文也の元妻と祖父の面影
祖父、危篤。
その報は、弘也が授業を受けている最中に入ってきました。
学校を早退し、高速バスに乗った弘也。
(待ってろよ爺さん、まだくたばんじゃねえぞ)
バスに乗っている間、その顔をしかめながら窓の外を凝視していました。
「爺さん!」
病室にあわてて入ると、機械につながれたままの横になっている文也の姿が見えました。どうやら寝ているらしく、スースーと息を立てながら目をつぶっています。
「今、眠りについたところです……」
そのベッドの近くには見知らぬ老婦人が立っていました。しわの刻まれた顔に、少し曲がった腰をしたその老婦人は弘也に話しかけます。
「爺さんはどうだって!?」
「……倒れたのは一過性のもので、また持ち越すだろうとお医者様は」
弘也は脱力するように、肩にかけたボストンバッグを床の上に置いてへなへなとベッド脇のイスに腰を掛けました。
そんな弘也に、老婦人はりんごの切り身を差し出します。それを食べる弘也の顔には、自然と安堵の笑みがこぼれていました。
「そうですか、あなたが電話を……」
「はい。『あいつはもう大丈夫だからかけるな』と何回も言われておりましたが、つい……」
弘也にかかってきた公衆電話からの着信は、この老婦人からのものでした。
老婦人の名前は木本典子といい、文也の元妻、弘也にとって祖母に当たる女性です。文也の面倒は、ずっとこの女性が見ていたようで、その連絡をしようと弘也の電話番号を調べて電話をかけた、とのことでした。
「何が『大丈夫』だよ。適当言いやがって」
はき捨てるように弘也が呟くと、その肩を典子がそっと支えます。
「本人も本心じゃなかったと思います。珍しく真顔で、そう言ってましたから」
「そう、ですか……すみません。頭、冷やしてきます」
弘也は病室から出ると、その足でトイレまで歩いていきました。洗面台で顔を洗い、タオルでごしごしとこすっているうちに、怒りの感情に近い何かがせりあがってきました。
「まだくたばんじゃねえぞ。……絶対に死ぬな」
洗面台のふちに手を乗せ、鏡に映っている自分の顔を睨みながら弘也はそう呟きました。
病室に戻った弘也は典子をテラスへと促し、二人はテラスに置いてあるベンチに座りました。
「すみません。自分のおばあさんだってのに、顔もわからなくて」
「いいえ。最後にあなたとお会いしたのが小学校三年生くらいの、あなたの両親の葬式の時ですから無理もないと思います」
弘也の顔を見ることはなく、典子はただうつむいて弘也にそう返しました。
「それにしても、東京にいた爺さんが何で田舎に?」
「……あの人と離婚してから、秋彦、君のお父さんは私が引き取って、あの人は田舎に引っ越したんです。私はその後再婚したのですが、ついにあの人とは会うことはありませんでした」
「離婚……ですか。なぜ?」
「……実は、私にもわかりません。突然、離婚届と通帳を差し出されまして」
「突然、ですか……」
弘也は、空を見上げました。雲ひとつなく澄んだ空に太陽がさんさんと輝き、弘也はその目を細めました。
「……俺の家、今どうなってます?」
「私と、再婚相手との子どもの一家が住んでいます。私一人では大きい家ですので」
弘也が、数年間祖父と住んでいた思い出の家。その家は今、他人の手に渡っているようでした。弘也は、大事なものがなくなるようで少しさびしい思いはするものの、もうあの家は自分たちのものじゃないんだという諦観に似た感情がわいてきているのもまた事実でした。
「あの人は……あの人はあなたと一緒にいる間、どんなふうでしたか?」
「……昔、俺、学校で問題起こしましてね」
弘也は、遠い眼をしておもむろに語りだしました。
それは弘也が中学生の時でした。
通っていた中学にいた不良に目を付けられていた当時、弘也が道場を卒業する時に貰った大事な空手の胴着が、ナイフで切り裂かれるという事件が起きました。犯人はその不良生徒であることは明白でした。
「おい正直に言えよ! これやったのてめぇなんだろ!?」
弘也はその男に詰め寄ります。
「だったらなんだよ? そんなもん新しいの買えばいいだけだろ?」
その男がへらへらと笑いながら弘也の胴着を手に取り、床にたたきつけたその瞬間。
弘也のこぶしがその男の顔面へと飛びました。そして今度は腹、みぞおち、また顔面という風にその男の体中を飛びます。
教師が止めに来るまで、ずっと弘也はその男を殴り続けました。その男の顔を、腹を、胸を。弘也のこぶしがその男の体中に跳んでいきました。
そして、弘也は一週間の謹慎処分を下されました。理由は、校内暴力。理不尽な怒りが弘也の心を駆け巡ります。
