最終キュン 家賃は今日も、キュンで払います
そして翌朝。今日は一学期の終業式だ。俺は少し早めに目が覚めた。
窓の外には、真夏を予感させる眩しい日差しが差し込んでいる。
寮の照明は、早朝のうちに修理が完了していた。何事もなかったかのように、いつも通りの明るさを取り戻している。
☆
終業式が終わり、学園中がどこか浮き足立った空気に包まれていた。
放課後、俺たちが星見風寮に戻ってしばらくすると、秋月先生がやってきた。
「みんな、ちょっといい?」
いつもより少しだけ真面目な声に、俺たちはリビングへ集まった。
「みんな、ついに結果を発表するわよ」
秋月先生はそう言ってから、手元の書類に一度目を落とした。
「学園側でも、あの後ずっと検討が続いてたんだけど」
そこで、少しだけ間を置く。
「――星見風寮の実証実験、継続が正式に決定したよ」
一瞬、誰も反応できなかった。
「……ほんとに?」
水瀬が確かめるように聞く。
「ほんと。少なくとも、今すぐなくなる心配はもうしなくていい」
その一言に、リビングに集まっていた全員が、一斉に声を上げた。
「本当ですか!」
「やった……!」
「よかった……」
すずが、涙ぐみながら小さく拍手をしている。
「ただし」
秋月先生が、続けて資料を広げた。
「研究の方向性は、大きく変更されることになった」
「方向性って」
「これまでの『ときめき感情の効率利用』という枠組みから、もっと幅広い感情と生活環境の研究へシフトすることになったんだ」
秋月先生の説明に、俺たちは顔を見合わせた。
「文化祭での発表内容が、学園側にもきちんと評価されたってことね」
理央が資料に目を通しながら言う。
「感情を数値として利用するんじゃなくて、その多様性や価値そのものを研究する方向に、正式に舵を切ったってわけ」
「なんか、私たちがやってきたこと、ちゃんと意味あったんですね」
すずが嬉しそうに言った。
「神崎さんの発言も、結構効いたみたいだよ」
秋月先生がそう付け加えると、水瀬が思い出したように呟いた。
「今度、ちゃんとお礼言わなきゃ」
「私も同感」
奏が頷く。
☆
その日の夕方、夏休み前の最後の夕食に、いつもより少し豪華な料理が並んだ。
「今日は、みんなでお祝いだから」
俺がそう言うと、テーブルを囲む全員の顔が、これまでで一番明るく見えた。
「これも亮太郎先輩が作ってくれたんですよね」
すずが嬉しそうに料理を見つめる。
「まあ、寮の管理人だからな」
「もう、すっかり板についてきたわね」
理央が珍しく素直に褒めてくれた。
「装置、ちゃんと修理済みなの?」
水瀬が壁のモニターを確認しながら聞く。
「今朝、業者さんが完全に直していったわ。今のところ問題なく稼働してる」
理央がタブレットで数値を確認しながら答えた。
☆
賑やかな夕食が進む中、窓の外はいつの間にか夕焼けから夜の色へと変わっていた。
「夏休み、みんなどうする? 俺は実家に少し帰るつもりだけど」
俺が尋ねると、それぞれが思い思いの予定を話し始めた。
「私もお盆に実家に少し帰るかな」
「私も、実家に少し帰ろうかと。ゴールデンウィークに帰ってないので」
「私も、実家帰るし、夏合宿もあるから、寮にいない日の方が多いかも」
「私は寮に残って研究続けるつもり」
「そっか」
そんな何気ない夏休みの予定を話せることが、今は少し嬉しかった。
夕食が終わりに近づいた頃、俺は改めて水瀬に向き直った。
「なあ、水瀬」
「なに」
「夏休みも、よろしくな」
シンプルな一言だった。特別な意味を込めたつもりはなかったが、水瀬は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして、少し間を置いてから、水瀬は柔らかく笑った。
「……うん。亮太郎もね」
その瞬間だった。
――ピコン。
いつもとは違う、聞き慣れない電子音が鳴った。
『感情エネルギーを検出しました――測定不能』
「……は?」
壁のモニターに表示された文字を、リビングにいた全員が凝視した。
「壊れた!?」
水瀬が真っ先に声を上げる。
「私じゃないから!」
「誰もひよりって言ってないだろ」
俺が思わず突っ込むと、水瀬の顔が一気に赤くなった。
「な、なんで名前で呼ぶのよ!」
「今、普通に呼び方の話しかしてないだろ」
「測定不能って、初めて見る表示だわ」
理央がタブレットを操作しながら首をひねる。
「故障の可能性もあるけど、単純に、数値が振り切れた可能性も否定できないわね」
「振り切れたって、そんなことあるのかよ」
「感情の強度が、機器の測定範囲を超えたという解釈も、理論上は成立するわ」
「じゃあ、今の一言でそんなに!?」
水瀬が耳まで真っ赤にして、両手で顔を覆う。
「無理、恥ずかしすぎる」
「俺も驚いてるんだけど」
俺も正直、動揺していた。ただ何気ない一言を交わしただけのつもりだったのに。
「なんか、いい雰囲気だね」
奏がのんびりと笑いながら言う。
「測定不能って、逆にロマンチックじゃない?」
「ロマンチックの意味、絶対間違ってます」
すずが小さく突っ込んだ。
寮中が、いつもと変わらない賑やかさで大騒ぎになった。
「先生、これ絶対直しておいてくださいね」
「うーん、直すというか、これはこれで面白いデータだから、しばらく記録として残しておこうかな」
秋月先生がのんびりとした調子で言うと、水瀬が悲鳴に近い声を上げた。
「やめてください、恥ずかしすぎるので!」
☆
賑やかな騒ぎが一段落した後、水瀬がこっそり俺の隣に来た。
「……ねえ」
「なんだよ」
「今の、本当に、私のせいじゃないから」
「分かってるよ、たぶん」
「たぶんって言うな」
軽口を交わしながらも、水瀬の表情には、これまでのような焦りではなく、どこか穏やかな柔らかさが浮かんでいた。
☆
その夜、夕食の片付けを終えたリビングで、俺は一人、モニターに残った「測定不能」の文字をぼんやり眺めていた。
四月の初日、玄関で三・七キュンを記録してから、三ヶ月半以上。
色々なことがあった。
「測定不能、か」
もう一度、その言葉を口にしてみる。
数字で測れないものが、この寮には確かにある。
夏休みが始まる。
この寮に誰もいなくなる日もあるかもしれない。それでも、星見風寮での日々が終わるわけではない。
水瀬の気持ちも、俺自身の気持ちも、まだ言葉にはなっていない。
けれど、二人の間にあった距離は、少しだけ縮まった気がした。
寮中に響いていた大騒ぎの余韻が消えた後も、リビングの灯りだけは静かにともり続けていた。
(完)




