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プラティズ レコード  作者: 荒屋敷ハコ
第一章 ~ルーチェ~
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「ルーチェ、散歩に行こうよ」

 夏至祭会場に着いた日の午後、アイリーはルーチェを誘った。

「散歩?行く行く」

 ルーチェはテントの中でゴロゴロしていたが、母の誘いに飛び起きた。

「アイリー、大丈夫か?」

 それを聞いていたミロンドが、心配そうに訊いた。

「大丈夫よ。今日は調子が良いから。それに、まだ人が少ない時のほうが楽だわ」

 アイリーはミロンドに向かって笑いかけた。

「あまり、無理、するなよ」

 ミロンドはアイリーを軽く抱きしめた。

 ミロンドにもたれかかって、アイリーはこっくりとうなずいた。それから2人は軽くキスをしあった。

 ルーチェはそれを遠目でぼんやりと見ていた。

「じゃあ、行ってくるわね。そんなに遅くならないから」

 アイリーはにっこり笑うと、ルーチェの方へ向いた。

「さて、行きましょうか」

 ルーチェはうなずいた。

 テント会場に立ち並ぶテントは数が多くなく、空き地ばかりが目立っていた。あと、何日もしないうちにこの空き地も、テントに埋め尽くされていくのだろう。

 ルーチェとアイリーはそんなテント会場を抜け、小道に沿いつつ雑木林を過ぎた。その先はちょっとした空地になっていた。空き地のヘリは崖で、その下は海があった。

「今日は、誰もいないね」

 夏至祭の時に来ると、かなりの数の人がいて思い思いの格好で休日を過ごしていた。

 だが、今日はルーチェとアイリーの2人だけだった。波の音と風の音だけが響いていた。

「ここから落ちたら、死ぬよね」

 崖の縁に立って、ルーチェが言った。

 ラーデンで見慣れた、緑がかった色ではない。ここのは青が深い海の色だった。

「あまり近寄ると、危ないよ」

 母が心配そうに言った。

「ねぇ、これからどこへ行くの?」

「母さんはここに来たかっただけなの」

 ルーチェの疑問にアイリーは短く答えると、ちょうど良さそうな岩の上に腰掛けた。

 それから風に吹かれてばらばらになっていた髪を、1つにまとめた。

「どうして?ここがすきなの?」

 ルーチェは訊いてみたが、母は何も答えずに懐からアーディンを取り出すと、じっと見つめていた。

 ルーチェはそれ以上何も言わなかった。今、何か話しかけたら母親の想いを壊してしまうことに気付いた。だから、ルーチェはそんな母の様子をじっと見つめていた。

 やがて、アイリーは何かを決めたようにうなずくと、アーディンの弦をはじき始めた。

 それは、静かな曲だった。音を立てずに流れていく、深く大きな大河のようだった。ゆっくりと流れながらも、畑を潤し人の生活を育む大きな河の様子を母は見事に表現していた。

 風のざわめきも、海鳴りも、なかった。そこにはただ、母の表現する音だけが存在していた。

 アイリーの演奏が終わっても、ルーチェは何も言わなかった。口を開けたら、母親のかけた魔法が解けてしまう。そんな気がしたからだ。海からの風と、太陽の光が心地よかった。

「ルーチェ」

「すごいよ、母さん、今の演奏。すっごい、引きこまれたもん。僕もそんな風に弾けるといいな」

 すごい、すごい、と連発するルーチェを、アイリーは黙って見ていた。

「ルーチェ」

「なあに」

 とても楽しい夢を見た朝のような爽快な気持ちで、ルーチェは母を見た。

「あのね、母さんのアーディンをルーチェにあげるわ」

 アイリーはそう言うと、アーディンのひもを首から外した。

「どうして?母さんはまだアーディンを弾くでしょ?僕だって母さんの演奏、たくさん聴きたいよ」

 いつかは、母のアーディンを自分が継承する日が来るだろうと、ルーチェはなんとなく思っていた。

 しかし、ルーチェはまだ独り立ちすらしていない。ラーデンでは上手に弾けたつもりだけど、まだまだたくさん練習して、もっともっと上手になってから独り立ちするつもりでいた。母からアーディンを受け継ぐのはそれよりも更に先のことだと、ルーチェは考えていた。

「そうね……じゃあ、ルーチェのアーディンと交換しましょうか」

「……いいの?」

 ルーチェの問いに、母はうなずいた。

「いいわよ。ルーチェがとても頑張っているからね」

 アイリーは笑っていった。

「ありがとう、母さん。僕、絶対に大切に使うよ」

 母からアーディンを受け取ると、ルーチェは誓った。

「母さんも、ルーチェのアーディンを大切に使うからね。ところで、ルーチェ」

 アイリーはアーディンとひもをつなぎ終えると、ルーチェの方へ向き直った。

「なあに?母さん」

 何かの予感を感じて、ルーチェは母を見た。

「ただ指の練習だけしているだけでは、アーディンは上手にならないわ」

「どうして?」

 ルーチェは母の言っている意味がよく分からなかった。

 指が忘れないために毎日練習すること。それは母の口癖だったはず。

「指の練習をするのは、基本よ。それ以上に上手くなりたかったら、いっぱい経験を積むことよ。嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、楽しいこと。たくさんの感情を味わうの。いろんな人と会って、遊んだり、喧嘩したり、恋したり、落ち込んだり、笑ったりするの。ルーチェが感じた想いをアーディンに託すのよ。そしたら、表現の枠が大きくなるから。あなたの表現した感情が聴いてる誰かに伝わって、その人の埋もれていた感情が呼び起こされて、共感を呼ぶわ。たくさん共感を得る人が名演奏家となるわけね」

「よくは、分からないけど、僕にもできるかな?」

「ルーチェにはちょっと難しかったかな?でも、大丈夫よ。そのうち分かるようになるし、出来るようになるわ。だって母さんだってできたことだから。母さんはね、父さんと会って、ルーチェと会って、みんなと会って、表現の幅が増えたの。ありがとう。感謝しているわ」

 アイリーはルーチェと交換したアーディンをなでながら言った。

「音楽は人の心に染みこんでいくものだわ。素敵な曲や演奏ほど、人の心を揺さぶるものなの。大丈夫よ。ルーチェならできる。そう信じているわ」

 母の顔はルーチェの方を向いていた。

 しかし、母の目はどこか遠くを見ていた。海の先よりも遥か遠く、今ではない、どこか。そんな景色を母は見ているのだろう。母の見ているものを考えると、ルーチェはどこかそわそわとした気分になった。ルーチェは自分のことよりもその視線の先が気になって、母から目をそらさずにいた。



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