今も貴方の幸せを
まさかまさか、クリス本人が来てしまった。逃げるのが遅かったとマリアは反省したが、見つかってしまったものは仕方がない。腹を括ってドアを開けた。
途端に視界に飛び込んでくる懐かしい顔。少し疲労が浮かんでいるが、綺麗な金髪、大きな瞳、整った鼻筋。何も変わらない。ああ、でもよく見ると少し痩せただろうか。
「マリア、マリア······!」
勢いよくクリスはマリアに抱きついた。マリアは衝撃で後ろに倒れそうになったが、クリスの腕が背中にしっかりと回されていたから転ばずに済んだ。
こうして抱きしめられたら、恐怖よりも気まずさよりも、懐かしいクリスの香りに蕩けたせいで動けないマリアがいた。
いや、ダメだ、離れなければ。クリスはヒマリの、大聖女さまの公然の恋人で、彼自身もそれを受け入れたのだから。捨てられる前にマリアの方から離れるべきだ。真実には蓋をしたまま。温かな思い出が、冷たい現実に塗り替えられないうちに。
「会いたかった······」
「!」
熱を持った声。決して逃さないと言わんばかりに強く強くマリアをかき抱く両腕。クリスの顔が乗せられたマリアの左肩は、ほんの少し湿っている。
クリスはとことん優しいから、姿を消した自分のことを心配してくれているだろうとは思っていた。それとなく探している可能性も危惧していた。しかし、ここまでの熱量はマリアには予想外だった。人は、「そこそこ好き」な、「2番目に好き」な相手にもここまで真剣になれるものなのだろうか。
少々戸惑いながらマリアは問いかける。
「どうしてここがわかったんですか? どうしてこんなところまで······」
「あらゆる伝手を必死に探した。ちょっと前に男爵夫人を助けたでしょ? そんなことができる聖女はきっと君だと思ったんだ。ここまで来た理由は、もちろん——君に会いに」
クリスはマリアから少し体を離し、マリアの両肩に手を置いて、真っ直ぐにマリアを見つめて言った。
「ヒマリちゃんとは、何もない。僕はマリアに隣にいて欲しい」
青い瞳はうっすら水気を含み揺れていたが、そこには一切の嘘が含まれていなかった。それでも、マリアに目もくれず走っていったあの夜の後ろ姿がマリアの脳裏には鮮明に焼きついていて、その瞳を素直に受け止めることなんてできなかった。
感情のままに問いただす。
「でも、実際にヒマリちゃんとの婚約が内定されてますよね? お披露目式でエスコートした人が事実上の婚約者だと伺いました。国中、それこそこんな田舎町にまで、ヒマリちゃんとクリスさんの話は広まっていますよ」
「それは、そうだったんだけど······でも信じて欲しい。僕はそんなの望んでいないし、その話自体もうすぐ反故になる。もう国王陛下と宰相閣下はその方向で動いてくれていて、来月にはヒマリちゃんと、僕じゃない貴族男性との婚約が、正式に発表される」
なんだ。やはり一時期、少なくともあの夜の段階では婚約に傾いていたんじゃないか。
でもそれも仕方ないことだ。数多の騎士や民を癒し守ってきたクリスが、やっと現れた救国の大聖女——しかも庇護欲を唆る可愛らしい女の子——に惹かれるのは、何の不思議もない。
てっきりヒマリ側もクリスを憎からず思っての婚約話だと思っていたが、別の男性との婚約がまとまるということは、クリスは振られたんだろうか。だから「2番目」だったはずのマリアがクリスの中で繰り上がって、この熱量を産生できているのだろうか。
自らの冷静さに、マリアの心はどんどん冷えた。そんな経緯で暫定1位にしてもらっても嬉しくも何ともない。中途半端には中途半端なりの意地がある。クリスに、クリス自身を騙すような形で選ばれるのは余りにも惨めだ。
マリアはクリスから目を逸らして、強張った声で言った。
「いずれにせよ、もう私には関係のないことです」
「関係ある! 僕を許せないのはわかる。でも、僕はずっとマリアを大切に思っていたよ。もう一度だけ信じてくれないか」
「後輩として可愛がってくださっていたのは知っています。悪いのは、分不相応な想いを抱いた私です」
「違う! マリアが想ってくれたのは本当に嬉しかった! それに胸を張って応えられなかった僕の落ち度だ! 本当にごめん。もう二度と君を傷つけないと誓う。だから今回だけ一緒に来て欲しい······」
クリスがどう申し開こうとも、もう公式にクリスの隣にマリアが並べることはない。本人達の本音がどうあろうと、民衆から見たらマリアは「大聖女さまの婚約者を寝取った女」なのだ。子どもの産み月から逆算されたら誤魔化しは効かない。
「一緒にって、また王立治療院で働けとでも仰るんですか? 無責任に職を投げ出した私にその権利があるとでも?」
「もちろん治療院に戻ることは無理強いしないよ。でも、もしもマリアが戻ってくれるなら、院長も僕も大歓迎だ。男爵夫人の状況を聞いたけど、頭部外傷だったのに後遺症もなく治してみせたんでしょう? それだけで間違いなく国内随一の聖女だという証明だ」
ああ、もしかしたら、徐々に強まる私の聖なる魔法に今さら目をつけて、中央に連れ戻そうとしているのだろうか。マリアの背筋がさらに凍る。
力が強くなったと言っても残念ながらまだ浄化は使えないし、たぶんマリアには今後も使えないままだと思う。自分はその程度の人間だ、とマリアは自覚している。大聖女の役割を期待されても、どうせまた失望させるだけだ。
「身に余るご評価です。ですが、私はもう王都には戻りません」
「わかった。それなら僕がここに残ろう」
「王立治療院を長い間留守になさるわけにはいかないでしょう?」
「かまわないよ。院長には、いつ戻るかわからないし、戻らないかも知れないって言って出てきた」
······は?
