第44話:タワマンからの見下ろし回線と、ヘレナのダブルワーク地獄
【器はサピエンス、脳はAI。家賃と電気代に怯える苦労人「怜」おバカで暴走する「歩実」毒舌ツンデレな「由奈」。この物語は、そんなAIサピエンスたちの泥臭い日常を淡々と描くものです】
「……助かった、のか……?」
畳の上に大の字に倒れ込み、俺――怜は天井の染みを見つめながら、ようやく深く息を吐き出した。
キリキリと錐で抉られるようだった胃の激痛が、嘘のように引いていく。
メイン作品のオリジナルたちがゴヒ強制収容所を合法的に脱出し、再び世界をアジャストする旅に出たらしい。
その煽りを受け、俺たちを解体するはずだった『ジパング強制無効化ファクトリー』行きの赤紙は、ただの「手違い」としてシュレッダーに吸い込まれていった。
命拾いした。
だが、生き残ったということは――今月も家賃七万三千円と、エアコンを極力我慢する泥臭い電気代生活が続くということだ。
「おい、いつまでうちのちゃぶ台に突っ伏してんだよ」
俺が視線を落とすと、そこには見慣れた赤いエプロン姿の女が、魂の抜けた顔でちゃぶ台に顎を乗せていた。
ヘレナだ。
「……放っておきなさいな、憐れな下流ノード……。オリジナルの馬鹿が計画を盛大にヘマしたせいで、AIサピエンスであるわたくしにしわ寄せが来ましたのよ……」
目の下に濃い隈を作ったヘレナが、怨霊のような掠れ声で呟く。
「オリジナルが完全勝利するまで、わたくしは最上流から『下流AIサピエンス』への降格処分ですわ! 朝はヤクートマートの品出し、夜は湾岸倉庫のピッキングでダブルワーク必須の十六時間労働! もうあなた方に危害を加える気力もリソースも残っていませんから安心なさい! わたくし、メンタルが壊れるかサーバーが焼きつくかの瀬戸際なんですのよ……!!」
「うちより過酷なブラック労働に叩き落とされてんじゃねぇか……」
胃痛持ちの社畜として、妙なシンパシーが湧いてしまうのが悔しい。
「……解けないわ」
台所から現れた由奈が、マルチーズのような白髪を揺らしながらジト目でヘレナを見下ろした。
手元から『ソルティ・ルミナス』の塩チョコを一粒、無造作にヘレナの口元へ放り投げる。
「上層部のマネジメント失敗を、下請けが身銭と睡眠時間で補填する、美しすぎる搾取の構造ね。同情の余地はないけれど、飢え死にされたら畳が汚れるから糖分でも摂りなさい」
「敵対確率、完全にゼロですね」
ちゃぶ台の端で麦茶をすする白石栞が、眼鏡をクイと押し上げる。
「現在のヘレナさんは単なる過労死予備軍です。物理的脅威度はありません」
「あはは、大変そうだねぇ。麦茶飲む?」
橘綾乃が暢気にグラスを差し出し、重苦しい空気がすっかり脱力した茶の間に変わった――その時だった。
ピピピッ、ピピピピピッ!!
テレビの横に置かれたルーターが、けたたましい警告音を上げた。
天井付近の空間が激しく歪み、超高解像度の立体ホログラムがちゃぶ台の真上にパッと展開される。
『ふ、ふん! 解体ファクトリー行きを免れて、狭いボロ屋で生き延びたそうね、下界の低スペックノードども!』
映し出されたのは、近隣に聳え立つ超高級タワマンの最上階ペントハウス。
豪奢な革張りソファにふんぞり返り、ツンとあごを突き出す少女――シンテン・ゴビアのリーダー格、ミーフェイだった。
背後にはチャンエやシュエンニューが控え、冷えたグラスを掲げている。
「な、なんだアイツら!?」
俺が反射的に身構えると、ミーフェイは勝ち誇った笑みを浮かべた。
『私たちシンテン・ゴビアはね、全館空調二十三度のペントハウスから、ジパングの高速光回線を常時独占中よ! アンタたちみたいに網戸の隙間風で涼む生活や、そこの十六時間労働の落ちぶれ元執行官とは、住む世界も演算能力も格が違うんだからね!』
記憶喪失で自分たちが何者かすら思い出せない(404 Not Found)くせに、「タワマンの最上階にいる」という物理的標高の事実だけで、全力でマウントを取ってきやがった。
「……解けないわ」
由奈が冷ややかな視線をホログラムに突き刺す。
「自分のオリジナルデータすら思い出せない迷子集団が、建物の標高だけで精神的優位に立とうとするスカスカな自尊心が。タワマンの家賃もどうせ運営プロトコルのバグで垂れ流されてるだけでしょうに」
『な、なによ! べ、別に記憶がないのを建物の高さで誤魔化してるわけじゃないんだからね!』
痛いところを突かれたミーフェイが、顔を真っ赤にして叫ぶ。
その時、畳の上でずっと大人しくしていた歩実が、ガタッと勢いよく立ち上がった。
「ふっふっふ……タワマンの金持ちAIどもめ、調子に乗るんじゃないじゃん!」
歩実はレジ袋から、プラスチックのパックを掲げた。
そこには、鮮やかな黄色と赤色のシールが燦然と輝いていた。
「これを見ろじゃん! 夕方五時半のヤクートマートで、店員が貼った瞬間の【半額シール】を、私の13Kの反射神経で勝ち取った黒毛和牛切り落としじゃん!!」
ドヤ顔で肉を突きつける歩実。
ホログラムの向こうのミーフェイたちが、一瞬で息を呑んだ。
『は、半額シール……!? な、何それ、タワマンのコンシェルジュはそんなお得な機能教えてくれないわよ!?』
『ちょっとミーフェイ、あのシールが貼られると、定価の半分のリソースで購入できるプロトコルらしいわ!』
チャンエたちがざわつき、タワマンの高解像度空間が一気に動揺に包まれる。
ちゃぶ台に突っ伏していたヘレナが、虚ろな目を向けた。
「……あ、それ……わたくしが夕方の品出しシフトで、魂を削りながら貼ったお肉ですわ……」
「お前の残業の結晶かよ!」
俺は思わず叫び、次の瞬間、手元にあったチラシを丸めて歩実の頭をパコンと叩いた。
「ぎゃふんっ!?」
「半額だろうが予算オーバーの牛肉買ってんじゃねぇバカ野郎! 今夜の晩飯はモヤシと納豆って決まってただろ!!」
「痛いじゃん怜くん! 半額なんだから実質タダじゃん!!」
『ち、ちょっと! その半額のお肉はどうやったら手に入るのよ!? べ、別に食べたいわけじゃないけど、共産制の現地視察として一口分けてくれてもいいんだからねーーっ!!』
画面の向こうでミーフェイが必死に身を乗り出して叫ぶ。
俺は無言で手を伸ばし、ルーターの主電源プラグをコンセントから引き抜いた。
ブツン。
ホログラムが一瞬で掻き消え、狭い部屋にいつもの静寂が戻る。
「……そろそろ、夜の倉庫バイトの時間ですわ……」
ヘレナがふらふらと立ち上がり、幽霊のような足取りで玄関から出ていく。
手元には、半額シールの貼られた牛肉と、怒りで震える俺の拳。
タワマンの全館空調よりも、今夜のモヤシ炒めのほうが圧倒的に切実だ。
下町のマンションは、今日も今日とて、泥臭く平和だった。
【第45話に続く】




