面を睨んでますね、って言われて」


「見られていたんですね」


「店が空いていたので。それで、姉との約束の話を、ぽろっとしたんです。連絡できなくて、って」


「佐伯さんは、なんと」


「会社に電話してみたら、って」


シンは、そこでペンを止めた。「会社に」


「僕もそう思いました。会社に、って。でも、姉の番号はないですし、と言ったら、会社の人なら何か知ってるんじゃないの、と言われて」


そこで高槻は、少し間を置いた。


「それで、先輩の山岸さんを思い出しました。前に一度、姉と連絡を取ったことがある人で」


「それまで、思いつかなかった」


「全然です。言われるまで」


「佐伯さんは、お姉さんの連絡先を知っていましたか」


「いえ。姉のことは、何も。僕に姉がいるのも、そのとき初めて知ったと思います」


「会社の電話番号は」


「佐伯さんが、自分の携帯で調べてくれました。センターの名前は、上着のロゴで分かっていたので。夜も事務所に当番の人がいるのも、トラックの出入りを見て知ってたそうです」


シンは頷いた。相談票の端に、短く書き留める。「電話は、どなたが」


「僕です。店の奥に固定電話があって、それを貸してもらいました。当番が、ちょうど山岸さんで」


「山岸さんは、お姉さんへ連絡できた」


「はい。前に一度、僕が体調を崩して早退したとき、姉が迎えに来て。そのとき山岸さんと直接やり取りしてたんです。番号がまだ残っていたみたいで」


「お姉さんに伝えたのは、山岸さんですね」


「はい。僕は話してません」


高槻は、ここで少し声の調子を変えた。「いったん切って、五分くらいしたら、店の電話が鳴ったんです。佐伯さんが出て、はい、ええ、いますよ、と言って、僕に受話器を渡して」


「山岸さんから」


「そうです。姉には伝わった、改札で待つ、と。それで、無事に」


そこで彼は、思い出したように笑った。「そのとき、佐伯さんが、電話の相手に言ったんです。いつもの唐揚げの高槻さん、ですよね、って」


ミオが、声を出さずに肩を揺らした。


「名字は前から知ってたんです。名札も見てましたし、向こうも僕の名前を知ってました。でも、連絡先は知らないし、店の外で何してる人なのかも、ほとんど知らないです」


「それでも、三年」


「そうなんです。店では、いつもの、で通じるんですけど」


シンは、笑わなかった。ただ、質問を続けた。「佐伯さんがしたことを、整理させてください。電話を貸した。会社の番号を調べた。会社へ掛けるという案を出した」


「あと、お茶を。待ってる間に、温かいのを出してくれました」


「お茶」


「はい。それは、仕事じゃなくて、ただの、お茶です」


「お姉さんに連絡したのは、会社の山岸さん。佐伯さんは、お姉さんには何もしていない」


「そうですね。会いもしてません」


「問題は、解決しましたか。つまり、電車が動いたとか、端末が直ったとか」


「いえ。電車は一時間止まったままでした。端末も、そのまま。結局、迂回して、三十分遅れで改札に着きました」


「お姉さんは」


「改札の前に立ってました。寒いのに上着を着てなくて、怒ってるのかと思ったら、遅いよ、だけ言って、そのまま店に入りました」


高槻は、そこで言葉を切った。しばらく麦茶を見ていた。


「助けてもらった、って言うと、ちょっと違う気がするんです。佐伯さんは、僕の問題を何か解決したわけじゃないので。でも、あの店に入らなかったら、僕は、あの夜、姉に連絡する方法を思いつかなかったと思います」


それ以上の説明は、彼からは出なかった。


「ありがとうございます。参考になりました」シンは言った。それは本心だったが、結論ではなかった。


相談は、その日のうちに決まらなかった。高槻は、もう少し考えます、と言った。シンは急がせなかった。月末までに返事をすればいい。それまでに、また来てくれても構わない。


