神統断片拾遺 門守神ノヴ・ガーレ・シルディン その3
さて、次に統一神書にも書かれている、あのけして回されぬ鍵について語りたい。闇界の大扉の鍵。かの反逆の神を封じた錠の鍵。門守神の提げる数えきれぬ鍵のうち、ただ一本、かの闘争の終わりよりこのかた、ただの一度も回されたことがないという、あの鍵である。
統一神書は、この鍵について、在ることのほかをほとんど記していない。封印の次第についても、千年の闘争の終わりに反逆の神は討ち破られ、闇界の底に封じられた、とあるばかりで、その場の情景を伝える正典の記述は、無いに等しい。無理もないことではある。あの場に居合わせたのは神々と、ごく僅かな古き存在だけであり、人の証人は、おそらく一人もいなかった。
ただ、本書を書き進めるうちに、筆者は思わぬ縁に恵まれた。序に記した吹き流れる知恵の収集旅団の旅団長クローネ・ディ・バーガンディア殿が、諸方に手を尽くしてくれたおかげで、常であれば会うことの叶わぬ存在に会い、目にすることの難しい記録に触れる機会を、いくつも得たのである。そのなかに、この鍵の成り立ちに触れるものが、二つあった。順に記す。
一つは、黙坐の民ダグレンの古老から聞いた話である。堅磐神に連なるこの民の古老たちは、半ば岩と化して幾百年を生き、その口伝は神代に届く。例によって、一言を得るに半日を要する語りであったが、筆者の問い、すなわち、あの錠と鍵とはいずこで作られたのか、という問いに、古老はこう答えた。
……あれは……われらの神が、鍛えたもの……。闘争の、終わりの……百年を、かけて……。剣より、槍より、鎧より……長く、かけて……。あの方が、鍛えたもののうちで……いちばん、遅く……いちばん、静かに、打たれたものだ……。
錠を鍛えたのが堅磐神であることは、他の伝承とも符合する。神々の武具のことごとくを鍛えたあの炉が、最後に鍛えたのが、武具ではなく錠であったということになる。筆者が重ねて問うたのは、鍵のことである。開けるための鍵が要らぬのなら、なにゆえ錠だけを作らなかったのか。けして開けぬと定まっている錠に、なにゆえ鍵を添えたのか。古老は、長く黙った。岩と見分けのつかぬほど長く黙ってから、こう言った。
……鍵のなき錠は……錠では、ない……。ただの……継ぎ目だ……。壁と、同じだ……。……扉は……扉のままに、しておかねば……ならなかった……。
誰がそれを望んだのか、と筆者は問うた。古老はもう答えなかった。半日待ったが、それきりであった。
いま一つは、書物ではない。反逆神の章で引いた、あの古き学者の手記を覚えておられようか。千年の闘争の時代から生きる最も古き龍と語らい、かの神の本来の呼び名の手掛かりを書き残した、あの手記である。筆者はあの手記を読んで以来、この龍にまみえることを願いつづけてきた。旅団の仲立ちにより、それが一度だけ、叶った。場所と次第については、約定により記せぬ。龍は、人の齢に直せば測りようもないほど古く、言葉は確かで、そして極めて少なかった。封印の日のことを問うと、龍は長いあいだ黙し、それから、およそ次のことを語った。逐語ではない。筆者の覚えで記す。
終わりの日に、大きな戦はなかった。万夜の軍勢はすでに潰え、あの方は、闇界の大扉の前に、独りで立っておられた。神々は遠巻きにし、誰も近寄らなかった。進み出たのは、兄神おひとりであった。
二柱が何を語ったか、わたしは知らぬ。声は聞こえなかった。ただ、長かった。黄昏に始まり、夜半を過ぎても、二柱は向き合うたままであった。
扉がいつ開いたのか、わたしは見ておらぬ。気がつけば、あの方の姿はなく、扉は閉じていた。戦いの音は、ついに一度も、しなかった。
兄神が、鍵を回された。一度きりの、あの音を、わたしはまだ覚えている。錠の鳴る音とは、思えなかった。
それから兄神は、扉の前に、暁まで立っておられた。鍵は、暁に、灰色の御方の手に渡された。あの御方は受け取って、何も言わず、ただ、鈴を一度、鳴らされた。
語り終えて、龍は目を閉じた。謁見は、それで終わりであった。
断っておかねばならぬ。この証言は、統一神書の記述と、食い違う。正典は、討ち破られ、封じられた、と記す。龍の語りには、討つ場面がそもそも無い。二千年をはるかに遡る、遠い遠い昔の一夜の記憶であり、確かめる術は、どこにもない。いずれを採るかを、筆者は言わぬ。ただ、双方をこうして並べて残すことが、本書の務めであろうと思うだけである。
それでも、二つの話を書き写しながら、筆者の手が幾度か止まったことは、記しておきたい。けして回さぬと定めた鍵を、百年をかけて鍛えさせた者がいる。扉は扉のままにしておかねばならなかった、と古老は言った。封印の暁に、死者を導くあの鈴が、一度だけ鳴ったと、龍は言った。あの鈴は、世を去る者が迷わぬために鳴らされる音である。ならばあの暁、あの音は、誰のために鳴ったのか。
鍵は、いまも門守神の束にある。あの暁からこのかた、一度も回されぬまま、しかし捨てられもせぬまま、あの灰色の腰で、他の鍵たちと同じ音を立てている。




