第62話 生姜を植えよう
それから三日後――。
朝の仕込みを終え、ヴェダー亭の暖簾を掛けようとしていた時だった。
コンコン。
控えめなノックが響く。
「はい、どうぞ」
扉を開けると、そこにはテオが立っていた。
いつもの麻袋ではなく、小さな木箱を両手で大事そうに抱えている。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、どこか嬉しそうだった。
「おはようございます」
「おはようございます、テオさん」
私は木箱へ目を向ける。
「それは?」
テオは微笑みながら蓋を開いた。
ふわり。
爽やかで鼻に抜ける香りが漂う。
「生姜です」
「えっ!」
思わず声が大きくなった。
木箱の中には、土がまだついたままの立派な生姜が三つ並んでいた。
薄い桃色を帯びた芽が、可愛らしく顔を覗かせている。
「薬草園の管理人へ事情を話しました」
「譲ってくださったんですか?」
「ええ」
テオは少し照れたように笑う。
「料理の研究に使うなら、と」
「良かったぁ……」
私は両手で木箱を抱えた。
生姜の香りが胸いっぱいに広がる。
懐かしい。
この香りだけで、豚丼も生姜焼きも思い浮かぶ。
「ありがとうございます!」
「いえ」
テオは軽く首を振った。
「植えるところまで、お手伝いします」
◇◇◇
店の裏庭では、ヴェダーたちが朝から土遊びをしていた。
「ヴェダー!」
私たちを見るなり、一斉に葉っぱを揺らしながら駆け寄ってくる。
「今日は生姜を植えるよ」
「ヴェダー!」
八匹は大喜びでスコップを抱え始めた。
シマエナガも白樺の枝から「ジュリッ」と鳴き、こちらを見守っている。
テオは畑を見渡しながら頷いた。
「ここなら午後には木陰になります」
「ちょうど白樺が日差しを遮ってくれますね」
「ええ」
二人で鍬を入れる。
柔らかな土がふわりと返る。
茶色のヴェダーは得意げにペレットを一粒運んできた。
「ありがとう」
私は少しだけ土へ混ぜ込む。
今では立派な肥料だ。
テオもその様子を見て微笑んだ。
「この肥料、本当に優秀ですね」
「ヴェダーたちのおかげです」
「ヴェダー!」
胸を張る姿が何とも誇らしい。
テオは生姜を一つ手に取り、芽の向きを確認した。
「芽を上へ向けて植えます」
「なるほど」
私も隣へしゃがみ込む。
二人で穴を掘り、生姜をそっと寝かせた。
「これくらいの深さでしょうか」
「もう少しだけ土を……」
同時に手を伸ばした。
「あっ」
指先が触れる。
土で少し汚れた指先。
ほんの一瞬だったのに、不思議と温かさが伝わった。
二人とも同時に手を引っ込める。
「す、すみません」
「いえ!」
私も少し頬が熱くなる。
テオは咳払いを一つすると、照れ隠しのように土をかぶせ始めた。
「……これで大丈夫です」
「はい」
私も笑いながら土を優しく押さえる。
ヴェダーたちはその様子を真似して、小さな手で一生懸命土をぽんぽん叩いていた。
「ヴェダー!」
最後に井戸の水を汲む。
「ヒィ……」
井戸の精霊が相変わらず小さく悲鳴を上げる。
「ごめんね、今日もお水をもらうね」
桶いっぱいの水を、生姜の根元へ静かに流した。
黒い土がゆっくりと水を吸い込んでいく。
私は植え終えた畝を眺め、大きく息を吐いた。
「大きく育ってね」
テオも隣へ並ぶ。
「順調なら……」
空を見上げながら言った。
「収穫は秋口ですね」
「秋かぁ」
その頃には、店ももっと賑やかになっているだろう。
豚丼も。
生姜焼きも。
温かい生姜入りのスープも。
きっと作れる。
「楽しみですね」
「ええ」
私は笑顔で頷いた。
テオも柔らかく微笑み返す。
夏の風が白樺を揺らし、生姜を植えたばかりの畑を優しく撫でていった。
その足元では、ヴェダーたちが小さなジョウロで何度も水を撒いている。
「ヴェダー!」
「そんなにあげたら、生姜もびっくりしちゃうよ」
私が笑うと、ヴェダーたちは「あっ」というように葉っぱを揺らし、慌ててジョウロを置いた。
それを見たテオが小さく吹き出す。
「ふふっ」
「可愛いでしょう?」
「ええ」
彼はヴェダーたちを見つめながら頷いた。
「この畑も、この店も……本当に温かい場所ですね」
その言葉が嬉しくて、私は生姜を植えた畝をもう一度見つめた。
秋になれば、この小さな芽は立派な生姜へ育つ。
その日を思い描きながら、私たちは穏やかな笑顔を交わした。
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