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神統断片拾遺 第2章 聖嵐神 シャナル・コーハル・ヴェルフィナ その2

 さて聖嵐神を熾烈な神、清廉な神と見るは、世のおおかたの通念である。されど、古の文献、辺地の口伝を見るに、まとめ伝えられる際に見失われたかの神の本質について語っていきたいと思う。

 西方、ヌアラがたの漁村に伝わる古き嘆き唄の、その詞書ことばがきに、聖嵐神について次のように記されている。


  あめの父は、怒りていかずちを落とすにあらず。泣きたまふがゆえに、雷は鳴るなり。あの轟きは、とがむる声にあらずして、こらえきれぬ嗚咽おえつなり。さればこそ、いかづちの夜には、責むる者の声と思うておびゆるな。ともに泣く者の声と思うて、窓を開けて、聞いてやりなされ。


 この表現は、統一神書が雷を「神罰」、すなわち理を侵す者への裁きの怒りとするところとは、まるで異なる。雷とは怒りではなく、嘆きであるというのである。これはかの神の、印象を変える一言であろう。頭の固い神統学者であれば、漁村の学無きものの言と切り捨てるかもしれない。けれども、各地に点在する逸話、また後述するが、袂を分かった双子神へのかの神の深き温情と慟哭を鑑みるのであれば、罰してくて罰しているわけでないという聖嵐神の計り知れなき情の深さ、優しを我々はより一層感じられのではないであろうか。当然、このようなものすべてが真を当てているとは言わぬが、素朴であるがゆえにときとして率直に的を得ることもあると私は思う。


 本書を著すにあたり、様々な文献を掘り起こす中、グラナガダン大図書館の、ある古びた気象書のあいだに挟まれていた、書き手も知れぬわずか数葉の写本を見つけることができた。誰が記したのか、著昨年もわからない、風を革袋に封じる古いまじないを記した、その紙背しはいに、次の走り書きが見つかった。


  世の者は、晴れたる空を、神の安らぎと見る。愚かなり。凪とは、神が嵐をこらえたまふ姿なり。神は常に、八方より噴き出さんとする風を、両の手にて抑えつけておられる。ひとたび手をゆるめたまへば、たちまち世は吹き飛ぶ。さればまこと穏やかなる空とは、神がもっとも力を込めて、こらえておられる空のことなり。


 この表現は、統一神書が、嵐ののちの澄みわたった青空をこそ「この神の真の御心」とし、穏やかさをその本性とするところとは、似て非なるものである。穏やかさとは、本性ではなく、絶え間なき抑制の結果だというのである。もしそうであるならば、この神の「穏やかさ」という相は、生まれついての安らかさではなく、世界を壊さぬために、休みなく己を律しつづける、その苦しき努めのあらわれであるといえるのではないだろうか。もしくは、嵐は本質ではなく、本来我々の住む現界が何もしなければ嵐荒れ狂う世界であり、聖嵐神の恩寵により日々抑えられ、されど神といえどその両の手からこぼれたるとき、嵐として我々が見ているのではないだろうか。不敬を恐れずいうのであれば、聖嵐神と呼びならわすこと自体、もしかしたら、我々が神の真を誤って理解したが故の、称号だったりするのではないであろうか。


 北嶺ヴェイン霊峰の頂に座し、すでに半ば岩と化したという黙坐の民ダグレンの古老に、聖嵐神のことを問うた。半日をかけて、古老はただ、こう答えた。


  あれの……片方の目は……いつも……閉じておる。……むかし、一度、見落とした。……二度と、見落とさぬために……片目を、空に……置いてきたのよ。


 あまりに短いその言葉の、続きを、わたしはついに聞けなかった。されどこの一言は、軽からぬものである。統一神書は、この神を「世界の見守り手」と称し、天よりあまねく世を見下ろすその絶えざる眼差しを、高みにある者の悠然たる慈悲として描く。


 だが古老の伝えがまことであるならば、その見守りは、悠然たる慈悲などではない。かつて何かを「見落とした」ことへの悔いより発する、あがないの見張りであったといえるのではないだろうか。片目を空に置いてなお見落とすまいとする、その必死さこそが、「光を絶やさぬ」と讃えられたものの正体なのかもしれない。聖嵐神は一体何を見落としたのだろうか。