マリアは絶句した。
クリスは王立治療院の副院長でありエースである。
王立治療院とは日々魔物討伐で傷ついた騎士などが運び込まれてくる国の重要機関なわけで、クリスが長らく抜ける、すなわち治療が滞るようなことがあってはならない。如何にヒマリが浄化を頑張っているとは言え、まだまだ魔物の殲滅には至っておらず、浄化の旅そのものにも治癒魔法の使い手は重宝されるのだから、クリスなんてあちこちで引っ張りだこのはずである。
それを、無期限で休む? そんなのが公に知られては、クリスの信用が地の底まで失墜するはずだ。
「7年間ほぼ休みなく勤務していたんだ。無理矢理もぎ取ってきたよ。院長は君を探しに行くって言ったら快く送り出してくれたよ。むしろ君を捕まえるまで帰ってくるなって」
「それにしたって、それこそ王様や貴族から処罰されたりしたら——」
「だとしてもさすがに命までは取られないよ」
「幽閉とか肉刑とか!」
「さすがに僕も名門貴族の端くれだし、そこまでされないと思うけどなぁ」
「ご家族が連帯責任を負わされるかも!」
「うちの家はそこまでヤワじゃないよ。それにね、今の僕にとって最優先事項はマリアなの。家族のためと言い訳して自分の気持ちを後回しにしても碌なことにならないって今回で嫌というほど学んだよ。弟にすら怒られた」
「でも、でも······っ」
「僕はもう自分の気持ちから逃げるのはやめたんだ。マリアを連れて帰る。もしくは僕がここに住む。どうか僕と一緒に生きてほしい」
にっこりと距離を詰めてくるクリスの圧に、マリアはたじろぐ。
だって、もしマリアが「治療院を辞め、自分とともに日陰を生きてほしい」などと言ったら、この人はそうする覚悟だ。クリスがどれほど治療院の職務に誇りを持っていたか、間近で見ていたマリアはよく知っている。もはや生きがいであったはずのそれを、マリアの返事1つで捨て去ると言う。
そんなことはさせてはいけない。
マリアはまだクリスを愛しているのだ。
愛する人に不幸な選択をさせたくない。
多分クリスは、ヒマリへの傷心と、マリアへの罪悪感が混ざったものを恋心と勘違いしてしまっているのだと思う。だからマリアは、罪悪感を消し飛ばすくらいの笑顔を貼り付けて言った。
「落ち着いてください。この国に来て、私は今初めて自由なんです。もともと庶民なんですもん。もう貴族とか王族とかに関わりたくありません。もちろんクリスさんにも」
クリスは一瞬目を見開いて、少し傷ついた顔をした。
ごめんなさい、クリスさん。でもきっと私がつけた傷なんて、ヒマリに振られた傷に比べたら些末なものでしょう?
暫くは痛くてしょうがなくても、何か1つでも生きがいがあれば生きていけるものだ。マリアがそうだから。今この瞬間もマリアの心はぎしぎし激痛を訴えているけれど、お腹の微かな重みがうずくまりたい背中を支えてくれている。
だからクリスには治療院の仕事を続けてほしい。そしてやがて傷が癒え、痛みがなくなる頃には、マリアのことを忘れているだろう。
この決別で恨まれても、クリスが目を醒まして捨てられても、それでいい。彼が誇りを失わず、胸を張って進んでいけるならば、今更そんなことでマリアは揺るがない。
「僕は君を諦めないよ」
「私も自由を諦めません」
互いに譲らず対峙する。
正確にはマリアの言葉は嘘だ。自由なんて求めていない。本当に欲しいのはクリスの幸福だ。クリスの圧と若干の負い目から、先に目を逸らしたのはマリアだった。
「もう遅い時間ですから、一旦休みませんか。少し疲れました」
「あ、ああ、そうだよね。ごめん。また明日話そうか」
クリスは素直に頷いてくれる。マリアが不調を訴えたら、優しいクリスがこう言ってくれるのはわかっていた。
「はい。また明日」
貼り付けた笑顔のままクリスを家から追い出す。泊めてあげたいが、そういうわけにはいかない。
2人に明日はない。
マリアは夜明け前にここを発つ。
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