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俺は高校教師になって駅伝部の顧問をやることになった  作者: 糸魚川孝紀
顧問就任1年目
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県大会

 ついに県大会前日となった。幸い漣も復調してきたようで、練習のタイムも地区大会よりも一段と速くなっている。稲穂も京子も調子が良く、このままなら県大会でもワンツーフィニッシュを成し遂げられそうなくらいだ。

 でも一つ、気にかかることがある。京子の緊張症だ。

 京子は地区大会の当日にハイパー緊張していただけだったが、今回は一週間前から緊張が続いている。練習終わりに「北信越にいけますか?」と鳴きそうな声で聞きに来ては俺と漣で励ます毎日だった。

 そして今日はますますヤバくなっている。明日から3日間の県大会を、京子は生き残ることが出来るのかって疑問になるレベルだ。1500mは2日目、3000mは3日目なので、それまでになんとかしてほしい。

 練習はジョギング程度の軽い運動で終わらせた。明日の朝は早いし県大会は泊りがけなので無駄に力を使わないようにするためだ。

 練習後にプログラムを配りながら話を進めた。

「明日からの県大会だが、この日程で競技は進む。召集時間とか間違えないようにな」

「先生…………」

 京子が泣きそうな顔で話しかけてきた。

「ど、どうした京子」

「召集時間に遅れたらどうすればいいんですか?」

 これは高校3年生がする質問ではない。中学1年生で陸上始めたばっかりの子が最初の大会の前に言うセリフだ。地区大会で大人顔負けの走りをしたのになぜ京子はこんなにも小さくなるのか。

「み、京子先輩、緊張しすぎです。稲穂もついてるんで大丈夫ですって」

 漣は正直引き気味だったが、落ち着かせようと必死だった。

「でも、稲穂ちゃんは一年生だし…………」

「大丈夫です! 私に任せてください!」

 稲穂はいつもの3倍増しの声で名乗りをあげた。その轟音に思わず耳をふさぐ。

「そ、そうか。安心だな。じゃあ今日の練習はここまで。明日は七時に学校集合な」

 俺は強引にミーティングを切り上げると、そそくさと陸上競技場を後にした。でもなんだか大きな不安を残したままの気分だった。


 翌日、県大会が開幕した。会場の北陸電力スタジアムは日本トップクラスの競技場でサッカーの国際試合も開かれるほどだ。県内唯一の屋根付きスタンドはそれにふさわしい外見とも呼べるだろう。高校生の時から何度来たか数え切れないがこのスタジアムにはいつも息を呑んでしまう。

 会場に着くと真っ先に競技役員の集合に向かった。それもそのはず。県大会での俺の役職はなんと再び「スタンド監視係長」だったのだ! 地区大会での盗撮犯検挙が大会委員長の耳に入ったらしく直々にご任命ということらしい。県大会の係長は荷が重いと思ったがけっこうマメに準備したつもりなので大丈夫なつもりだ。

 1日目には駅伝部員の種目はなかった。各自練習をさせたり陸上部のサポートをさせたりであっという間に終わってしまった。京子と顔を合わせる機会はなかったが、稲穂と漣が何とかしてくれてるだろうと思っていた。去年も2人きりでやってきた駅伝部だ。俺が入るまでもないだろうと高をくくっていた。


 だが大会2日目、想定外の事態になった。朝、駅伝部で軽くミーティングをしたときのことだった。京子の顔色はげっそりしており今にも倒れそうな様子だ。

「京子、大丈夫か。昨日より格段にヤバそうだぞ」

 昨日までの京子の顔色も悪いことは悪かったが昨日まではまだ顔が赤かった。でも今日は青色へと変化していた。

「…………だ…………だいじょう…………ぶです」

 もう言葉も途切れ途切れでしか話せない。

「京子ちゃん、今日の1500mは棄権しない? しっかり体調を整えて明日もう一度立て直そう?」

 朝陽はしゃがみながら京子に語り掛けた。彼女は養護教諭だ。年頃の女の子がどういう状況になるかというのは十分に分かっているようだ。

「…………それは…………できません…………」

 京子は俯きながら小さく首を振った。

「……今日は親も来ているし…………それに1500mも……チャンスはある……から……」

 弱弱しいながらも京子は確かにそう言った。朝陽は立ち上がって俺を見る。

「本人の意志だもん。逆らえないわ」

 小さくため息をついてヤレヤレと言わんばかりの顔をすると彼女は競技役員へと出かけていった。

 正直俺は京子のことを止めるべきなのではと思ったが声が出なかった。俺にはただ彼女の無事を祈ることしかできなかった。

 数時間後、女子1500mの予選が始まった。予選は3組あって各組上位4人とタイム上位者3人が決勝に進出できる。京子と漣はそれぞれランキング5番、7番の選手だったので決勝に行くことはほぼ間違いないだろうと思っていた。


