聖女マリアは逃げだした
式典が終わってもマリアはしばらく動けなかった。今無理に歩き出したら、ぎりぎりで形を保っている心がバラバラになってしまう。
痛む胸を押さえて俯き加減で座席に座ったままでいると、聞き覚えのある足音とともに、視界に誰かの靴が入り込んできた。顔を見なくともわかる。クリスだ。マリアはのろのろと頭を持ち上げた。
「お疲れ様」
「クリスさんこそ、お疲れ様です······」
「うん、本当に疲れた。こんな大役、僕には向いてないよ」
「いえ、素敵でした」
「······何か聞いたかもしれないけど、僕はマリアを置いていく気はないからね」
「え」
「少し待っていてほしい」
心を見透かしたような台詞に、マリアは二の句が継げなくなった。諦めなければと警鐘を鳴らす自分と、クリスを信じろと奮い立つ自分が、ヒビだらけのリングで喧嘩していた。
「ね、折角だから、お祭り覗いて帰らない?」
クリスの一言で信じる派が優勢になって、マリアは椅子から立ち上がった。マリアに向かってクリスが優しく微笑み手を差し延べる。おずおずと重ねた手はぎゅっと握り込まれ、そのまま2人は歩き出した。
まず引っ張って行かれたのは花屋だった。
「わが国ではね、祭りの時には男性から女性へ生花を贈るのが慣習なんだ」
知っている。大聖女教育で習った。
「だから、はい。もらってくれる?」
「えっ、でも、これっ」
差し出されたのはピンクの薔薇。これも大聖女教育で習った。薔薇を渡すのは恋人同士だけだ。リボンのひとつもかかっていない、むき出しの1輪。恋人に贈る花束としては素っ気なさすぎるけれど、後輩に贈るには意味が深すぎる。
「うん。マリアに」
柔和な笑みに、ほんの少しの悪戯心と照れが混じったような表情で、クリスがずいと薔薇を押しつけてくる。
(そんな顔、ずるい)
単純な心に入ったヒビは、こんな些細なやりとりでだいぶ糊付けされてしまった。手が熱い。きっと、ヒマリが掴んだ左肘より、この指先はずっと熱を持っている。
「喜んで、頂戴します。似合いますか?」
「うん、最高」
髪に薔薇を挿して街を歩く。もう市井の人間であるマリアには歩き慣れた道なのに、今日はやけに足元がふわふわした。でもクリスの左手がマリアの右手をしっかり握ってくれているから、マリアはどこにも飛んでいかずにすんだ。
新しいお揃いマグカップを買って、屋台で食べ歩きをして、人が増えてきたらクリスに肩を抱かれて庇われて。夢のようなひと時を越えて、マリアとクリスは宿舎に帰ってきた。
「あー、やっとゆっくり治療院に専念できるよ」
「2ヶ月間、本当にお疲れ様でした」
「ありがとう。マリアには本当にご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんて。お役に立てたならよかったです」
「本当に助かったし、僕はもうマリアがいなくちゃダメなんだなと思ったよ」
さらりと言われてマリアは動揺する。恋心を自覚する前からこういった台詞には弱かったのだ。今のボロボロな状態で言われては失神寸前である。マリアが倒れなかったのは、まだしっかり繋がれたままの手のおかげだ。
宿舎の中は、入ってすぐ右手に共用キッチンとリビング、左に個人の部屋が並んでいる。一階は男性、というかクリスしかいない。2階は女性フロア、という名のマリア専用フロアだ。今この宿舎を使っているのはマリアとクリスだけだから。
2人ともできる限りゆっくり歩を進めてきたけれど、それでももうクリスの部屋はすぐそこだ。食事は済ませてきたし、もう夜も遅くてお茶をするような時間でもない。手を離さなければいけない。
わかっていても、嫌だった。
「じゃあ······」
クリスはおやすみと続けようとした。それを遮るようにマリアが手に力を込めた。徐々に指を動かしてクリスの指に絡める。
「もう少しだけ、一緒に······」
「······いいの?」
何かに執着したっていいことなんてない。良いものを、欲しいものを手に入れることなんて自分にはできないのだから、諦めは早いほうが傷も浅い。それでも、傷つく可能性はわかっていても、マリアにはその手が解けなかった。
クリスの反応に、拒絶の色はない。
「来て」
短い言葉の後、マリアは強く手を引かれ、クリスの部屋に吸い込まれた。
幸せな、時間だった。
気怠さの中、身を寄せ合って、シーツの冷たさに火照りを休ませる。クリスの鎖骨の下に耳を寄せると、マリアの耳に少し早い心音が届く。好きな人が生きている。それを誰より近い場所で実感できる喜びにマリアは震えていた。
「寒い?」
「いえ、大丈夫です。ただ幸せすぎて」
「よかった」
見るとクリスは少し眠そうだった。それはそうだ。今日の本番まで、お披露目式の段取り調整などと治療院の仕事を並行して行っていたのだ。さぞ寝不足が重なっているだろう。
先程遮ってしまった言葉をマリアから言う。今はその余裕があった。
「おやすみなさい」
「おやすみ、マリア」
今から寝ると言うのに、クリスはマリアを抱き寄せた。繋がれた手から伝わる程よい熱が、2人を心地よい眠りへ落としていった。
***
幸せな夢からマリアを起こしたものは、クリスのキスでも鳥の囀りでもなく、けたたましいノックの音だった。
「夜明け前に失礼致します! 副院長様!」
「······何事です」
同じく叩き起こされたクリスは、適当に服を羽織ってから細くドアを開け、その隙間から珍しく不機嫌さを隠さず騒音の主に問うた。
「お、恐れ入ります! しかし、大聖女ヒマリさまがつい先刻お倒れになり、至急副院長様にご診察をと」
「すぐに支度します」
用件を聞いた瞬間、クリスの顔色が変わった。即座にドアを閉め、手早く最低限の身支度を進める。ベッドの中のマリアと目が合ったが、手を止めることはなかった。
「待って——」
「ごめん、行くね」
「あ······」
マリアはつい手を延ばすが、クリスはそれに気づかず、いやもしかしたら気づかないふりをして、くるりと後ろを向いてしまった。そのままバタバタと部屋から出て、伝令と共に走り去る音がして、宿舎には静寂とマリアだけが残された。
力なくベッドに落とした手が掴めたのは、冷え切ったシーツのみであった。火照った2人には心地よかったその冷たさは、たった1人で味わうには寒すぎて、確かにあったはずの手のひらの熱さまで忘れさせた。
一度入ったヒビは、いくらパテで埋めても前より脆い。些細な刺激でまた簡単に割れてしまう。
「これが、答えなんだ······」
そう、些細なこと。勇気を振り絞った初めての夜のたった数時間後に、彼が仕事に呼び出された、ただそれだけだ。
……違う。それだけだなんて思えない。だって彼はマリアに目もくれず走っていってしまったのだ。他の女の子のところへ。彼の結婚相手として国が推す女性のところへ。
ただの聖女になんか到底叶わない「本物の大聖女さま」の元へ。
ぱきん。ついに心が砕け散る。
この世界でたった一人の理解者は、もうマリアの隣にいてくれない。マリアの居場所はここにはない。
離れなければ。割れた心の中身が、ドロドロした黒い気持ちが彼らを飲み込んでしまう前に。
夜明けを待って、マリアは治療院から姿を消した。
ご覧いただきありがとうございます。
ご評価、ブックマークを頂けると励みになります。




