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異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~  作者: 雫石しま


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第9話 熊ちゃんとの別れ

「熊ちゃん!」


「グリズリー様!」


 宿屋にいた全員の視線が、一斉に入口へ向いた。


 熊ちゃんは宿屋の入口を豪快に壊してしまった。


 押し戸と引き戸を間違えたらしい。


 分厚い木の扉は蝶番ごと外れ、床に無残な姿で転がっている。


「あぁ、すまん」


 熊ちゃんは頭をぽりぽりと掻いた。


「あとで修理させる」


 そう言って、申し訳なさそうにギルの手へ金貨を一枚握らせる。


 ギルは金貨と壊れた扉を見比べて、苦笑いを浮かべた。


「……毎度あり?」


 思わず吹き出しそうになる。


 そうだ。


 熊ちゃんは昔から、いろいろなものを壊す人だった。


 スマホを握れば、力加減を間違えて液晶が蜘蛛の巣みたいにひび割れる。


 冬の除雪では、雪が止まないことに腹を立ててスコップを振り下ろし、愛車のルーフへ見事な穴を開けた。


 寸胴鍋を持ち上げれば取っ手を曲げ、椅子へ座れば脚を折る。


 そのたび私は呆れながら笑っていた。


 今思えば、あれも幸せな日常だった。


「爽子」


 熊ちゃんはズンズンとキッチンへ歩いてくる。


 大きな体が近づくだけで、宿屋の床がミシミシと軋んだ。


 そして大きな手が、私の腕をそっと掴む。


 温かい。


 あの日と同じ温もりだった。


 私は反射的に息を呑む。


「なに?」


 懐かしさを押し殺し、熊ちゃんを睨み返した。


「今さら、なんの用?」


 熊ちゃんは一瞬だけ言葉を失い、困ったように目を逸らす。


 やがて視線はキッチンカウンターへ向いた。


 そこには、食べかけの肉じゃが風ポテトソテーが残っている。


 照りのある甘辛いタレ。


 こんがり焼けたじゃがいも。


 熊ちゃんはその皿を、昔の宝物でも見るような目で見つめていた。


「……これ」


 震える指でフォークを持つ。


 ゆっくりとじゃがいもを刺し、口へ運んだ。


 醤油の香ばしい香りがふわりと立ち上る。


 一口。


 二口。


 熊ちゃんは静かに噛み締めた。


 そして、眉間に皺を寄せたまま天井を仰ぐ。


 私は知っている。


 熊ちゃんが本当に美味しいものを食べた時の癖だ。


「あぁ……」


 小さく息を吐く。


「うまいな」


 その一言には、いろいろな感情が混じっていた。


「爽子の味だ」


 胸の奥が熱くなる。


 狭い厨房。


 二人で仕込みをした朝。


 営業が終わったあと、余った肉じゃがをつまみながら缶ビールを飲んだ夜。


 笑い合って過ごした何気ない日々が、一気に蘇った。


 泣きそうになる。


 でも、泣かない。


「爽子」


 熊ちゃんは私の手をもう一度しっかり握った。


 周りではギルもドワーフも獣人たちも、固唾を呑んで見守っている。


 宿屋の中が静まり返った。


 熊ちゃんは真っ直ぐ私を見つめた。


「爽子。本当に出ていくのか?」


「……」


「俺の側に、いないのか?」


「……はい?」


 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


 思わず聞き返す。


「熊ちゃん」


 私は静かに問い掛ける。


「熊ちゃんには奥さんがいるよね?」


「……ああ」


 迷いもなく頷く。


 その一言で、胸の奥から怒りが込み上げてきた。


「じゃあ、私は?」


 声が震える。


「私は熊ちゃんにとって何なの?」


 熊ちゃんは少しだけ考えたあと、真面目な顔で言った。


「第二夫人にならないか?」


 次の瞬間。


 私の右手は勢いよく振り抜かれていた。


 パシン!


 乾いた音が宿屋中へ響く。


 熊ちゃんの頬が横を向く。


 ドワーフたちは「ひぇっ」と肩を震わせ、物陰へ隠れた。


 妖精たちまで羽を縮めて天井へ逃げていく。


 獣人たちは耳を伏せ、誰一人声を出せない。


「バカにしないで!」


 怒鳴った声が、自分でも驚くほど大きかった。


「まっぴらごめんよ!」


「爽子、怒らないでくれ。この国じゃ、それが当たり前なんだ」


「当たり前だろうと、なんだろうと関係ない!」


 私は熊ちゃんの胸を押した。


「私が育った世界では違う!」


 熊ちゃんは何か言い返そうとして口を開く。


 でも言葉が出てこない。


「爽子」


 絞り出すような声だった。


「俺のために、うまい料理を作ってくれ」


 その言葉に、私は静かに首を振る。


「一緒に暮らしてくれ」


「私は熊ちゃんの料理人じゃないわ」


 涙が込み上げる。


 それでも笑った。


「私は、一人で生きていくから」


 熊ちゃんはしばらく私を見つめていた。


 何かを諦めたように、小さく頷く。


「……そうか」


 それだけ言うと踵を返した。


 壊れた扉をまたぎ、甲冑姿の従者たちを引き連れて辺境伯の城へ帰っていく。


 途中で何度も振り返った。


 でも私は、もう手を振らなかった。


 その大きな背中が霧の向こうへ消えていく。


 私は静かに見送りながら、心の中で本当の意味の別れを告げた。


 もう夫婦じゃない。


 思い出は消えない。


 でも、私は前を向いて歩いていく。


 ギルがそっと隣へやって来た。


「爽子、それでいいのかい?」


 私は涙を拭い、精一杯の笑顔で振り返る。


「ええ」


 胸の奥はまだ痛む。


 それでも、迷いはなかった。


「これでいいの」


 私は宿屋のキッチンを見渡した。


 鍋がある。


 包丁がある。


 待ってくれるお客さんがいる。


「もう熊ちゃんとは、違う人生を歩んでいるから」


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