十三話 琴聖オルフェウス
【ニュンペー】
『概説』オリンポス十二神のように完全な不老不死ではないが、非常に長寿である。ギリシア神話における下級の女神、あるいは精霊とも。自然を守る存在で、一般に歌や踊りを好む若い美女の姿をしているとされる。病を癒やす、予言の力を授ける、狩場を提供するなどの恩寵を恵む女神でもある。しかしニュンペーにも恐ろしい暗黒面が存在しているため取扱には注意が必要。
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陳腐でチンケな表現をしよう。
口にするには気恥ずかしく、文として記すと悩ましい叙述となる。
――『世界』が――驚いていた。
最初の聴衆は精霊である下級女神、ニュンペーの集団だ。珍奇で楽しげな曲に釣られてやって来て、そのまま居座ってしまったのである。
体の大事なところだけを隠した見目麗しい美女たちは、何かをしているわけではなくとも、ただそこにいるだけで艷めいた華となっていた。
通常ならその華の艶に敗け、珍しいだけの音楽などニュンペーを飾る背景にしかならなかっただろう。だがそうはなっていない。むしろ彼女たちの方こそがこの場の添え物と化していて。それを自覚していながらも、ニュンペーたちに不服の色はなかった。
楽器もなく掻き鳴らされる多種多様な旋律、姿の見えない奏者。尋常の物と思えない、円筒を通して拡声される美しい歌声。『この世界』の中心であるギリシアの地に栄えた、如何なる詩にも当て嵌まらない未知――それを前に、ニュンペーたちは意外なほど静かに耳を傾けていた。
どこからともなく繰り出される音色も、確かに驚きに値するだろう。だが何よりも目を惹かれ、心を奪われるのは二人の少女である。情熱的なラテンの曲調に、旅立ちに対する希望を女の目線で歌詞に載せた詩……全霊と全力を込めた歌声は、天上の調べも霞むほどに光り輝いている。
羨むように、仲間になりたそうに、楽曲の正体を知りたそうに。ニュンペーたちはただ、拙い歌唱が上達していくさまを見守る。
最初の頃はその歌唱力も稚拙だったというのに、こうも心を奪われるのはどうしてだろうとニュンペーたちは思った。未知の楽曲の方にこそ物珍しさを感じていたぐらいで、傾聴に値するものではなかったのだ。
しかし回を重ねるごとに着実に上手く歌唱をこなし、上達するにつれて熱い楽曲との親和性が高まって、遂には詩と曲の双方が絡み合って感性を震撼させる、開明的な衝撃を放つに至ったのである。
驚くべき上達の早さは、さながら数多くの先達に倣っているかのようで、美しい自然の精霊たちは声もなく悟る。目が釘付けにされているのは、見たことも聞いたこともない詩や音楽が新鮮だったのもある。だがそれよりも、みるみる内に成長していく歌い手の力量に魅入られていたのだ。
「なんだぁ……俺の領域で何をして――」
次にニュンペーたちに遅れてやって来たのは、姪の歌声を聞きつけたトラキアの女神である。
彼女は少女と少女神が唄っているのを怪訝に思うも、下級女神たちの様子から声を掛けるのは無粋であると察した。そうして静聴している内に、紡がれていく音の羅列に取り込まれて、リズムを取りながら聞き入るようになる。そこからはもう芋づる式だ。
旅の吟遊詩人が少女たちの歌声に引き寄せられ、そのまま呆けたように立ち尽くし、延々と続けられる詩の練習を食い入るように見詰め。そして近くの都市国家から人々が駆けつけ、ただただ圧倒されて少女たちの独擅場となった丘を見上げた。
そうなると興味を惹かれた神々が次々と降りてくる。あんな何もない所に、なぜ多くの人やニュンペーたちが集まり、果てはあの戦女神までいるのかと。黒衣に純白のヴェールを被った少女の美貌を見て、恋に落ちた好色な神々もまた観衆の中に混じってしまった。
「ぁ……ぅ、」
破滅に至る妄想、道徳や倫理観を見失わせる狂気、法の秩序を不能とする善なる少女神は、その顔触れに気づいて萎縮していた。
最初はよかったのだ。自分が抱える唯一の信徒との時を純粋に楽しんでいられた。黒髪の乙女の、一度打ち込みはじめたものに熱中する性も手伝い、半日もの間を詩に踊りにと明け暮れていられた。