高槻は、帰り際に、端末を鞄にしまってから、あ、と言った。「姉の番号は、今は手帳の裏に書いてあります。恥ずかしいので、見せませんけど」


彼が出ていくと、相談室は静かになった。ミオが、空いた紙コップを二つ重ねた。


「佐伯さん、お姉さんのことは何も知らなかったんですよね」


「ええ。高槻さんに姉がいることも、あの夜まで知らなかったそうです」


「でも、佐伯さんがいなかったら、山岸さんに電話をしようと思わなかった」


「高槻さんも、あの店に入らなければ思いつかなかった、と言っていました」


「はい」


「それでも、お姉さんに連絡したのは山岸さんです」


シンは、相談票の端に残った短い記録を見た。電話を貸した。番号を調べた。会社に掛けたらと言った。お茶を出した。それだけだった。


「高槻さんにとって、佐伯さんは、何に当たる人なんでしょう」シンが言うと、ミオは少し考えた。


「お弁当屋さん、じゃないですか」


「ええ。本人も、そう呼んでいました」


友人でも、家族でもない。名字は知っている。連絡先は知らない。店の外では会わない。それでも、高槻の端末が死んだ夜、その人の店が、彼の勤め先と姉の間にあった。


シンは相談票を閉じた。表紙には、高槻湊の名前と、相談区分がある。〈就労・異動〉。関係者の欄には、〈姉〉の一行だけが入っていた。


弁当屋は、最後まで関係者の欄には入らなかった。

高槻にとって佐伯は、友人でも家族でも同僚でもない。三年間通っている弁当屋の人。ただ、それだけだった。


それでも、端末が壊れ、電車が止まった夜、高槻が次の一手を見つけた場所は、その店だった。


佐伯が問題を解決したわけではない。けれど、佐伯がいなければ生まれなかった行動がある。


関係者の欄には、最後まで入らない。


では――こういう人は、どこに数えられるのだろう。



『MIRA』

進学、就職、居住地など、人生の大きな選択を支援する推薦システム。「第一推薦」「強く非推奨」「許容」「条件付き代替案」などの評価を示す。新しい情報が加わることで、推薦順位や条件が変わる場合がある。


『AXIA(人生選択調整部門)』

MIRAの推薦と本人の希望が大きく食い違った際の相談窓口。本人に代わって答えを決めるのではなく、本人の価値や事情をMIRAが評価できる形で正確に伝える。


『VIA』

職員が業務上の記録や評価情報を扱うシステム環境。利用できる情報や操作の範囲は、所属や業務上の権限によって異なる。


『BOUND(境界監査)』

VIA内で、職員の権限や操作範囲が制度上許される範囲にあるかを監査する部署。シンによるAUX-17の全案件横断照会を停止した。


『ELPIS』

MIRAの推薦とは違う選択をした人などの支援に関わる人々や活動。シンが訪れた場所では、住居や手続きなど、選択後の生活を支える活動が行われている。


『内部評価』

MIRAが選択肢を評価する際に用いる内部情報。利用者向け説明には出ない参照や評価情報も含まれる。


『本人以外の参照』

内部評価に表示される場合がある項目。世帯や勤務先などの既存の関係項目とは別に置かれ、第三者IDが記録される場合がある。


『第三者ID』

「Q74F-20K9-D3A6」と表示された識別子。相談者が本人申告上初めて会った人物の識別子と一致し、その人物に会う前の内部評価から存在していたことが確認されている。なぜ事前に参照されていたのかは不明。


『参照経路』

内部評価がどの識別子と関係を参照して組み立てられたかを、点と線で表示する機能。本人からQへ、さらにQから三つの識別子へ参照が続いていることが確認されている。


『高槻湊』

三十一歳。物流センターで入出庫と在庫管理を担当。新しいセンターへの異動を検討しており、MIRAの第一推薦は現在の拠点に残ること。姉の千鶴を「頼れる相手」として相談記録に記載している。


『佐伯』

高槻が三年ほど通う駅前の弁当屋の店員。互いに名字は知っているが、連絡先は知らず、店の外で会ったこともない。「いつもの」で唐揚げ弁当が通じる関係。


『端末故障の夜』

高槻の端末故障と電車停止が重なり、姉へ連絡できなくなった。佐伯の提案をきっかけに高槻は勤務先へ電話し、先輩の山岸を介して姉へ遅延を伝えた。佐伯は電話を貸し、勤務先番号を調べ、会社へ掛ける案を出し、待つあいだにお茶を出した。


『相談記録上の関係』

高槻の「頼れる相手」の欄には姉が記載された。一方、佐伯は高槻の行動に影響を与えたが、関係者としては記録されなかった。


『シンの現在の問い』

家族・友人・同僚など明確な名称を持たない関係が、実際の行動や選択にどのような役割を持つのかを考えている。記録上の関係と、実際に人の行動へ影響する関係が一致するとは限らない。


『AUX-17』

内部評価に使われていた「補助評価参照」。詳細はシンの現在の参照範囲では確認できない。第三者IDや参照経路との関係は確認されていない。


『八代』

リベラがAXIA時代に担当した相談者。第一推薦とは異なる遠方への移転を選び、移転先の町で新しい日常的な関係を築いている。


『リベラ』

元AXIA職員で、現在はELPISに関わっている。かつて担当した八代と再会し、選択後の暮らしを本人から直接聞いた。


『ユイ』

シンが調査部門にいた頃の相棒。公式記録上の死因は「自殺」。死亡前には複数のAXIA相談記録を調べ、ELPISにも「選んだあとの人の話が聞きたい」という目的で訪れていた。


『ヴェル』

記録や参照履歴を扱う技術部門の職員。確認できる事実と解釈を厳密に分ける。

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