 1組目には漣が出場した。レース展開は県大会の予選らしく、1周目は82秒のスローペースで入った。その後は徐々にペースが上がっていき最後は800mのような抜きつ抜かれつの大混戦になっていた。

 だがここは漣の得意分野。残り300mからペースアップした漣はそのままスーっと集団を抜け出し1着でフィニッシュした。

 スローペースのためタイムは伸びなかったものの県大会で早くも存在感を見せた。決勝での走りが楽しみになった。

 3組目には京子が出場した。俺はスタンド監視係の仕事を一時中断してトラックを見守る。思うことは一つ。

「頼む…… 何事もなく終わってくれ……」

 だが俺の思いも裏腹に京子はスタートラインに並ぶ前から落ち着かない様子で小さい体は一層小さく見えた。やはり体調不良に加えて緊張症の影響も大きかったのだろうか。不安が募る。

 レースがスタートした。予選さえ抜けてくれれば……それだけを願いながらレースを見守った。序盤から京子は先頭集団で走るが、足取りは重く、徐々に集団から遅れていく。

 必死に声をかけた。でもそれは届くことない。曇り空で暑くもないのに京子は熱中症のマラソンランナーのようだった。

 京子は懸命に走ったが順位が上がることはなかった。15人中13位でのフィニッシュだった。地区大会を優勝した京子の面影はもうどこにもなかった。俺はしばらくスタンドでうなだれた。

 信じられなかった。あんなにいい練習が出来ていた京子がこんなにタイムを落としてしまうなんて。俺も朝陽もそして部員の誰もがそう思っただろう。

 呆然とトラックを眺めていた。トラックでは次々に競技が進んでいく。

 京子はレースに出るべきではなかった。彼女のインターハイへの夢の1つがここで無残にも散ってしまった。

 俺は、俺は顧問として取り返しのつかないことをしてしまった。しかも彼女の様子から考えれば明日の3000mにも影響が出てしまうだろう。

 スタンドでは陸上マニアの輩が「地区大会優勝の藩内が?」と言っている声が聞こえた。そのことが俺をいっそう傷つけた。耳をふさぎたい、そんな気持ちだった。

 ずっとスタンドに座って京子のことを考えていた。彼女に会って何を言ったらいいのだろう? 明日の3000mは? 体調をどうやって戻す?

いくつもの問い。浮かばぬ答え。もがき苦しんでいた。

 その時、場内アナウンスが流れた。

「二ノ丸高校駅伝部の顧問、栃岡先生、至急救護室に願います。繰り返しま―――――」

 背筋に寒気が走った。嫌な予感がした。

 急いで階段を下り、救護室に向かう。途中で何人に肩がぶつかったが謝る暇もない。ただ救護室へとダッシュする。


 ――――京子


 ―――――――京子!



 救護室のドアを開けると漣と朝陽がいた。彼女達は俺の姿を確認するとベッドで横になる京子の姿を見せた。

「1500mのレースが終わって、すぐに倒れたの。かなり無理をしていたみたいね」

 朝陽が穏やかに語った。漣は黙ったままイスに座って京子を見つめる。

 京子に視線を移すと彼女は眠っていたようだった。目を閉じて、ゆっくりと呼吸をしていた。

「本当に申し訳ないことをしちゃったな。俺が止めるべきだったのに」

 それしか出せる言葉はなかった。申し訳なさで精一杯だった。

「いえ、私が悪いの。養護教諭として出来ることがあったはずよ」

「そんなことない、俺が――――――」

 責任の取り合いもここでは何の意味もない。レースは既に終わっているのだから。激しく言い合ったところで、予選の結果が変わることはない。でも俺達は口論を続けた。

「―――――先生、やめてください………… 私がいけないから」

 京子は急に目を覚ますと横になったまま話し始めた。そばにいた漣は少し驚く。

「出るって言ったのは、私だから。私が悪いんです」

 いつもより落ち着いた話し方だった。彼女はもう緊張なんてしなかった。

「でも京子ちゃん。養護教諭として、年頃の女の子の健康を見るのは当然の仕事なのよ。やっぱり私が悪かった」

「そんなことないです。勝手なことをした、私が悪いんです。だから言い争うのは、やめてください」

 朝陽もこれ以上は言い返せなかった。

「ちょっと、調子が合わなかったみたいで、上手くいかないのは、自分でも半分わかってました。でも…………でも、先生と一緒に、インターハイに行きたくって。気持ちだけ、先走っちゃって。だから、上手くいかなくて。先生に、こんな思いを、させちゃって」