アーテー・デュスノミアもまた神性である、時の感覚や体力も人間を遥かに超えているため、半日程度で根を上げることもなかった。アーテーはそのことを後悔したのだ。今まで自分と遊んでくれた人間がいなかったからと、つい周りが見えなくなるほどハシャイでしまったことを。
ニコマに言われたように、彼女の真似をして歌の練習をしているのが楽しすぎたとはいえ、どうしてこんな事になるまで気づかなかった? アーテーはガチガチと歯を鳴らしながらニコマを見る。己の使命として世界中の堕ちた神々『アンカー』を集めているというニコマは、その『アンカー』と何事かを話しているようだ。
「音程がまだ外れてる……80点、もっと頑張りましょう……声が綺麗でもまだまだ……うーん、みなさん手厳しいですね。もっと甘やかしてくださいよ、褒められて伸びる子なんですよ私」
「ね、ねえ……」
「? はい、なんでしょうかアーテー様」
堪らずニコマの袖を引き、声を掛けるとなんでもないように小首を傾げられる。アーテーは呆れることもできないほどの緊張に身を固くして、震えながら信徒に訊ねた。
「なんでしょうか、じゃないよ……ニコも周りが見えてなかったの?」
「いえ、見えておりましたが……特に話しかけて来るでもなく、私やアーテー様の歌を聞いてくださっていたのです、ここは厚意に甘え修練に励む時かと。プロデューサー……もといアンカー様も歌の練習に雑念を入れるなと仰っていましたし」
繰り返すが半日だ。半日もの間歌い通していながら、疲労の一切を見せないニコマは人間離れしている。
しかし今は『英雄の時代』である。多くの上流階級の人間に神の血が流れている故に、ニコマの体力も然程珍しいとは言えない。故に注目すべきは、片時も途切れることのなかった集中力の高さであろう。どんなことがあろうと小揺るぎもしない精神は、未成熟な乙女とは思えないほど強い。
アーテーは、はっきり言って頭がよくない。しかし今の状況が自分の身の丈に合わないものだという自覚はあった。故に「アーテー様、まだ歌の練習をなさいますか?」というニコマの言に慌ててしまった。
「な、何言ってるんだよ! こんなことしてる場合じゃないよ!?」
「おや……まあアーテー様がそう仰るなら中断しましょう。ところでアーテー様、こちらのお歴々は何者なのでしょうか? 私はどの御方にもお目にかかったことがなくて……正直、どう対応したものか判断しかねておりました」
「はあ!? それで歌の練習に逃避するなんてどんな神経してんのさっ!? というかなんで知らないのっ! いいよ、分かったよ、あたしが教えてあげるから失礼のないように――」
「――いや。それには及ばんよ、エリスの娘」
アーテーの焦りに塗れた怒声を遮ったのは、遅れてきたのに最前列に陣取っていた巨雄。2メートルと半ばほどもある身の丈の、見上げんばかりの偉丈夫だった。
厳ついながらも眉目の秀麗な男は、鬣の如く豊かな金髪の上に月桂冠を被り、金糸で鷲の刺繍が成された豪奢な赤いローブを纏っている。金のブローチを随所に飾り、黒い具足で防護を固めている姿は、さながら強大な軍事国家の若き皇帝といった風情であった。
威厳溢れる支配者。権威、秩序を守護する超越者。彼を形容するものとして相応しいのは、それらを総括した『絶対者』である。だからこそ少女神は目に見えて狼狽えていたのだ。だがそんなものに関心を寄せることもなく、偉丈夫はニコマを見た。
「そこの美しき乙女、名はなんと言う?」
「はい、ニコマと申します。私の故郷では苗字という、一族を表す名がありまして、そちらをソクオーチと。繋げてニコマ・ソクオーチというのが私を表す名となります」
「ほう、ミョウジ。聞いたことがない……が、それは置いておこう。繋げて呼ぶものではないと言うのなら、ひとまずニコマと呼ぼうか」
「ご随意に」
楚々として頭を垂れるニコマを、明らかに神性そのものである巨雄は大きな赤眼で見据える。
のしかかるような圧力はない。彼の眼差しに含められているのは、か弱い乙女を気遣う慈愛の色彩だ。そしてそんな彼の横には、どことなくアレイスに似通った美貌の女神がいる。
「まずは見事。他の神性や人間どもはおろか、オリンポスの神々も聞いたことすらない楽調であったろうよ。我らオリンポス十二神の耳を楽しませたこと、特に褒めてつかわす」
「ありがたき幸せです」
