もう逃げない
《緊急事態です。ドラゴンが出ました。大聖女さま一行は壊滅状態です》
影の言葉を反芻する。何度も何度も噛み砕くうち、理解を拒否した脳でもその意味を受け取った。
「どういうこと!? 魔物の浄化に行っただけなのに、ドラゴンなんて!」
この世界において、ドラゴンは魔物に分類されない。討伐も浄化もできない自然の守護者、一種の神のような存在だ。個体数はとても少なく、国内のドラゴンの巣は公式に調査され公開されている。
住処を荒らされることを極端に嫌うドラゴンを刺激しないように、立ち入り禁止区域になっているのだ。
今回クリス達が向かった森に、ドラゴンの生息情報などない。痕跡すら報告されていない。
《浄化が順調に進み、これまで踏み込めなかった森の奥まで進んだ結果、未発見のドラゴンに遭遇した模様です》
「そんな……」
《マリア様は高度な治癒魔法を使えるとか。貴女様を守れと命じられた影の身で、恥を忍んでお願い申し上げます。ブラックリー家をお救いくださいませんか。危険な場所ではありますが、マリア様のことは私が命に代えてもお守り致します。どうか、どうか》
普段、影からマリアに話しかけることはまずない。
主の命令第一で、マリアの安全確保に心血を注いでくれている。それを命に背いてまでマリアを戦場に駆り出そうとは、事態は本当に切迫しているらしい。
《今は大聖女さまが治癒魔法をかけ続けてくださって耐えています。しかしドラゴンの猛攻に、回復が間に合っていません。コンラッド様も、クリストファー様も、目を覚ましません。全滅は時間の問題です。もしかしたらもう……それでも……》
ヒマリに、本物の大聖女にも治せない傷に、浄化できないドラゴン。偽物の、中途半端なマリアが行ってそこそこ強いだけの治癒魔法を使ったとて、どうにもならないのは明白だ。
でも。
ヒマリは治療を生業にしたことはない。治癒魔法だけなら、マリアでも役に立てるかもしれない。
今ならまだクリスを助けられるかもしれない。
もう一度会えるかもしれない。
「連れて行ってください」
何かできるかもしれないのに、何もしないで逃げることはできなかった。何もできなくても、もしここでクリスに背を向けたら一生後悔する。
影はマリアの返答を聞くや否や、マリアを抱えて風のように駆け出した。
***
森を背負われて駆け抜ける。
ある一定のラインを越えたところで、空気が変わった。鉄の匂い、生々しい湿気。戦場が、クリスが近い。
《見えてきました。あぁっ……》
小さな湖のほとり、少しだけ開けた空間に出た。陰の背から降りてクリスを探す。
飛び込んできたのは、血生臭いことに慣れているはずの影でも堪えきれずに声を漏らすほどの凄惨な光景だった。
そこここに護衛騎士の手足だったものが転がっていて、地面と水面を赤黒く染めている。
ドラゴンが吐いたであろう炎が木々を燃やし、その根元に落ちているの黒焦げの塊は人間ほどの大きさで、ぴくぴく震えているように見える。
なぎ倒された木々の向こうに巨大な気配を感じて目を向ける。深紅の鱗の巨竜が、あらかたの人間を殲滅して少し溜飲を下げたのか、静かに佇んで何かを冷ややかに見下ろしていた。
ドラゴンの足元で震えているのは、ヒマリだ。その周りには一際多くの騎士達が積み重なり、死してなおヒマリを守るかのように取り囲んでいる。
ヒマリ自身、半身が焦げているし、遠目にも分かるほど出血が多い。マリアの全力を以てしても助かるかどうか。それでもヒマリは抱えた何かに治癒魔法をかけ続けていた。
ドラゴンが無情に少しだけ口を開く。隙間から熱を感じる光が漏れ出している。
間もなくドラゴンは息を吐く。
ドラゴンにとっては侵入者の排除が済んだ安堵のため息でも、その一息でヒマリも周りに転がる騎士たちの亡骸も灰と化すだろう。その瞬間が文字通り一呼吸の内にやってくる。
《間に合わなかった……ああ、コンラッド様、クリストファー様……》
もはやこの場に「生存者」と呼べる者は居ないに等しい。影すら目を覆って立ち止まる。
《マリア様、逃げましょう。こちらにお連れしたのは間違いでした。もはや貴女様とお子だけがブラックリー家の希望》
しかし影の呼びかけがマリアの耳に届くことはなかった。
「——見つけた」
座り込むヒマリの足元、倒れている男性。突っ伏しているから顔はよく見えないし、本来は輝く金のはずの髪は昨晩見た栗色ですらなく、ほぼ血と炭色だ。
けれど、マリアだけは彼を絶対に見失わない。
マリアは彼を助けるためにここに来た。
ほとんど反射的に彼に駆け寄る。そのすぐ近くには、ドラゴンが鋭い眼光で人間どもを見下ろしている。本能的に恐怖で鳥肌が立つ。それでもマリアは足を止めなかった。
(危ないところに連れてきてごめんね。少しだけ力を貸してね)
下腹部に手を当てて庇いながら、全力で走る。
「クリス!!」
ドラゴンが炎の息を吐き出す寸前、マリアはクリスを抱き締めた。
抱き起こしたクリスはぐったりと重たい。昨日あれほど温かかったはず体は血に濡れて冷え切っている。あれほど力強く聴こえたはずの鼓動が、ない。
マリアの大好きな柔和な笑みを浮かべるべき顔は、ドラゴンの爪と炎でぐちゃぐちゃだ。王立治療院でもこんな酷い傷は見たことがない。治療に慣れているマリアだって目を逸らしたくなる。
——クリスでなければ。
この人は、クリスだ。もう決して背を向けないと誓った、マリアの最愛。
見るに堪えない、クリスだった顔を覗き込んで微笑みかける。
「クリス。全部全部、あなたに背負わせてごめんね。これからは私が、私の方から、貴方の隣に飛び込むからね」
クリスの左手にマリアの右手を重ねる。あの夜に繋いだ手。忘れられない温もり。今や焦げて硬直したそれは、触れただけで崩れ落ちそうだ。
それでも。
「大丈夫、壊れない。壊さないよ」
マリアは重ねた手に力を込めた。もう離さない、覚悟を乗せて。
炭化した手が崩れ落ちるより早く、光が生まれた。
マリアの治癒魔法。
「マリアさん……クリス先生は、もう……」
ヒマリが嗚咽しながら朦朧と呟く。死んだ細胞には治癒魔法は通らない。ただの聖女マリアには、いや大聖女だとしても、死んだクリスを救えない。
それでもマリアは魔法を注ぐ。
努力しても叶わないことがある。
そんなの嫌という程知っている。
マリアはいつだって中途半端。本当に欲しいものには手が届かない。傷つかないためには、分不相応な望みを持たないこと。それが出来損ないのマリアでも、そこそこ幸せに生きるコツ。
——それでも。
どうやったって諦められないことがある。
今のマリアは知っている。
中途半端なマリアに芽生えた、中途半端じゃない気持ち。身の丈に合わない望みには、無様なまでに背伸びしよう。千切れるほどに手を延ばそう。
それがマリアがクリスの隣で、とびきり幸せに生きる唯一の方法だ。
光が次第に強まる。溢れる。包み込む。
クリスも、マリアも、ヒマリも、騎士達も、ドラゴンや森さえも光に染まる。全ての視界が白に溶けていく。
今の私にはできる。貴方を治すことが、貴方に向き合うことが。
私はもう逃げない。貴方から、自分の役割から。
だから、戻ってきて、クリス。
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