すれ違いの日々
診察業務はだいたい日没前後に片付くけれど、治療院の仕事は診察だけではない。売上の計上だったり、患者情報の整理だったり、書類仕事もまあまあある。
すっかり夜も更けて患者が捌けた後、マリアは副院長室の自分の机で執務にあたっていた。手元にランプを点けているけれど、現代日本に比べればだいぶ暗い。それでも、丸一日ほぼ誰とも話さないまま1人で宿舎に戻って寝るまでの時間を持て余すよりは、いくぶん気持ちを明るく保てる。
その時、聞き覚えのある足音に続いて、部屋の扉をノックする音が響く。
「はーい! ······クリスさん?」
「えっ、マリア?」
ほどなくクリスが入ってくる。会話をするのは随分と久しぶりな気がする。治療院の仕事と教育係の仕事、両立するのは目の回るような忙しさだろうに、クリスの顔色はむしろ記憶の中のそれより明るく見えた。無理をしていないだろうか。マリアは少々心配になった。
「お久しぶりです。クリスさん、お疲れではないですか? お茶でも淹れましょうか」
「ありがと、大丈夫だよ。マリアこそ、まだ仕事してたの?」
「あはは······何だかんだと終わらなくて······」
「僕のぶんまでやってもらってるもんね······負担かけてごめんね」
ふにゃり、眉を下げて謝るクリスの顔はいつものゴールデンレトリバーで、マリアは少し安心して話題を変えた。
「ヒマリちゃんから聞いてます。講義は順調みたいですね」
「うん、おかげさまで。僕が教えられたのは最初の数日だけで、もうほぼ見守るだけだよ」
「それでも週5日つきっきりなんですね」
「力は強くとも、心理的な不安定さがどうしてもあってね。教師としてというか、治療院の者として、大人として放っておけないというか」
面倒見のよいクリスらしい言葉だが、治療院の者も、大人も、マリアにも当てはまる条件だ。むしろ同郷で同性なぶん、マリアの方が相談役にはうってつけだろう。実際、マリアの講義というかお茶会はそれが目的である。
「あの、何か私にお手伝いできることはありませんか?」
少しでもヒマリの力になれたらと思う真摯な気持ちと、少しでもクリスの力になりたいと思う下心が、同じ重さで同居しての台詞だった。きっとクリスならマリアの気持ちを汲んで、相談してくれる。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。ヒマリは僕に任せて、マリアは治療院を頼むね」
——あれ? 予想よりもぴしゃりとした拒絶。
「あ、それなら、治療院の書類は全部私が捌きますね。クリスさんの確認が必要なところだけチェックして頂けば」
「いや、それも今まで通りの分担でいいよ。マリアの仕事がこれ以上長引いたら大変だから」
「でもどうせ仕事が終わったら寝るだけだし、その寝る場所はすぐ近くの宿舎ですし······」
「女性と深夜まで2人きりでこの部屋にいるわけにはいかないでしょ? さ、今日もそろそろ切り上げて帰った方がいい」
またしてもはっきりと断られてしまった。というか、もしかして、釘を刺された、のだろうか。少なくともマリアの些細な下心は敢え無く砕け散ったことになる。
仕方なく暇を告げて副院長室から出る。ちくり。不思議と少しだけ胸が痛んだ。深く分かり合えていると思っていた先輩の言葉を読み違ったのが、自分で思うよりショックだったのかもしれない。
この世界でたった一人の理解者が、そうではなくなっていく恐怖。
「せめて何かできること、ないかな……。あ。差し入れとか?」
ちょっとした差し入れを置いておくくらいなら、少なくとも邪魔にはならないだろう。きっと夜中まで仕事をするだろうから、糖分が補給できるものがいい。
もともとお菓子作りなんて趣味はなかったマリアでもレシピがなんとなくわかるもの、こちらにある器具でも作れそうなもの。ああ、パウンドケーキにしよう。
思い立ったが吉日だ。どうせまだ夜は長い。