「其処許は異邦の者だったな。アレイスから聞いている。なんでも――世界中の堕ちたる神を集め、奉じることを己が使命としているとか」
「はい。私にとってアンカー様の存在を広めることが、何よりも優先すべき使命です。その由縁をお聞きになられますか?」
「いや、いいさ。幼き身とはいえ女の過去を無闇に暴くものではない。それよりも異邦の者であるからと、全世界に君臨する私や他の者共の面貌を知らん方が問題だな。新しき楽調で私を楽しませてくれた礼だ、この私が手ずから紹介してやろうとも」
「――ああ? おい、何を考えてやがる」
真意の掴めない柔和な物腰で、ジッとニコマを見詰める黒鎧の巨雄。
彼が信じられないことに、神々を紹介してくれると言うのに対して、戦女神アレイスが喧嘩腰とも取れる粗野な横槍を入れた。
巨雄は言った。アレイスを横目にし、こともあろうに彼女を無視する形で。
「其処許も知っているだろうが、これなる者はアレイスという。オリンポス十二神序列六位にして、戦に纏わる悉くを司るトラキアの統治者だ」
「……俺を無視するのか」
「そしてその横にいるのがオリンポス十二神序列五位、ヘスティアー。我が姉にして竈の女神、つまりは家庭と国家統合の守護者でもある。ヘスティアーは慈悲深い女でな、あらゆる孤児の保護者を買って出ているよ」
「………」
「あ、あー……そのぉ……紹介ついでに持ち上げてくれるのは嬉しい。だけれども、自分の娘を無視すんのはカワイソーじゃね? って思わなくもない、かな?」
公然と無視されたアレイスに対し、十八世紀後半のフランス貴族が着るようなドレスを纏った女神が、亜麻色の髪を弄りながら巨雄を諌める。
すると巨雄は、どこかのんびりとした印象のある女神を振り返った。
「私が、娘を無視している?」
「してるじゃん?」
「それはそうだろう。私は今、ニコマと話している。横から口を挟んできた者に、どうして応じてやらねばならない。構ってほしいのなら後にしてもらいたいものだな」
ヘスティアーは粗雑な扱いをされたアレイスが激発しないかを心配しているのだが、巨雄はまるで気にしていなかった。
あーあーアタシは知んないからな、とヘスティアーは我関せずの姿勢を取ることに決める。気性の荒い姪と、弟に当たる巨雄の間にある蟠りを仲裁する役は御免被りたいからだ。
ニコマはニコマで密かに眉をひそめていた。最高神ゼウスを頂点にしている以外、オリンポス十二神の中に序列というものは存在しないはずだ。それなのにアレイスを六位とし、ヘスティアーを五位として指した。リアルのギリシア神話と『オリンポス』の主要な神々には、この時点で差異があるのが分かる。
そしてこの巨雄の正体にも見当がついて、これは愉しいことになってきたなと内心ほくそ笑んだ。
巨雄――天空を統べし最高神ゼウスであろう男は、次いで傍らの男女三人を指し示した。
「すまないな、話しの腰を折ってしまった。改めて紹介しよう。私の傍らに立つ者から順に十二神序列四位――あらゆる女神たちの長にして我が最愛の妻、婚姻と母性を司りし者、ヘラ。十二神序列三位、冥府の王であり大地を統べる地底の神、私の敬愛する長兄にして末の弟であるハーデス。十二神序列二位、海と地震を司りし大いなる者、我が兄にして弟、ポセイドンだ」
「――、………」
ニコマはそっと顔を上げ、上目遣いで三柱の神々の面貌を確かめた。
銀のティアラを被り、ヘスティアーのものに似ている純白のドレスを纏っている女は王笏を右手に有している。豊かな腰つきと胸の膨らみは、なるほど女として最高級を超える神域の美と言えた。彼女がヘラ、アレイスに似ているのも納得だ。血の繋がった母娘なのだから。
ヘラはニコマに微笑みかけてくる。悪辣な逸話を数多く有する女神だが、その本質は邪神の類いではない。基本的にゼウスが関わらない限り、女という存在を保護する存在なのだ。彼女は今のところニコマに対して好意的であるように見える。
そしてヘラから少し距離を空けて立っているのが、黒鎧の絶対者に負けず劣らずの体躯を誇る大男。頬がこけ、落ち窪んだ眼窩が気になりはするが、纏う漆黒のローブと暗いながらも整った容貌には暗黒の迫力がある。
髪や目、肌に至るまで黒一色の男は、冥府の王という肩書とは相反する穏やかな眼差しで佇んでいた。
――冥府から滅多に出ないというハーデスが、なぜ地上に顔を出している?
