第64話 爽子に想いを馳せる
夕暮れのオホーツク領。
ア・バーシリーの辺境伯の城の塔に、月桂樹の旗が静かにはためいていた。
城門が開き、土煙を上げながら一団の騎兵隊が帰還する。
馬の蹄が石畳を打ち鳴らし、甲冑を身につけた兵士たちは長い遠征の疲れを滲ませながらも、どこか誇らしげだった。
「グリズリー様、ただいま帰還いたしました!」
騎士団長が片膝をつく。
俺は執務机から立ち上がり、小さく頷いた。
「ご苦労だった。サッポローはどうだった?」
「はい。街道の治安も良く、小麦畑も順調に育っております」
騎士団長は報告書を広げながら続ける。
「今年は天候にも恵まれ、小麦の出来は例年以上とのことでした」
「そうか」
「それから、トーカチーでは新たに大きな水車を建設しております。」
「水車?」
「はい。デントコーンを細かく粉砕するための設備だそうです」
思わず眉が動く。
「デントコーンを?誰の発案だ?」
「詳しくは存じませんが、町では新しく開いた食堂酒場の店主が考えた方法だと聞きました」
胸が、どくりと鳴った。
「その店主は、料理が得意でして......町で知らぬものはいないとのことで......」
騎士団長はどこか嬉しそうに笑った。
「町中の評判になっております」
「どんな店だ、店の名は?」
「ヴェダー亭、と申しました」
その名前を聞いた瞬間。
胸の奥で止まっていた時間がゆっくりと動き出した。
ヴェダー亭。
爽子なら、そう名付けそうだ。二人で切り盛りした、ラーメンヴェダ亭。
騎士団長は続ける。
「野営を張った際、その店で二十人分の食事を作っていただきました」
「ほう」
「赤い野菜がたっぷり入った、味わい深いスープでございました」
「赤い野菜?」
「トマトです」
俺は息を呑む。
「その料理は、『ミネストローネ』と呼ばれておりました」
「……ミネストローネ」
その言葉が耳に届いた瞬間、遠い記憶が一気によみがえった。
札幌の小さなアパート。
冬の夜。
店が終わったあと、爽子が鍋いっぱいに作ってくれた赤いスープ。
『熊ちゃん、野菜もちゃんと食べなきゃ』
笑いながら差し出された湯気。
優しいトマトの香り。
「……爽子」
思わず小さく呟いていた。
ミネストローネという呼び名を知っている人間はいない。
間違いない。
爽子だ。
爽子が、生きている。
騎士団長は静かに立ち上がった。
「それと」
後ろに控えていた兵士へ目配せする。
兵士は木箱を大切そうに抱え、俺の前へ運んできた。
「店主から預かってまいりました」
「俺に?」
「辺境伯様へ献上してほしいと」
俺はゆっくりと木箱へ手を伸ばす。
蓋を開けた。
藁の上に並ぶ真っ赤なトマト。
朝露を閉じ込めたように艶やかだった。
その瞬間。
「♪さわっこの畑で採れたトマト♪」
「♪あまくておいしいトマト♪」
「♪たくさん食べてねー♪」
トマトたちが元気よく歌い始めた。
騎士団長も兵士たちも笑っている。
「不思議な野菜でしょう」
俺は何も答えられなかった。
震える手で一つ手に取る。
まだほんのりと温もりが残っている気がした。
「いただきます」
一口。
皮が弾ける。
甘さ。
ほどよい酸味。
青臭さがなく、口いっぱいに広がる優しい香り。
思わず目を閉じた。
「……爽子のトマトだ」
その瞬間だった。
熱いものが込み上げる。
一筋の涙が頬を伝った。
あいつは生きていた。
一人で。
トーカチーで店を開き、町の人たちを笑顔にしている。
あの料理で。
あの優しさで。
「……会いたい」
心の奥底から、その言葉が漏れた。
もう一度だけでも。
元気な顔を見たい。
謝りたい。
伝えたいことが山ほどある。
その時だった。
背後から冷たい視線を感じる。
振り向く。
そこには妻が立っていた。
豪華なドレスの裾を握りしめ、唇を強く噛み締めている。
眉間には深い皺。
その視線は俺ではなく、木箱の中のトマトへ向けられていた。
まるで憎しみを込めるように。
俺は静かに木箱を差し出す。
「お前も食べてみないか?」
もう一つのトマトを手に取る。
「うまいぞ」
妻はピクリとも笑わなかった。
「……結構です!」
吐き捨てるように言うと、踵を返す。
長いドレスが翻る。
廊下に響く硬い足音。
バタン!
激しく扉が閉まる音が城内に響き渡った。
静寂が戻る。
俺は木箱の中のトマトを見つめる。
「♪さわっこの畑♪」
「♪また食べてね♪」
明るく歌うトマトたち。
その歌声だけが、張りつめた部屋の空気を少しだけ柔らかくしていた。
俺はそっと木箱の蓋を閉じる。
胸の中では、一つの想いだけが静かに膨らんでいた。
――爽子。
今度こそ、自分の足で会いに行こう。
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