神統断片拾遺 門守神ノヴ・ガーレ・シルディン その5
八柱の最後の一柱を書くにあたり、七つの章のために集めた写しと手控え、旅先の聞き書き、返しそびれたままの借り物の書付を改めて読み返している中で一つの疑問というか違和感が生まれた。
手が止まったのは、龍の謁見の手控えであった。封印の暁のくだりである。すでに本章にも引いたが、いま一度、終わりの二節だけを書き写す。
それから兄神は、扉の前に、暁まで立っておられた。鍵は、暁に、灰色の御方の手に渡された。あの御方は受け取って、何も言わず、ただ、鈴を一度、鳴らされた。
何も言わず、と筆者は書き留めていた。龍もそのように語ったのであろうし、筆者もそのように聞いた。されど、この章を書き進めたいまとなっては、この一文を前と同じようには読めぬのである。統一神書は、あの御方について、こう記していた。この神は、めったに語らぬ。語る代わりに、鈴を鳴らすのだと。
ならば、あの暁、御方は黙していたのではない。あのひと鳴りは、言葉である。御方は、何かに答えたのではないだろうか。答えというものは、問いなくしては立たぬ。そして龍の語りには、たしかにその席があった。黄昏に始まり、夜半を過ぎてなお、兄神と弟神とは扉の前で向き合うていたという。二柱が何を語ったか、龍は知らぬと言った。声は聞こえなかった、と。その長い語らいの果てに扉は閉じ、兄神は独り暁まで立ち、それから鍵が渡され、鈴がひとつ、鳴った。
筆者はこれまで、この鍵の受け渡しを、務めの引き継ぎと読んでいた。封印の成った朝、錠の見張りの任が下され、寡黙な神が黙してこれを負うたのだと。されど、命に返事は要らぬ。返事があったのなら、あれは命ではない。頼みであろう。では兄神は、あの暁に灰色の御方に、何を頼んだのか。最後に、この筆者の些細な疑問の解消に付き合ってもらいたい。
語らぬ神に、問いただす術はない。されど、この神は行いで答える神である。頼まれたことが何であれ、それは引き受けられたのちの、幾千年とも知れぬ歳月の行いのうちに、形をとって現れているはずであろう。手がかりは新しい史料のうちにではなく、すでに書き写してきたもののうちにある。
最初に引っかかったのは、頼む相手のことである。仮に兄神の頼みが、世に言う見張り、すなわち誰も出さず、誰も近づけぬことであったとしよう。それならば、適任はほかにいたはずである。堅磐神は分かたれたものを繋ぎ留める神であるから、扉ごと山に呑ませ、継ぎ目を炉の火で縫うてしまえば、開く懸念は永遠に絶える。律天神の律をもって縛る道もあった。閉ざしきることだけが望みならば、そもそも扉である必要も、鍵である必要もない。それなのに鍵は、開くことを司る神の手に渡された。番人を選ぶのに、開ける神を選ぶ者があろうか。
龍の語りを、順に辿り直してみたい。黄昏に始まり、夜半を過ぎるまで、二柱は扉の前で向き合うて語らった。何が語られたかは誰も知らぬ。ただ、反逆神の章で引いたあの紙片どもが、ここで思い出される。逆刻の民の老婆は、最後にあの方は正気に、と語り、崩れた童歌は、いちばんやさしいこだったのに、と結ばれていた。世迷い言と唄であって、信を置くべきものではない。されど、もし終わりの間際に、ほんのひとときでも戻る瞬間があったのだとしたら、それはあの長い語らいのうちであったろう。そして扉の前でそれを見た者がいたとすれば、兄神をおいてほかにない。
やがて扉は閉じ、兄神はその前に暁まで立ちつづけたと、龍は語っていた。
筆者は聖嵐神の章で、この立ち尽くしを嘆きと読んだ。いまは、少し違うように思う。嘆くだけならば、鍵を握ったままでよかったはずである。されど夜が明けたとき、兄神は、封じるために百年かけて打たせたその錠の鍵を、開くことを司る神に、待つことに最も長けた神に手渡された。嘆く者のすることではない。夜半に扉を閉じた御方と、暁に鍵を手渡した御方とは、同じ御方でありながら、同じ心ではなかったように筆者には思われる。あの一夜のあいだに、何かが変わったのであろう。一度あったことは、二度あるかもしれぬ。閉じた扉の前でそう思うてしまう心を、誰が咎められよう。
符合は、ほかにもある。雷冠の民の哀傷歌は、雷を、還らぬ片割れを呼ぶ声と歌うていた。呼ぶとは、応えを待つ者のすることであって、還らぬと知り尽くした者は呼ばぬ。それから、統一神書の御心の条である。時の至った者の前では、いかなる堅き門も静かに開くと、正典はたしかに記していた。読み返して、筆者は息を呑んだ。あの大扉を除くとは、どこにも書かれていないのである。しかも続く一文は、門の前に立ち尽くしてなお踏み出せぬ者を、この神は咎めず、促さず、ただ傍らで待ちたもうと続く。谷あいの村の、あの母の戸口を思い出していただきたい。御方は七日、閉ざされた戸の前に立ち、叩かず、押さず、ただ待たれた。そして八日目に、戸は内から開いた。
ここまで並べれば、筆者の思うところは、もはや隠しようがない。あの暁、兄神が灰色の御方に頼んだのは、見張ってくれ、ではなかったのではないか。待ってやってくれ、ではなかったか。時の至らぬうちは、いかなる嘆きにも、いかなる賄いにも開かず、されど、もしいつか時が至ったなら、そのときは開けてやってほしい。封じるために打たれた鍵は、あの暁、まったく別の役目を負うてあの灰色の腰に下げられたことになる。あのひと鳴りは、その返事であった。
思えば、正典の言う見張りも、偽りではないのであろう。扉の前に立ちつづける姿は、見張りと呼んでも、待つと呼んでも、遠目には寸分違わぬ。人は前者と呼んで、恐れてきただけなのかもしれぬ。
断っておくが、これは憑測ですらない。崩れた唄と、逆さに生きる民の世迷い言と、龍の遠い遠い記憶とを、都合よく撚り合わせただけの、ただの糸である。夜半と暁とのあいだに何があったかなど、確かめる術はどこにもない。ただ一つ、誰にも否めぬ事実がある。鍵は、捨てられていない。封印の暁よりこのかた一度も回されぬまま、しかし手放されもせぬまま、いまもあの腰で、他の鍵たちと同じ音を立てている。
門守神は、日の沈むごとに、鈴を鳴らして境を歩かれるという。その道筋があの大扉の前を通るのかどうかを、確かめた者はいない。されど、もし通るのであれば、あの扉の前でも鈴はひと鳴り、迷わぬようにと鳴らされているのであろう。