たまたまそんな気分だった、というのは考え辛い。彼は生真面目な性格で、ギリシア神話の神としては極めて良識的である。自身の職務を投げ出したりはしない。それにオリンポス十二神に名を連ねているのはかなり意外だった。
リアルでのギリシア神話では、ほとんどの場合ハーデスはオリンポス十二神に連なっていない。確かに数は少ないながらもハーデスを十二神の一柱とする記録もあるが、それは稀な例だ。ここはもう、『オリンポス』ではハーデスも十二神だったというだけのこととして受け止めるしかないだろう。
そのハーデスからさらに離れたところに、顔の半分以上を白い髭で覆い隠した巨漢がいる。ゼウスやハーデスよりも更に一回り大きく、剥き出しの胸板は岩壁のようだ。太々とした腕の筋肉も隆起し、ニコマの腰よりも太い。
柱のような三叉の銛を背負い、海の男とは我のことと主張しているかのような神性ポセイドン。彼は隠す気もない情欲の眼差しでニコマを捉えている。ギラギラとした色欲の目は、少女の肢体を視線だけで嬲っているかのようだ。
彼が大人しくしているのは、上位者であるゼウスがいるからなのだろう。彼の動向には注意が必要そうだ。
それとなく彼から視線を外し、ゼウスと思しき黒鎧の巨雄に意識を戻す。するとゼウスは、勿体ぶるように己を指した。
「そしてこの私こそオリンポス十二神を統べ、天地万物の理を治めし者。序列一位のゼウスである。以後、しかと見知りおけ」
「――私などのために大いなるお方々をご紹介くださり、誠にありがとうございます。感謝と感動の念も絶えず、お方々の偉大なるを胸に刻ませていただきました」
しかし、と。ニコマは視線を横に滑らせる。そこには彼らを除き、多数の神性がずらりと肩を並べている。
ゼウスの手前、あくまで控えているのであろうが、紹介されずに省かれたことに不満の色を見せている。ニコマは彼らを見ながら、その特徴から割り出して神々の名を挙げていった。
「それでしたら彼の御方々は順に、豊穣の女神デメテル様、太陽の光の神アポロン様、狩猟と月の女神アルテミス様、神々の伝令使にして旅人や商人の守護神ヘルメス様、炎と鍛冶の神ヘファイストス様――」
淡い青色のドレスを着込み、ヘスティアーをより毅然とさせたような女神がデメテル。
西部劇のガンマンのような背格好の、柔らかなブロンドをカールさせた好青年がアポロン。
彼のすぐ隣にいる、アポロンに似た長髪の女性がアルテミス。
丸眼鏡を掛けた、軽装の革鎧で身を固めた影の薄い男がヘルメス。
左腕と左足を銀色の手甲と足甲で――否、義腕と義足だろう。左目に銀の球体を嵌め込んだ醜い男がヘファイストスだ。
そして、これもまたアレイスに似通った印象の青年。書生めいたゆったりとしている服装の、文系のように見える彼で詰まりそうになりながら、ニコマは思い当たる名を口にする。
「――知恵と芸術、工芸、戦略を司るアテナ様」
「違う。なぜ僕だけ間違える?」
どうやら違うらしい。機嫌は良さげだったが、些か不快そうに神経質な細面を歪めて、美貌の青年は玲瓏な声音で訂正してきた。
「戦略は僕の管轄じゃあない。他は合っているが、荒事全般は妹のアレイスが統べている。僕の名はアテナイだ、二度と間違えるてくれるな」
「はい、申し訳ございません」
深く頭を下げる。そうしながらニコマは認識と知識の食い違いを修正した。
軍神アレスが女神となり、アレイスとなっているから、もしかしたらと思ってはいたが。まさか戦女神アテナが男神となって、戦略の領分までもアレイスに統合されているとは思いもしなかった。
こうなると『オリンポス』の神話事情も大きく変わっていそうである。アテナイがあくまで文化的な神なら、リアルのギリシア神話ではやられ役、嫌われ役だったアレスは戦女神として、戦争に纏わる全てを司る強大な神性ということになる。
