神統断片拾遺 反逆神 ディット・グー・ドーズ その3
次に解とくべきは、いまひとつの、長らく神統学者を悩ませてきた問いである。すなわち、なにゆえ聖嵐神は、弟神を滅ぼさず、封じるにとどめたのか、ということである。
始原に弓引きし大逆の神。世を二つに裂き、千年の闘争を引き起こしし張本人。その罪の深さを思えば、討ち滅ぼされて余りあるはずのこの神が、なぜ、闇界の底へ封じられるという、いわば生かしたまま縛るかたちで決着したのか。統一神書は、これをただ「おのれの罪に見合うた当然の報い」とのみ記し、その理由には立ち入らぬ。
この問いに、最もよく行き渡った答えを与えているのは、やはり副読本『神統略説』である。曰く、
反逆神、なにゆえ滅ぼされず、封じられしのみにて済みしか。これ、慈悲にあらず、是非もなき定めゆえなり。
聖嵐神と反逆神は、ひとつの光より分かれし双子なり。双子とは、根をひとつにする二柱なれば、片割れを滅すれば、いま片割れもまた、ともに滅ぶ。すなわち弟を討ち果たさんとすれば、兄もまた、相果てねばならぬ。
兄ひとりの命は惜しからず。されど、至天の光輝たる第一の座、天を統べ世を律する兄神までもが失われなば、世界はたちまち崩れ、反逆神を討ちし甲斐もなく、ことごとくが無に帰す。ゆえに聖嵐神は、おのれもろとも弟を滅する道を選びえず、やむなく、弟を闇界の底へ封ずるという、苦渋の道を択びしのである。
この説は、よく筋が通っている。双子なるがゆえに殺すに殺せず、世界を保つために、やむなく封ずるにとどめた。聖嵐神の至天の光輝が、いまも一瞬も翳ることなく天に在りつづけるのも、その封印を保たんがためと考え合わせれば、いよいよ無理がない。世のおおかたは、この答えをもって足れりとしている。筆者も、大筋において、これに異を唱えるものではない。
ただ、本書を著すにあたり、様々な文献にあたる中で、一つの仮説を立てるようになった。前章で聖嵐神の別の側面を記したのを思い出してほしい。強き神であるはずの聖嵐神が、嘆き、悲しみ、それが嵐に雷として現れるというものである。なににかの神は嘆いていたのだろうか。私はもしかすれば、聖嵐神が、この封印を、いまもって嘆いているのではないかと推察するのである。
断っておくが、これは統一神書の説くところではない。神書は、勝者たる兄神を、ただ厳おごそかに、ゆるぎなき天の守り手として描くのみで、その胸の内には、ひとことも触れぬ。されど、神書の外に目を向ければ、全く故無き事でもないのでは思うときがあるのである。
例えば、この神に連なる雷冠の民ヴェルフェンに、ひそやかに歌い継がれてきた哀傷歌が上げられる。声を荒げれば言葉が雷と変ずるこの民は、その歌すらも、囁きよりかすかな声で口ずさむという。グラナガダン大図書館に、その歌詞のみを書き取った一葉が伝わる。曰く、
兄あには、ひとり、天に在ます。
みづからの手で、夜を縛いましめしより、
兄は、ひとり、天に在す。
雷は、还かえらぬ片割れを呼ぶ声。
雨は、ぬぐえど尽きせぬ、兄の。
(ここで、いつも歌い手は口をつぐむ)
末の一行、雨が何であるかを、この民は、けして言葉にしない。言わずとも知れたこと、ゆえに言わぬのだ、と古老は語ったと締められている。みづからの手で弟を縛めてより、兄はひとり天に在り、雷を落とし、雨を降らせている。その雨がなんであるかは、さきに聖嵐神篇にて、嵐をこの神の嘆きと読んだ考証を事実とすると、よく合う。
さて、この嘆きを、ひとまず事実として認めるとき、さきの『神統略説』の答えには、説き残しが生まれることとなる。
双子なるがゆえに殺せなかった、という理ことわりは、なぜ殺さなかったかは説く。是非もなき定めに従い、世界を保つためにやむなく縛めたのみであれば、そこにあるべきは、苦さではあっても、悲しみを感じることはないはずである。やむをえず縛めた咎人を、人は、神は、泣いて悼みはしまい。では何ゆえに聖嵐神は嘆くのであろうか。神の意中を推察するなど、人の身に過ぎたことかもしれないが、反逆神を封じること自体が、実は本意ではなかったとしたらどうであろうか。
二つの断片が、筆者の手元にある。いずれも、例によって、確かな史料とは言いがたい。
ひとつは、さきに呼び名の件で引いた、龍語学者リエン・ロ・ハーグの書付の写しである。リエンが、最も古き龍オルムに、闘争の終わりのさまを問うたとき、千年の戦をその目で見たというこの龍は、しばし黙したのち、こう語ったと記されている。
終わりの日のことは、我とて、遠くより眺めしのみ。されば、確かなことは言えぬ。ただ、こうは見えた。最後の時、あの二柱は、争うてはおらなんだ。弟は、暴れることをやめ、静かであった。兄は、その傍らに在りて、何ごとかを、長く、聞いておるように見えた。やがて兄は、おのが光をもて、弟を包んでいった。あれは、討つ手つきではなかった。むしろ、眠る子に夜着を掛けてやる手つきに、よう似ておった。なぜそう見えたかは、問うな。我にも、わからぬ。ただ、ひとつ。あれは、勝ち誇る者の顔ではなかった。あの兄神は、泣いておった。