 南方サルメア学府の比較神名録に、興味深い指摘がある。いわく、辺地の古きほこらには、いまも「日和ひよりの神」と「あらびの神」とを、別々の二柱として祀る例が、点々と残っているという。録は次のように記す。

  

  東のセルファ郷にては、晴れと実りを恵むなごみの神を兄、嵐と雷を司る荒びの神を弟とし、二柱の兄弟として祀る。これ、聖嵐神の二面が、もとは二柱の神なりしことの、名残にはあらざるか。


 この指摘は、統一神書が、穏やかさと激しさとを「同じ一柱の、二つの顔」と説き、一柱の神格のうちに溶け合わせて描くところと、根を異にする。二つの相は、もとは二つの神であったかもしれぬというのである。もしそうであるならば、統一神書のいう「分かちがたく溶け合うた二面の御心」とは、本来は別々であった二柱の神を、ひとつの神格へと束ね合わせた、編纂の手の跡であるといえるのではないだろうか。我々が一柱の神の奥深さと見ているものは、あるいは、二つの古き信仰の、縫い目といえるのだろうか。しかしながら、これに関しては、聖嵐神は1柱であることは間違いない。定命の我々よりも古くより生きているもの口伝・語りから、かの神は1柱である。これはおそらくは、片割れの双子神が、信仰されなくなっていく中、その代わりとして、聖嵐神の2面性を分かち、異なる神として信じ始めたのではないだろうかと推察される。


 ここまで、統一神書の描く聖嵐神の姿と、それに食い違う、いくつかの古き声とを、並べて見てきた。

統一神書の伝える聖嵐神は、まことに、非の打ちどころなき神である。八柱の筆頭、最も古く最も力強き兄神。怒りに遅く、罰すべきをのみ罰する、清廉なる裁き手。天の高みより世をあまねく見そなはし、その光を絶やさぬ、悠然たる見守り手。荒ぶる力を秘めながら、なおそれを律して、世界を穏やかへと導く者。威厳と慈愛とを兼ね備えた、至高の神。これが、諸国に広く行きわたった、この神の顔である。


 だが、辺地の漁村の嘆き唄に、大図書館の片隅の数葉に、霊峰に座す古老の、半日がかりの一言に耳をかたむけてみれば、その整った顔の下から、まるで違う相貌が、ひそかに覗く。


 彼らの伝えるところによれば、雷は怒りではなく、こらえきれぬ嗚咽であった。澄みわたる青空は、安らぎではなく、嵐を抑えつづける必死のこらえの姿であった。絶えざる見守りは、高みにある者の悠然たる慈悲ではなく、かつて一度「見落とした」ことへの、贖いの見張りであった。別々に語られたはずの三つの声は、奇妙にも、ひとつの方向を指している。すなわち、統一神書が「強さ」「清らかさ」「慈しみ」と讃えたものは、その根において、ことごとく、ひとつの深き「喪失」と「悔い」に発しているのではないか、ということである。


 なぜ、かくも食い違うのか。創世の章にて見たことが、ここでもまた繰り返されている。統一神書は、捉えがたく、痛ましきものを、人に仰ぎやすき形へとならしたのである。嘆く神よりは、裁く神のほうが、頼もしい。こらえる神よりは、安らう神のほうが、あがめやすい。悔いる神よりは、見守る神のほうが、すがりやすい。人は、おのれの弱さを支えてくれる、強く清き神を求める。神書は、その求めに応えたのであろう。


 いずれが、まことの聖嵐神なのか。筆者は、断じない。整えられた至高の像もまた、人の祈りが幾百年とかけて磨きあげた、ひとつの真実にちがいないからである。ただ、その輝かしき像の縫い目の奥に、声を潜めて泣く、もう一柱の神のいたことを、ここに書き留めておきたい。


 では、この神は、いったい何を、誰を喪って泣いているのか。こらえ、見張り、贖わねばならぬほどの、何があったのか。その問いの答えは、この神ひとりを見ていては、けして見えてこない。それは、最初の大いなる光より、この神とともに分かれ出でた、いまひとつの片割れ。第二の座にて夜と終焉を負う、あの弟神の章にいたって、はじめて、語らねばならぬことであろう。


 ゆえに、聖嵐神の章は、ここではいったん筆をく。澄みわたった空を見上げて、人がふと、わけもなく胸を衝かれることがあるとすれば、それは案外、こらえ、見張り、嘆きつづける、あの神の心の、遠いこだまを、知らず聞いているのかもしれない。


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