それに――と、ニコマは居並ぶ神々を見渡した。ニュンペーをはじめとする雑多な神性はともかく、オリンポス十二神の面子はニコマが自分で名を挙げた者を含めると、全員で十二柱となる。しかしその中には美の女神アプロディーテがいない。番外扱いされることの多いディオニューソスがいないのはともかくとして、アプロディーテがいないのはどうしてなのか。
ハーデスがいるから、アプロディーテが十二神の席から弾かれただけとも思える。今は考えるだけ無駄と割り切り、思考を打ち切った。
「特徴だけでも伝え聞いていたのか。これは紹介せずともよかったかもしれんな? わざわざ紹介せずとも、己で答えを出せたと見える」
「いえ、ゼウス様の寛大なる御心でご紹介くださらねば、私も刎頸に値する間違いを犯していたに相違ありません。現にアテナイ様のお名前と権能を誤り、ご無礼をしてしまいました。ゼウス様、ありがとうございます」
「いいや、構わんよ。私は今、久しく絶えていた感動を覚えているのだから。未知の楽曲を未知なる術で齎され、既存の枠組みを超越した歌声に酔い痴れられたのだ。これほどの喜びは――ああ。引き合いに出せるモノがすぐには思いつかんほどだよ」
ゼウスは大きく腕を広げ、大袈裟なまでに自らの感動を表現した。そして同意を求めるように辺りを見渡すと、全ての神々が大きく頷いてみせる。
恐縮です、と応じる。しかしそれほど感動されるとは思いもしなかったというのが正直なところだ。
カルチャーショック的なものはあるにせよ、時代に合った嗜好というものはある。それらを丸ごと超えて、感性に直撃するのは意外でしかない。
何せオリンポス十二神が揃い踏みだ。半日程度の歌唱で、こうまで自然と集まってくるだなんて誰が想像できる。予想外どころの騒ぎではない。明らかに今、ニコマを中心とした神話の一節が紡がれている。
ニコマは、嬉しかった。自分が注目されて、多くの関心を寄せられているのが。しかしそれよりもなお強い悦びとなっているのは――『イベント』の、気配がすること。
ゼウスが目の前にいるというのに、思考の大半を占めているのは別の感慨。
思えば大袈裟なことになったものだ。ちょっとした歌の練習のつもりが、こうしてゼウスをはじめとする超大物が雁首揃えて来たのである。フットワークが軽すぎて、有り難みがちっとも湧かない。
もっと楽しく、激しく、重要なイベントで顔を合わせたかった。背神者としてか、従順な人間としてか、なんでもいいけども。とにかくもっともっとドキドキするような、命を使っている実感にひりつく過激なスリルが欲しかった。
(――つまんないなぁ)
ニコマは楽しくて愉しくて、笑うしかない。
つまらなくて、楽しい、だからこそ物足りない。
故にニコマは固く決心する。
(神様たちにこんなにも簡単に会えてしまうなんて……エンターテイメント性に欠けてますよねぇ。つまんないですよ、つまんないから……ええ、私が面白くしなくちゃ、ですね)
全知全能というには失敗談の多いゼウスは、ニコマの心中を見事に見抜けているだろうか。
見抜けていないと、ニコマは思う。いっそ確信すらしていた。だってニコマはゼウスに、自分に近いものを感じていたから。
彼は真実、全知全能なのかもしれない。だがそれはつまらないと思っているのではないか。だからこそ自身に制限を掛け、全知も全能も発揮していないと思う。そうでなければ、失敗や苦悩を重ねるゼウスが全知全能だなんて、たちの悪い冗談でしかなくなるのだから。
となればゼウスもまた愉しんでいるのだろう。そしてもしそうなら、ゼウスはきっとニコマを理解してくれる。――みなさんも、一緒に楽しみましょう? ニコマは聖なる佇まいのまま、腐り果てた内面で下品に嗤っていた。
「ところで、だ」
ゼウスが、言う。なんのけなしに、気軽に散歩にでも誘うような口ぶりで。
「其処許の詩と、魔力による不可思議な楽調は実に素晴らしいな。……であるからこそ解せん、なにゆえにアーテーなどと共にいる?」
