奇跡
どれくらいの時間が経っただろうか。一瞬だった気もするし、数時間こうしていたような気もする。
ホワイトアウトしていた視界が戻ってきて、マリアの目に最初に飛び込んだのは、クリスの瞳の青だった。
「マリ——」
「クリス!!」
膝の上に乗せていたクリスの頭をかき抱く。抱きしめた髪はサラサラの金髪で、触れる頬には傷1つなく、何より温かい。
温もりを逃すまいと味わううちに、視界の外もざわめきだした。
「なぜ、俺はあの時確実に······」
「どうして、手足がある······」
「あんなに熱くて苦しかったのに、なんで······?」
口々に疑問を呈するはヒマリの護衛騎士達だ。湖の畔からヒマリの周りまで、至る所で喜びと驚きが混じった顔で呆けている。
ヒマリが抱きしめていた塊も、年若い騎士へと変貌していた。
「ヒマリ様、お怪我は——」
「そんなのいいの! ······生きてる······っ!」
ヒマリ自身の半身ももう炭ではなくいつもの瑞々しい肌だし、とめどなく滴っていた血の代わりに涙を迸らせて騎士を抱きしめていた。
燃えた木々は青々と繁り、濁った水に浮いた魚すら更に生き生きと泳ぎ跳ねる。ドラゴンによる厄災の痕跡は、もうどこにもない。
――しかし、痕跡がなくとも、ドラゴンはまだそこに在る。
ズシン、ズシンと2回の足音。ドラゴンがマリアに向かって歩みを進めた。
一気に臨戦態勢になる騎士達を無言で制してマリアは立ち上がる。そして、住処に踏み入ってしまったことと、留めを刺そうとしていた獲物を横取りしたことに対して腰を折って謝罪の意を示す。
ドラゴンは一呼吸マリアの全身を見つめてから、小さくクルルと鳴いた。
それを聞いたマリアが体を起こすと、ドラゴンは静かに目を閉じ頭を下げ、マリアの鳩尾のあたりに自身の鼻先をちょん、と擦り寄せた。
そして、くるりと向きを変え、ズシン、ズシンと森の奥へと消えていった。
「助か、った······?」
「信じられない。ドラゴンのキスをこの目で見られるなんて······」
「こんなこと、聖書の時代の夢物語だとばかり......」
「皆、話は後だ! 手早く撤退の準備を!」
再びざわめく騎士達をコンラッドが取りまとめ、一行は森からの脱出を急ぐ。
マリアが歩くのは、当然クリスの左隣。
森を抜けると、夏の日差しが降り注ぐ。2人は一瞬だけ眩しさに目を細め、すぐに同じ方向を見据えて歩き出した。どちらからともなく重ねた手を、互いにしっかりと握ったままで。
***
ドラゴンとの邂逅の顛末は、すぐに国中に知れ渡った。
「大聖女さま」の行方はすべての国民の関心事だし、大聖女さまさえ手も足も出ないドラゴンを従えた「ただの聖女」の存在はそれ以上に注目の的となったからだ。
このためマリアはヒマリの帰城に随伴する形で王城に招聘された。
こうして今、マリアはクリスと共に謁見の間の扉の前に立っている。前回は糾弾されるのを恐れてこれの前で立ち尽くしていたっけ。できることならくぐらず走り去りたいくらいの、地獄の門のような扉だった。
でも、今のマリアは、この扉が開く瞬間を待っている。
前回と違って、クリスの肘に手をかけて正式なエスコートの形で。治療院で使っている白衣ではなく白絹に金の刺繡が施されたローブを纏って。
今も、実は怖い。クリスとヒマリの真相を大半の貴族は知らないわけで、如何にドラゴンを鎮めた功績があったとて、マリアに対する心証は良いものではないかもしれない。
それでもマリアはこの扉をくぐる。自らの意思で、皆の前に立とうとしている。もうクリスの隣を自ら明け渡すことだけはしないと決めたから。
扉が、開く。




