やっと言える
北部で暮らし始めて1ヶ月、お茶目な爺と優しいばあやに支えられて、マリアはすこぶる順調に穏やかな日々を過ごした。体調も万全だ。
お腹はまだまだ目立たないが、横から凝視すると少しだけ膨らんで見えるようになってきた。
「マリア様、今日のお昼は何を召し上がりたいですか?」
「ええ、どうしよう。ばあやのお料理はなんでも美味しいからなあ」
「ミートボールのトマト煮はいかがですかな。庭のトマトとバジルが良い感じに繁っておりますぞ」
「爺、ついにガーデニングまで手を出し始めたのね……?」
「ほほ、ブラックリー邸を回すのに比べたら、このお家を切り盛りするだけでは暇すぎますからな。何しろマリア様は我儘のひとつも仰ってくださいませんもので」
「だって、爺もばあやも十分過ぎるほど色々やってくれるから、これ以上何かをおねだりする必要がないのよ」
2人ともだいぶ打ち解けた。コンラッドも10日に1回ほど影を通じて困ったことがないか聞き取りをしてくれているし、裏から家を守ってくれている影からこの家を嗅ぎ回っている不届き者がいないことも確認しているから、マリアの生活には何の心配もなかった。
時折クリスのことを思い出す。遠い王都で、今頃はまた王立治療院で人々を救っているはずだ。もしかしたら浄化の旅に同行してこの国を守っているかもしれない。
どちらもクリスの生きがいとなってくれることだろう。
浄化の旅ということは、ヒマリの側にいるということだ。
でもマリアの心はもう揺れない。クリスの気持ちは、マリアの側に置いて行ってくれた。
ただどうか無事で、幸せでいて欲しいとだけ願う。
もう会えなくても、いつかクリスがマリアではない誰かを伴侶に選んでも、クリスを想い続けるのだけはマリアの自由だ。
彼を好きでいることを、自分に許した。
彼への愛情から目を背けるのはもうやめた。
「そういえば、クリス坊ちゃんが大聖女さまの旅に同行して北部にいらっしゃるらしいですぞ」
マリアが思いを馳せていたら、ちょうど爺から情報がもたらされた。
「さすがクリスだね。でも、この地方の魔物は特に凶暴だと聞いたんだけど……怪我しないといいな」
「心配ご無用、と申し上げたいところですが、確かに北部の魔物は大型で強い上、数も多いですからな。老婆心ながら心配です。私は婆ではなく爺ですが」
「爺……」
軽口を叩きながらも、爺も少しそわそわしている。
領主であるコンラッドも浄化に同行するだろうから、爺にとっては孫を2人とも魔物の巣に放り込むようなものなのだ。心配するに決まっている。
「きっと大丈夫だよ。討伐ではなく浄化ですもん。基本的には魔物に出くわすこともないはずだもの」
マリアは爺と自分に言い聞かせた。
***
大聖女一行が明日にも着こうかという夜。
マリアは何となく寝付けず、自室の窓辺に座って満月を眺めていた。街灯が少ないこの国では、月明かりが随分明るい。2階のマリアの部屋から庭や門が十分視認できた。
間もなく満月が中天にかかろうとしている。そろそろベッドに入ろうか。窓に背を向けつつ立ち上がったマリアの眼の端に、門を開ける人影が映った。
(――誰!?)
こんな時間に無遠慮に門をくぐるなど、まともな来客ではない。背筋が凍り、心臓が早鐘を打つ。しかし影は何も言わない。マリアの見間違いだろうか。
意を決して窓の外にもう一度目を向けた。やはり人影は間違いなくある。徐々にマリアのいる窓の方に近づいてくる。
でもマリアは逃げなかった。徐々にはっきりする人影の顔。
「マリア。来たよ」
会いたくてたまらない、もう会えない彼がそこにいた。
「クリ、ス? なぜ……その髪、目は……」
マリアがクリスを見間違うはずはない。
窓の真下にいる男性は間違いなくクリスなのだが、輝く金髪でなくありふれた栗毛をしていた。透き通る空色の瞳も、地味な茶色に染まっている。
「待たせてごめんね。明日で全てが終わる、いや始まるんだ。少し話せる?」
クリスの言葉に、マリアは上着を羽織って庭に降りた。
「ここにはもう来られないものと……一緒には居られないって」
「うん。クリストファー・ブラックリーは大聖女さまの婚約者の第1候補。マリアの側にいることは許されない。だから僕は、明日死ぬ」
「は!? 何を言って――」
「明日の討伐で行方不明になる。この髪はその時のため。明日1日だけはカツラで参加する。目も、短時間なら特殊な目薬で色を変えられるんだ。行方をくらましたらすぐに髪と目の色を変えて、着替えて、逃げる。そうしたら、この家に、ただの平民のクリスが帰ってくるよ。」
「そんなこと、できるの? 危険はないの?」
「子どもの頃から訓練に明け暮れた森だから土地勘があるんだ。森の入り口付近に崖があるから、帰りにそこに落ちたことにするつもり。捜索を担うのはコンラッドと家の者だからいくらでも誤魔化せる。ヒマリちゃんも知っているしね。トップ2人が味方なんだ、絶対に成功させる」
1ヶ月ぶりに見つめあったクリスの瞳に、一切の迷いはない。
「……本当にそれでいいの? 私は貴方に幸せでいて欲しい。家も名前も仕事も捨てて、姿まで変えて日陰を生きるなんて、そんなの」
「君の隣は日陰じゃないマリアが僕の太陽だ。僕の幸せはそこにしかない」
「クリス……」
「計画の段取りを整えるのに1ヶ月もかかったんだ。待たせてごめんね。遅くなったけど、随分遠回りしたけど、やっと言える。マリア、愛してる。君の側に僕を置いてくれる?」
たった二文字が言葉にならず、マリアはクリスに飛びついた。クリスの腕の中は温かくて、懐かしい匂いがして、少し早い心臓の音が聞こえた。
この温もりに背を向けるなんてマリアにはできない。したくない。
もう逃げるのはおしまいにしたんだから。クリスの気持ちからも、自分の気持ちからも。
マリアはクリスの背中に回した腕に力を込めた。
「私も愛してる。待ってるから。絶対に、無事で」
「うん。約束する」
硬く誓って、クリスはブラックリー邸に戻っていった。
***
目を覚ましたら、今日もよく晴れた夏の朝だった。
これなら崖で足を滑らす心配も少ないし、雨で体を冷やすこともない。きっと恙なく浄化を終えて、夜には「ただのクリス」が家に帰ってくるだろう。
爺とばあやもどことなく浮足立っていて、3人力を合わせて家を飾ったり、クリスの好物を拵えて過ごした。
夜の歓迎会に備えて軽めの昼を済まし、自室で一息ハーブティーを嗜んでいたマリアに、滅多にない影からの声が届いた。
《緊急事態です。ドラゴンが出ました。大聖女さま一行は壊滅状態です》
手からするりと抜け落ちたティーカップが、床にぶつかって粉々に割れた。
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