その問いに、アーテーがギクリとする。なんとか気配を消して縮こまっていたのだが、ニコマの隣にいたのでは隠れられるはずもなし。アーテーから縋るような目で見られてニコマは苦笑した。ほんとうに神様っぽくない、そこらの小娘のようで、同年代の可愛らしい友人のように思えてくる。
友人。その呼び名に、ニコマは可笑しくなる。故にニコマはあっさりと彼女に気を許した。もし彼女が自分に破滅を齎すなら、願わくばド派手な破滅を齎してほしいものだと思って。そうであれば友達甲斐があるというものである。
「私の勝手な主観に拠りますが、アーテー様は人にとって非常に有り難き神性と心得ております。故にこそ私はアーテー様を信奉し、不遜ではありますが私の旅にご同道してくださることに感謝しているのです」
「ニコ……」
「人間にとって、有り難い? ますます解せん……その心はと問うてみてもいいかな、ニコマよ」
「仰せのままに。――アーテー様は知性ある全ての者へ、自業自得の因果による破滅を齎します。それすなわちアーテー様の存在は、人が軽挙妄動を慎む強き理性を持つように戒めるものでしょう。手前勝手な解釈で恐れ入りますが、私をはじめとする全ての人間にとって、神々は計り知れぬほど偉大なるもの。偉大な御方々であるからこそ、神々はあらゆる角度から人に恩寵を賜わしてくださっているのだと理解しています。であるからこそ、アーテー様だけが例外であるとは思えません」
「ほう……」
感心したように唸り、おもむろにゼウスが歩み寄ってくる。ギュゥ、とニコマの袖を掴むアーテーを一瞥すらせず、最高神は腰を屈めて黒髪の乙女の耳に口を近づけた。
そして、一言。ゾッとするほど冷たい声で、傍らのアーテーにすら聞こえないほど小さく、蚊の鳴くような声で囁いた。
「己が身の滅びを愉しむか、小娘」
「―――」
「私の目を誤魔化せると思うたか? 其処許の言に嘘偽りなく、故にこそ他の者共を謀れようとも、この私を欺くことはできぬと知れ」
「……お戯れを。私如き小娘、ゼウス様に威かされては泣いてしまいそうです」
「白を切る面の皮の厚さもまた見事。地上に降りるにあたって、全神性がその格を落としてはいるが、気圧されもせん精神の強さも褒め置こう。――ああ。其処許はこの世の者ではないゆえ、事と次第によっては処断しようと思うていたが、どうやら放っておいた方が愉しめそうだ」
(――見抜かれている?)
ニコマの生まれが、この宇宙ではないと。インベーダーであると、察知されているというのか?
刹那の間、背筋に冷たいものが這う。ゼウスはニコマの頬に手を当て、そしてすぐに背を向けて離れていく。彼が触れたことで、思念が送られてきたのだろう。ニコマの頭の中にゼウスの声が響いた。
『私はこの世の秩序を守護する者。これを乱すモノはなんであれ始末する。だが――許された範囲でなら、無聊を慰めるためにも興じてやろう。ニコマよ、精々愉しむといい。其処許の行く末、眺めるのも悪くない余興だ』
ニコマ・ソクオーチは微笑んだ。ゼウスもまた微笑んでいた。
どうやら、見逃されたらしい。簡単に騙し通せる手合いばかりでないのは、好ましいことだとニコマは思う。
だがそうであるからこそ去来するものがある。安価で定まったロールに徹して、『オリンポス』の黒幕となるには――最大の障害となるのはやはり、ゼウスなのだろう。これは必ずや除かねばならない壁である。
愉しいですね、と内心で溢す。不安げなアーテーに完璧な笑顔を向けて、そして元の立ち位置に戻ったゼウスへ顔を向けた。
「神を敬うその姿勢、誠に天晴である。人とは斯く在れかしと指し示すべき、善き模範と言えような」
「恐悦至極に存じます」
「無闇に神の中に優劣を定めぬこと、これを身の程を弁えるという。神の優劣は神のみが語る、人が定めるものに非ず。故にこそ――フッフフ、ハハ……ああ、ああ、其処許に相応しい罰が決まった」
ゼウスが前振りなく、群衆の片隅に混ざっていた男を指した。