マリアは足早に宿舎に帰り、泡立て器片手にバターと格闘を始めた。手動でかき立てるのは骨が折れたが、無心で手を動かしたことで、もやもやした気持ちがだいぶ飛んでいってくれた。宿舎の共用キッチンで、中が見えないオーブンの前にしゃがみ込んで生地が膨らむのを待つ。この退屈な時間はなんだか楽しくて、マリアの期待も膨らんだ。
焼き上がったケーキは、粗熱がとれたら程よい大きさに切りわけ、綺麗な焼き目の部分を選んで紙で包む。端っこのちょっと焦げた部分は、マリアの明日の朝ごはんだ。
包みにリボンの1つでもかけようかと思ったが、さりげない差し入れが差し出がましいプレゼントになってしまっては嫌だからやめておいた。代わりに宛名と「お疲れ様です」のメモを添えて、共有キッチンのテーブルに置いた。
クリスは、きっと夜食か朝食を摂りにここに来る。このケーキを見つけたらどうするのだろう。朝ごはん? それとも明日の深夜に書類仕事のお供になるだろうか。
いつでもいいけれど、食べて、ほっとして、少しでもマリアのことを思い出してくれますように。気持ちを込めて、キッチンの灯りを消した。
寝支度をしてベッドに入ると、泡立て器との共闘の結果である右腕の心地いい怠さが、久しぶりに深い眠りに誘ってくれた。
翌朝、マリアがキッチンへ行くと、クリスはもう王城へ出勤した様子だった。マリア自身そこまで長い睡眠はとっていないのに、より遅く帰って早く出かけるなんて、クリスの体が心配になる。同時に、無事に紙包みがなくなっていたことにはほっと胸を撫で下ろした。
その日は1日中、どこかそわそわしながら治療をこなし、さくさく書類を片付けて宿舎に戻った。夕食を摂ろうとキッチンへ行くと、珍しくクリスが先にいた。てっきり今頃はマリアと入れ違いに書類業務にかかっているものと思っていたのに。
「マリア、お疲れ様! 差し入れありがとうね!」
「あっ、いえ!」
「マリアもお茶飲む?」
「! い、いただきます!」
クリスの手にはちょうど沸いたばかりのケトルが握られていた。なんとタイミングがよいことか、クリスはこれからティーブレイクらしい。もしかしたら、マリアの差し入れが目の前で役目を果たせるかもしれない。思わず期待が高まる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「マリア夕飯食べた? もしお腹に余裕があるなら、これ一緒にどうかな?」
クリスが差し出してきたのはパウンドケーキの紙包み——ではなかった。
「なん、ですか······? この包み」
「ヒマリが今日焼いたクッキーだよ。けっこう美味しいんだ、これが」
クリスは説明しつつ包みを破いて、すぐさま口の中に1、2枚放り込む。中を覗くと、ハーブか茶葉か何かが練り込まれたシンプルな円形のクッキーがたくさん積み重なっていた。バターと香草の香りがたちこめる。
「あっ、そ、そうなんですね! さすがヒマリちゃんだなぁ······じゃあ、遠慮なく」
力なく笑みを貼り付けてクッキーに手を伸ばす。
「おいしい······」
香草のチョイスとか、程よくほろほろ崩れる配合とかが絶妙なとてもおいしいクッキーだ。たぶん、マリアが作ったプレーンのパウンドケーキよりも、ずっと。
「だよねぇ。マリア、もっと食べときな」
クリスはこの国の人間なのだから、大聖女さまであるヒマリの作ったクッキーなんて、とてもありがたいものだろう。それを惜しげもなく分けてくれるのだ、本当に優しい先輩だ。ありがたい。
でも、マリアのパウンドケーキは、昨日包んだ形のまま、クリスの鞄からひょこっと顔を出している。その包みが泣いている気がして、今日ばかりは素直に喜べないマリアがいた。
すれ違って参りましたが、ここから先は明日投稿しようと思います。続きもお読み頂ければ幸いです。
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