弘也は茜を伴って下校の途につきました。家に帰る弘也はずっと自分のこぶしを見つめます。
「もう落ち着こうよ! 悪いのは向こうだってわかったんだし、ね?」
「ああ。わかってんだ、そんなことは……」
弘也の背中をぽんと叩いた茜は、弘也を慰めるようにそう言いました。
しかし弘也は黙ってそのこぶしを見続けています。
誇りを踏みにじられた。
小学校の頃、必死になって空手の稽古をした証。それが、いともたやすく踏みにじられた。
やり場のない怒りが弘也を襲い続けました。
「弘也、お前いったいどういう了見だ?」
家に帰った弘也を、学校から連絡を受けた文也は玄関先で呼び止めます。
「どういう了見って、悪いのはあっちだろうが」
「確かにそうかも知れねえ、ただな……」
「っせえんだよ! なにも知らねぇクセに知った顔しやがってよ!」
弘也は文也をきっと睨んで、怒鳴りつけるように叫びます。
「あんたにゃわからねえだろうなぁ。人の誇りが汚された気持ちがよ」
彼は文也に言うだけ言うと、そのまま階段を上って自室に戻って行きました。
自分の部屋に戻った弘也はベッドにどさっと横たわり、寝返りを打ちます。
(知った口利きやがって……ふざけんな、クソッタレ)
弘也は、心の中で毒づいていました。
そのとき、ノックの音が聞こえます。
「弘也。中、入っていいか?」
「……勝手にしろ」
文也と弘也は二人向かい合うように立ち、文也は弘也の肩を抱きました。
「お前が大事にしてた胴着、ズタズタにされたんだってな。そんな相手、憎たらしいよな?」
「ああ、憎たらしいよ」
「なら、その憎しみを爺にぶつけろ。俺の頬を、思いっきりぶて」
弘也はこぶしを構えました。そしてその構えたこぶしを……スッと下ろします。
「できるわけがねえだろ、そんなこと……」
そのとたん、つめが突き刺さるほど握り締められたこぶしを、文也はそっと手に取って包みました。ごつごつしたその手のぬくもりが、自分の手からも感じられます。
「弘也、自分の誇りってのは何だと思う?」
「俺の誇りだと?」
「そうだ。じっくり考えてみろ」
弘也の顔を見て、文也は語気を強めます。
「それがわかったんなら飯食いに来い」
文也は、それだけ言って弘也の部屋を出て行きました。
弘也はベッドの上に横になり、自分のこぶしを見つめます。
(俺の、誇り……)
誇り。
俺の誇りなんて胴着ひとつで簡単に無くなるようなもんか?
なら、俺は今まで何を誇りに思って空手をやってきた?
……俺が空手をやってきたのは、何でだ?
(……そうか)
弘也は起き上がり、下へと向かいました。
「……思い出したか、その様子じゃ」
「……ああ」
「なら飯食っちまえ。明日は相手の親に謝りに行くからな」
弘也は促されるまま、食堂の自分の席に座ります。
「……誇りがけがされたってんなら、もう一度磨きなおせ。時間かけてな」
「爺さん。俺、決めたよ」
「うん?」
うつむく弘也を、文也はきょとんとした様子で見つめます。
「俺、もっと頑張るからよ。大事な人を守れるように」
文也はそっと微笑みながら弘也の正面に腰を落ち着け、そのまま食事を始めました。
「あの人がいなかったら、俺はいなかった。爺さんには感謝してもしつくせませんよ」
話し終えた弘也は、空を見上げました。
空には小鳥がさえずりながら、楽しそうに飛んでいる姿が見えました。
「あの……今日はこれからどうするんですか?」
「友人の家にお世話になります」
病室に戻った二人は文也のベッドを挟んで対面するような形になり、会話を交わします。
「そうですか。少しお話を聞かせてほしかったところですが、仕方ありませんね」
「じゃあそろそろ行きます。爺さんのこと、よろしくお願いします」
弘也は、念を押すように典子に頭を下げました。
「……ええ、わかりました」
弘也はベッドで横になっている祖父を一瞥すると、そのまま病室から出て行きました。
バス停からの帰り道、思い切って自分の家があった場所まで足を伸ばしました。
たどり着いたそこには自分が数年間過ごした、その洋風二階建ての家が建っていました。
夕日に照らされたその少し古ぼけた、くたびれたような家は、弘也が東京に引っ越しても、微塵たりとも変わらない姿のままです。
しかし、その表札が『高橋』から『木本』に変わっているという、ただひとつ違うそのことだけが、もう弘也が知っている家とは違うという事を指し示していました。
弘也はため息ひとつつくと、泊めてくれる予定になっている茜の自宅がある団地へと足を進めました。