 京子は涙をポロポロと流した。もうかける言葉がなかった。

「明日の、3000mは、棄権します。もう先生には、ご迷惑は、かけられません。漣さんと、稲穂ちゃんなら、私の分まで、インターハイにいけるって、信じてるから」

 漣も涙を流していたが京子の想いを分かったのだろう。急に立ち上がると俺をまっすぐ見て言った。

「センセー、1500mの決勝は棄権します。その代わり明日の800mで絶対に北信越に行く。インターハイに行きたいの」

 答えは一つしかなかった。

「頼む。俺からもお願いだ。絶対に北信越を決めて来い」

 漣と目を合わせると2人で一度大きく頷いた。漣は800mのほうが得意種目だし北信越大会に出場できる確率も高い。今は京子の弔い合戦よりもインターハイへの夢を繋ぐことのほうが優先だった。京子の夢が絶たれた今、一人でも北信越大会に、そしてインターハイへ―――――――

 次の瞬間、いきなり救護室のドアが開いた。

「京子せんぱーい!」

 大声を張り上げたのは稲穂だった。入ってくるなり京子を見つけると、真っ先にベッドに飛び込んだ。

「せんぱい…………こんな………………こんな……」

「稲穂ちゃん、ごめんね。ごめんね」

 泣きじゃくる稲穂を、京子も泣きながらあやしていた。

「だって……わたし…………みやこせんぱいがいないと……」

 言葉に詰まらせながら必死に京子に何かを伝えようとしていた。

「ライバルが1人、減ったんだから、チャンスじゃない。私の分まで、頑張って。決勝では、スタンドから、稲穂ちゃんに負けないくらい、大きな声で応援するからね」

「せんぱーい!」

 稲穂はもう一度、京子のベッドに飛び込んだ。いつもは耳をふさぐ稲穂の大声も、今だけは聞いておかなければならない。顧問として、この子達のためにも。


 日があけて3日目、勝負の日がやってきた。この日は昨日よりも良い天気で晴れ間も見える。好記録が生まれそうな予感がした。

 女子800mは予選、準決勝、決勝の三ラウンド制だ。午前中は準決勝目までで、夕方に決勝がある。

 直前のランキングで漣は3番目。北信越大会出場が有力視されている。だが油断は禁物だ。800mの準決勝は何が起こるか分からない。優勝候補があっさり負ける、そんな光景も珍しくない悪魔の巣窟だ。

 漣とは予選が終わったときから準決勝の戦法を話し合い万全を期した。先行逃げ切り作戦だ。他の選手との接触を避けるというのが目的だが、スピードの仕上がり良いだけあって漣も納得の作戦だった。

 召集所に行く前、漣を一度呼び止めた。

「分かってると思うが、油断は禁物だ。同じ組には暁月高校の寺門がいる」

「うん。気をつける。こんなところで負けてられないし」

 いやそういうことじゃなくてしっかり付いてほしいって意味だったんだけど……まぁいいか。

「調子いいな」

「絶好調!」

 お互いに拳を作って、勢いよくぶつけた。それは痛いくらいの勢いだった。

 漣は揚々と召集所へと向かった。その様子を見送ると、俺も観戦のためにスタンドへと向かった。

 男子の800mのレースが終わると女子の800mになった。

 スタート前、アナウンスで漣の名前が呼ばれると彼女は小さくお辞儀をした。飾らない彼女らしい姿。とても落ち着いている様子に見えた。

 選手紹介が終わると「位置に着いて」の合図。漣はラインに足を合わせると号砲を待った。

 スタジアムが沈黙しかけたその時、号砲が鳴った。漣は勢いよく地面を蹴った。

 しかし一歩目で少しバランスを崩し彼女はよろけてしまう。幸い他選手への妨害行為にはならなかったもののすこし出だしが遅れが出てしまった。だが漣には慌てた様子はなく、すぐにまた走り出す。

 一歩踏み出すごとに他の選手との差をみるみるうちに詰めていく。スタートこそ出遅れた彼女だったが、200m通過時には既に3番手に位置していた。ちょっと作戦とは違うがいい位置取りだ。