龍は、遠くより見たのみと、みずから断る。神々の戦の、その最後の機微を、まことに見てとれたかどうか、定かではない。眠る子に夜着を掛ける手つきも、泣いておったも、老龍の、数千年の隔たりを経た、おぼろな記憶にすぎぬ。
いまひとつは、当代団長の遍歴学者クローネ・ディ・バーガンディア並びにその率いる吹き流れる知恵の収集旅団が、その創立の125年前から、偉大なる七種族をひとつひとつ訪ね歩き、聞き得たところをまとめた『遍歴七族聞書』の、「黄昏の民シルデンの章」に載る一節である。三界の狭間に住まい、死せる者を門へと導くというこの民は、その務めゆえか、闘争の終わりの場に居合わせたという言い伝えを、ひそかに持つ。旅団がその一人に、反逆神の最期を問うたとき、返ってきた答えが、こう書きとめられている。彼らの語りは、つねに黄昏のごとく、明と暗のあわいにあって、要を得ぬ。
あの夜、闇へ下りていかれたお方は、引きずられて行かれたのではありませぬ。ご自分の足で、お下りになった。門のところで、いちど、振り返られた。兄君に、何かを乞われたように、見えました。わたくしどもには、その願いごとは、聞こえませなんだ。ただ、お下りになるお方の御顔は、永らく見たうちで、いちばん、安らいでおられた。……いいえ、これはあくまで、わたくしどもの言い伝え。まことかどうかは、門の向こうのお方に、お尋ねなさいまし。
みづから足で闇へ下り、門口で振り返り、兄に何ごとかを乞うたように見えた、と。されどシルデンは、すぐにそれを言い伝えにすぎぬと退け、確かめるすべは門の向こうにしかない、と煙に巻く。彼らの言葉は、いつもこうである。聞いた者に、信じる証も、否む証も、与えぬ。
二つの断片は、どちらも、最後の時に、弟神が暴れも抗いもせず、むしろ静かに、みづから闇へ向かったかのように語る。そして兄は、それを討ちとめたのではなく、何かを聞き、何かを乞われ、嘆きながら。もしそうであるならば、封印とは、世界を保つためのやむなき処置である以前に、何か、二柱のあいだでのみ交わされた、別の意味を帯びるものであったのかもしれぬ。
とはいえ、これらはやはり、遠くより見た龍の、おぼろな記憶であり、明暗のあわいを語るシルデンの、つかみどころなき言い伝えにすぎぬ。双子なるがゆえに殺せなかった、という『神統略説』の答えは、いまもって、最も筋の通った答えである。筆者は、これを覆すだけのものを、何ひとつ持たぬ。
ただ、あの兄神の、千年やまぬ嘆きの事実を知ったとき、筆者はどうしても、こう問わずにはいられぬのである。世界を保つためにやむなく縛めただけの咎人を、人は、神は、いつまでも、泣いて悼むものだろうか、と。問うてはみる。されど、答えは、やはり、出ぬ。出ぬまま、ここに、記すままとし、後進の研究に委ねたい。
ここまで、世に流布する反逆神の像の、その黒く塗り込められた下を、史料の許すかぎり覗いてきた。呼び名を問えば、反逆の前に「慈宵神」、幽宵の安息たる第二の座という、至高の称があったらしいと知れた。反逆の理由を問えば、妬みと驕りという世の答えの陰に、出所も知れぬ三葉の紙片が、まるで別の何かを指し示して、口をつぐんでいた。封印を問えば、双子ゆえの是非なき定めという理の奥に、みづから闇へ下りた弟と、それを嘆きながら包んだ兄の、おぼろな影が浮かんだ。
断っておく。これらのいずれも、証されてはおらぬ。慈宵神の名は一頭の老龍の口より、反逆の異説は狂人と童と老女の言葉より、封印の機微は遠目の龍と、煙に巻くシルデンの伝えより出たものにすぎぬ。統一神書の描く邪神の像は、いまもって揺るがぬ。筆者は、それを覆すだけのものを、何ひとつ得られなかった。
されど、塗り重ねられた黒を一枚また一枚と剥がしたその下から、わずかに、ひとつの面影が透けて見えたように、筆者には思われてならぬ。はじめから世を呑まんとした邪神ではなく、一日の労苦をおだやかに閉じ、迷う魂を憩わせて世を巡っていた、慈しみ深き宵の神の面影である。何がこの神をかくも変えたのか。なぜ兄は、勝ちてなお嘆くのか。その答えは、いまだ門の向こうにあって、人の手は届かぬ。
誤解なきよう記しておく。本書は、この神の罪を雪そそがんとするものではない。万夜の魔導がもたらした惨禍はまぎれもなき事実であり、その甘き囁きが、いまこの時も嘆く者の耳もとに響いていることも、動かしがたい。かの神は、邪なるものである。それでもなお、偉大な神であった。この二つはどちらも真実であり、いずれか一方を消せば、もう一方もまた見えなくなる。光と宵が、もとはひとつの光より分かれた双子であったように。
最後に、ひとつ書き添えておきたい。あの、名も告げずに三葉の紙片を置いていった者のことである。去りぎわの「あなたが今求めているものを」というひとことが、書き終えたいまになって、妙に耳に残る。あの者は、何者であったのか。それもまた、わからぬ。わからぬことばかりを書き連ねた一篇の、これがふさわしき結びなのかもしれぬ。問いはことごとく開かれたまま、章を閉じさせてもらいたい。




