思い出す、心地よさ
妊娠していることは、クリスにすら言わないつもりだった。この事実は彼の罪悪感を煽り、余計にマリアから離れられなくなってしまうだろうから。見た目と治癒魔法にさえ気をつければ隠し通せるだろうと思っていた。
でも、馬から落ちた瞬間、スローモーションに見える景色の中で、マリアはお腹を守るための手段など選んでいられなかった。
案の定クリスは治癒魔法の光の残渣だけで真実を見抜いたけれど、ネタバラシついでにマリアと子の身の安全について訴えたら、事の重大さもすぐわかってくれたようだ。
結果オーライというやつだ。こうなればクリスも冷静になるだろう。
「僕と一緒にいたら、マリアの身が危ない······」
「そういうことです。いつかほとぼりが冷めたら、子どもが年齢を誤魔化せるくらい大きくなったら会えるかもしれませんね。それまではどうかお元気で」
嘘だ。マリアはもうクリスに会うつもりはない。遠い約束が、この場で少しでも事実を飲み込みやすくしてくれると思ったから言っただけ。ほとぼりが冷める頃には、クリスの心にマリアはおらず、新たな幸せを掴んでいるはずだ。そうでなくてはいけない。そうあってほしい。
「でも、僕は······」
クリスは押し黙ってしまった。思案した表情のままマリアを馬上にそっと乗せ、自身も乗り込んだ。
それでいい。考えがまとまらなくても、受け入れられなくても、この場で止まっているわけにはいかない。進んでいるうちに諦めてくれるだろう。
クリスは先ほどよりも慎重に、隣町に向けて馬を進めた。
***
「この後はどこに向かうの?」
「うーん、本当に決めてないんです」
「それなら、是非とも北部に行ってほしい。あそこなら頼れる人を紹介できるし、何より領主を信用していい。弟なら絶対に君に悪いようにはしない。万が一中央貴族に嗅ぎつけられても、守れる」
「え、でも」
「マリアは誰にも言わないつもりだろうけど、聖女として働いていたらいずれ見つかる。聖女自体が貴重だし、君の力は強いし、顔だって割れてるんだから。頼れるコネは使ってほしい。守らせてほしい。僕が君の側にいられないなら、他の手段で」
クリスの提案は正直魅力的だった。今までいたのは国の南端の地方だから、今度はできれば真反対の北の方にでも行きたかった。クリスの実家のあたりと聞いてのこのこと付き纏われるならやめようと思ったが、この様子なら大丈夫だろう。
「わかりました。助かります。では、明日の朝一番の馬車で北部に向かいますね」
「いや、1日待って。こっちで馬車を用意する。乗り合い馬車だと足跡を追われやすい」
「ええ、そこまでして頂くわけには」
「何言ってるの。マリアと僕の子を乗せる馬車だよ? 安全性、乗り心地、速度、全部最上級のものじゃないと」
「そこそこのもので大丈夫ですってば」
「体調に響いたらどうするの。ここから北部までは5日くらいかかるんだよ。それに僕自身、安物の馬車だとお尻が痛くなるから嫌なんだよね」
「待ってください。まさか一緒に来る気ですか」
「当たり前じゃない。言ったでしょ、信用できる人を紹介するって。僕本人が行ったほうが話が早いよ。紹介状を書いてもいいけど、機密事項を文書で渡すのはどうかと思うよ」
「う······それは······」
クリスの主張はぐうの音も出ない正論だった。王都から村までに早馬で2日、村から今いる町まで1日、1日挟んで北部まで5日、北部から王都までは3日くらいと聞く。そうなると、クリスは半月も仕事に穴を開けることになる。立場が本当に心配だ。
けれどこれに関してはクリスは絶対に譲らないだろう。彼の罪悪感を最小限に抑えるためにも、ここは甘えるしかない。マリアを安全なところに置いてきた達成感を持ってもらえば大人しく王都へ戻ってくれると信じたい。
「不本意ですが、よろしくお願いします······」
「うん、任せて!」
「その代わり、王立治療院の院長宛に必ず手紙を出しておいてくださいね。いつまでに帰るか。絶対ですよ」
「わかったわかった。さて、そうと決まれば今晩の宿を取らないとね。ちなみにマリア、食欲はある?」
「先ほど治癒魔法をかけたので、今は元気いっぱいです」
「よかった! じゃあまずは宿に行こう」
クリスに手を引かれて歩き出す。いつかのお祭りの時のような熱さは感じない。どちらかといえば、治療院で無邪気に笑っていた日々の温度に似ていた。ただ温かい。心地良い。
手放したくない、と思ってしまうのは自己中心的にも程があるが、思うだけなら許してほしい。絶対に漏らさず、一生抱えて生きていく。マリアはクリスの背中を見つめながら、少し潤んだ瞳を拭ってまた笑顔を貼り付けた。
案内されたのは、町一番の高級ホテルだった。
クリスは慣れた様子でチェックインを済ませる。従業員と面識はないようだが、いいところの坊ちゃんであるのは所作や平民にはまずいない金髪でバレバレの様子だ。支配人が揉み手しながら奥から飛び出してきたのがその証拠だ。
マリアはフードを被って人目につかないように顔を隠す。こうすればお忍びの貴族のボンボンが、地方都市で女を買った程度にしか見られないだろう。
「最上級の部屋を2泊頼みたい」
「はい、はい、空いてございます! すぐにご案内致しましょう」
にこにこの支配人が自ら2階の一番奥にあるスイートルームまで先導してくれた。他の部屋とは入り口がだいぶ離れているので、ここにいれば他人に見咎められることはなさそうだ。
支配人が下がってから、マリアは庶民丸出しで部屋を見回す。この国の文化らしく装飾は少ないものの、壁には絵が掛かっているし、ランプの数も多くて明るい。ベッドには天蓋つきで、何より恐ろしく広い。
「こんな部屋久々だよ」
「私は故郷にいた頃も含めて最高級の部屋なんて初めてですよ。やっぱりクリスさんって貴族なんですね······」
「はは、似合わないけどね。でも、やっぱり安宿よりは安全だし、プライバシーも守られるから······。落ち着かなかったらごめんね」
「いえ、クリスさんのことだから、きっとそういうご配慮なんだと思ってました。ありがとうございます」
「どういたしまして。さて、僕はこれから夕飯を調達してくるけど······その前に1つ」
「どうしました?」
「『さん』はなしでいい。できれば敬語もやめて。平民として生きるには言葉遣いが綺麗すぎるから」
またぐうの音も出ない正論だ。マリアはぎこちなく了承した。
「ど、努力しま······する、ね」
「よろしい」
クリスは朗らかに笑って、マリアの頭をひと撫でしてから部屋から出ていった。
本当に心臓に悪いひとだ。
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