 ホームストレートに戻ってきて残り1周の鐘が鳴った。俺はすぐさまストップウォッチのラップをとった。72秒。落ち着いたペースだ。これはこれから大混戦になりそうだな。

 でも漣なら大丈夫だ。1500mの予選で見せたようなスパートがあるからこの混戦でも難なく抜けていけるはずだ。

 そう思い始めた矢先、スタンドの観客からある声がした。

「見て! 第1コーナーで誰か倒れている!」

 夫人と思しき女性の甲高い声に反応してすぐにそこを見た。倒れていたのは、エメラルドグリーンのユニフォームを着た漣だった。

 一瞬何が起こっているのか分からなかった。なぜ漣はあんなところにいるのだろう。彼女は右足を押さえながらトラック上に横たわっていた。俺はレースそっちのけで急いでスタンドを下りてトラックに向かった。

 到着した時には漣は担架に担がれてまさに運ばれようとしていた。すぐに駆け寄って彼女の足を見た。

 右足のスパイクは白地が血で真っ赤に染まっていた。同時に数箇所の穴が規則的な配列で開いてたのが分かった。一瞬で理解した。漣は他の選手からスパイクで踏まれたのだ。

「漣! 大丈夫か!」

「ちょっと…………痛いかな…………」

 漣は強がった笑顔を見せる。

「ちょっとってお前、その血の量じゃ」

「1500mの決勝を棄権したバチがあたっちゃったな。ゴメン、先生」

 漣は痛みで顔をゆがめながらも諦めたような表情をしていた。俺はすぐに役員に払いのけられると漣はスタジアムの外に止めてあった救急車に運ばれていった。サイレン音の余韻を残しながら、救急車は走り去った。

 俺はトラックの脇に呆然と立ち尽くしていたがすぐに係員に追い出された。

 ふと、朝陽に連絡しなければと思いポケットの携帯電話を手にとろうとした。その時に気付いた。右手がぬれていたのだ。確かさっき、漣の頬に一瞬触れたような気がする。これは汗なのか、それとも涙なのだろうか。どちらにしても変わりはないのだろうけど。


 女子800mの直後に女子3000m決勝が開始した。が、俺はそのレースを見ることが出来なかった。漣の搬送先の病院に行くことになったからだ。朝陽に頼むことも出来ず主顧問である俺が行くことになったのだ。

 漣の診断は骨折だった。踏んだ相手のスパイクのピンは長かったようで骨にまで達していた。

 病室で漣から右足を見せてもらったがとてもグロテスクだった。夢が消えた上にこんな傷まで負ってしまうとは。

「自分の足とは思えないや……」

 漣は苦虫を100匹くらい噛んだような顔をする。バカ野郎、そんな顔されちゃ泣きたくなるだろうが。

 その後、病室では沈黙が続いた。

 

 気付けば午後五時だった。太陽は沈みかけており県大会も終了する時刻だ。それに気付いてか漣が沈黙を破った。

「稲穂、どうなったのかなぁ」

 ベッドに仰向けになったまま、つぶやくように言った。

「どうなのかな。わからない」

「ケータイで聞いてみる」

 漣はエナメルバッグから携帯電話を取り出した。ベッドで寝転びながら操作をするとすぐに稲穂につながったようだ。大怪我後にも関わらず、ハイテンションに話す漣。しかし急にトーンが下がった。

「そう…………残念だったね。大丈夫。先生と一緒にすぐに行くから。うん。またね」

 すぐに分かった。

 稲穂は、負けた。

「センセー、稲穂は7位だったって。表彰台には上れたんだけど、あと1人、届かなくて」

 いつも強気な漣だが、話し方には力が抜けていた。

 彼女は布団の中にもぐりこんだ。

 もう漣に話しかけることなどできなかった。出来ることは窓から夕日を眺めているだけだった。日が沈むまで、ずっと眺めていたかった。

 駅伝部の夢は終わった。夕日はその辛さを全て受け止めてくれるような気がした。できればいつまでもここにいたい。それはすごく楽なこと。

 でも…………でも、俺達は帰らなくてはならないんだよな。仲間のもとに、二ノ丸高校に。辛いけどそれが現実だ。

「漣、帰ろう。稲穂も京子も待ってるぞ」

「京子先輩は私のこと、嫌いになってないかな?」

 布団にくるまっていてもそれだけはハッキリと聞こえた。

「そんなことないよ、お前もがんばったんだから――――――」

「頑張る前に終わっちゃったんだもん」

 漣はベッドから顔を出し、悲しそうな目を向けた。

「それは残念だけど、しょうがなかったじゃないか」

「でも納得いくわけないじゃん! 誰かに妨害されて―――――――」

「いいから帰るぞ」

 俺は椅子から立ち上がり漣の道具類を手に取る。

「でも――――――」

「帰るぞ」

 彼女にかける言葉はなかった。

 俺は未熟だった。顧問として、人として。

 


 それから1週間、俺はショックで学校を休んだ。



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