誰だ、と思う間もなくゼウスは言う。
「琴聖、オルフェウス。我が前に跪くがいい」
まさか己が名指しで呼ばれるとは思いもしなかったらしい。驚愕し、しかし逆らうことなどできるはずもなく、一人の青年が群衆の中から進み出てきた。
どことなく陰のある、病床に伏せていそうな耽美な印象の優男だ。
彼はオリンポス十二神の、古代服飾技術を無視した服装とは異なり、極めてスタンダードな服装をしていた。ウールの一枚布を左肩でビンで留めてベルトを締め、右肩を剥き出しにした格好だ。その上にクラミュスという短い外套を着込み、分厚いブーツを履いている。
色の抜けきった白髪は銀の如く、若い相貌は女人の如し。オルフェウスと呼ばれた彼は言われるがままゼウスの面前で跪き、頭を垂れた。そんな彼の顔には冷や汗がポツポツと浮かんでいる。
「聞いているぞ、オルフェウスよ。其処許は常日頃からアポロンこそ至高の神であると言って憚りがないらしいではないか」
「は……それは――」
「問答は無用。人の身でありながら、神の優劣を語るとは不届き千万。ましてやこの私の上にアポロンを置こうとは、百万の歳月を責め立てても飽きたらぬ罪過だと断ずる。故に神託を下そう。この場で、この私が、直接だ。感涙に咽いでもいい、伏して従え。さもなくば深淵の奈落にその身を落としてくれる」
「………」
ゼウスは殊更に強く、オルフェウスをなじる。ニコマは神妙な顔をしながらも、ますます確信を深めていた。
やっぱり、ゼウスもまた愉快犯なんだな、と。こうまでキャラが被ってしまうなんて、競合は不可避である。深刻な問題だ、是が非でも是正せねばなるまい。
少女に、とばっちりを食らっているオルフェウスを心配する気持ちは、完全無欠なまでに絶無であった。
「オルフェウス。其処許は一から神を敬う姿勢を学ぶがいい。そこの麗しき乙女、ニコマに弟子入りしてな」
「――は? 今、なんと……?」
「ニコマが許すまで、ニコマの弟子として仕えよと言った。奴隷の如く奉仕するのだ、許しなくば永遠に。以って贖罪の儀として罪を許す」
唖然とするオルフェウスに構うことなく、ゼウスは宣言した。
「――皆の者、これなる乙女はニコマという。突然の歌の祭典はこれにて閉幕だ、各々の家庭に戻るといい。さあ、さあ!」
この世の絶対者に逆らえる者はおらず、名残惜しそうにしながらも神々や、人々が立ち去っていく。それを見届けて、ゼウスは残った十二神の面々に笑い掛けて帰宅を促した。
「我が親愛なる家族たちよ。ニコマは旅の途上、それを妨げる無粋は彼女の詩を穢すものと弁えるといい。美しき少女を口説きたくば、また日を改めることだ」
その言に頷いたのは――四柱の男神。あらー、と少女は目を瞬く。
こんなにもロックオンされるだなんて、可憐なるは罪らしい。女神たちがひどく同情したような目を向けてくるのが可笑しかった。
では帰ろう。
そう言って、ゼウスは光の粒子となって消えていった。それに続いて次々と神性が消えていく中、ヘラがゆったりとした所作で歩み寄ってきてニコマに声を掛けてくる。
「好色な男に目をつけられるだなんて、とんだ災難だったわね。何かあれば妾に相談なさい、できる限りの保護はしてあげる」
「忝なくもご厚意に甘えさせていただきます。その時は私に用意できる最大限の供物と共に、祈りを捧げても良いでしょうか?」
「ええ。壮健でいなさい、供物として捧げるのは妾のためだけの詩でもよくってよ」
ヘラのその言葉にニコマは微笑して礼を示す。
そうしてヘラもまた消えて行ったのを見届けて、呆然としたままのオルフェウスと、緊張が解けてふにゃりとしてしまっているアーテーを見渡した。
「――うん、これは安価案件ですね」
安価の聖女はそう言って、奉じる指針に判断と行動を丸投げするのだった。
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