(2)
やはり今日もついていない。
湊斗がよく行く、駅近くのパン屋。昔ながらのパン屋と言った風情のその店に並ぶのは、デニッシュやらフォカッチャやらのお洒落なものでは無い。
王道のアンパン、クリームパン。それに、揚げたコッペパンにコールスローサラダを挟んだサラダパンや、潰したゆで卵とマヨネーズを和えたものがたっぷり挟まった玉子サンドなど、懐かしくて美味しくて、ボリュームがあるものが多い。
湊斗が週に一度は通う理由の一つは、無料でもらえるパンの耳だ。今日も狙って行ったのだが、先客が最後の一袋を買ってしまい、ちょうど売り切れてしまった。
無言で落ち込む湊斗に、顔馴染みになった店長のおじさんが「すまねぇなぁ」と謝ってくるので、急いで首を横に振った。
何も買わないのも申し訳ないので、曜日限定の百円パンを四つ買う。明日の朝食と昼食にしようと、パンの香り漂うビニール袋を提げて店を出た。
その時、男性が一人、前の道路を歩いてきた。立ち止まってやり過ごそうとしたが、その男性はなぜか湊斗の手前で立ち止まる。道を譲ってくれたのだろうか。男性の顔をろくに見もせず、湊斗が会釈して通り過ぎようとした時だ。
「――湊斗君?」
「……」
「あっ、ちょっと待ってよ」
無視して歩く湊斗の腕を横から掴んだのは、さらさらとした茶髪の青年だ。シンプルなTシャツに細身のジーンズ、ジャケットを着た姿は、いかにも爽やかな好青年。人の好さそうな顔はどこかで見たことがある気もするが、覚えていない。
「……誰?」
「うわ、ひどいなあ。もう忘れちゃった? 佐野だよ。ほら、慧君……水宮君のスタイリスト。レストランでの撮影現場で会ったじゃない」
「……ああ」
朝川リナの事件の時、水宮の髪をいじっていた奴だ。そして、湊斗の髪形や眼鏡にいちいちダメ出しをしてきた男だ。
胡乱に見やるも、佐野は気にした様子もなく、ぐいっと顔を寄せてくる。
「眼鏡替えたんだね。うん、前よりずっといい」
……そういえば、前回もぐいぐいと距離を詰めてくる奴だった。パーソナルスペースを考えないところが水宮に似ている。
「でも、髪、全然手入れしていないでしょ? ……まさか、あれから伸ばしっぱなしじゃないよね?」
眉を顰める佐野の言う通り、理容室には行っていない。前髪は長い方がいいが、さすがに自分でも鬱陶しくはなっていた。そろそろ切りに行こうと思っていたところだ、と心の中で言い訳をする。
「……あんたに関係ないだろ」
佐野から身を離しながらぼそぼそと返すと、佐野は「関係あるよ!」となぜか返してくる。
「ほら、この間言ったでしょ。お詫びに無料でカットしてあげるって。名刺も上げたのに、君、全然来てくれないんだもんな」
「……」
そう言えば、そんなことも言っていた。
だが、名刺を確認した時に、彼の美容室の住所が都会のお洒落な中心地――人の多い所だと知って、行く気が失せてしまったことを思い出す。
「いや、別に……いつものとこに行くし。じゃあ――」
そそくさと湊斗は背を向けて去ろうとしたが、再び佐野が腕を掴んできた。
「せっかくだし、カットしようよ。俺、今休憩中で……ああ、今さ、友達の店に助っ人で入ってんだ。店はこの近くだし、三十分もあれば終わるよ。あ、もちろんタダで」
「いや、いいです」
「オーケーってことだよね? よし、じゃあ行こうか!」
ノーの意味に決まっているのに、佐野は強引に湊斗を引っ張った。
「おい、あんた……!」
「ほら、ここで会ったが百年目って言うじゃない」
わくわくと言ってくれるだが、その言葉、『ここで会ったのがお前の運の尽き』というネガティブな意味だったと思うが。「その鬱陶しい髪、切りたかったんだよねー」と続ける佐野の言葉に、あながち正しい意味で使っているのかもしれないと湊斗は頭の隅で思う。
水宮と同じペースの彼に逆らう気力も湧かず、特に予定も無く家に帰るだけだった湊斗は、諦めの溜息を吐いた。
どうせ無料なのだ。散髪代が浮くと考えれば、ラッキーかもしれない。佐野に引きずられながら、湊斗は浮いた散髪代を何に使うかつらつらと考えていた。
アップバング、クラウドマッシュ、ツーブロックーー。
訳の分からない横文字が、ひたすら頭上を飛び交った。
(ニュアンスパーマのニュアンスって何なんだ? ソフトなモヒカンってどんなモヒカン? ミディアム七三って!?)
湊斗は表情には出さずに内心で戦々恐々としながらも「地味な髪形で」「前髪は短くするな」という注文だけは譲らずに、何とか修羅場を潜り抜けた。
髪形が決まるまでに時間が掛かり、気づけば三十分を優にオーバーして一時間以上経っていた。シャンプーの後、最後の調整を終え、さらにドライヤーやアイロンを使ってセットされた頃には、湊斗は慣れない空気に疲労していたものだ。
佐野の友人の女性美容師は、その出来栄えを見て、店のホームページに掲載するからと写真を撮ろうとしたが、しっかり断った。
「じゃあ今度は私に切らせてね!」
安くするから、と割引チケットを握らされたが、内心ではもう二度と来ないと誓う。
ぐったりとした湊斗に、佐野は苦笑した。
「ごめんね、時間、思ったよりも掛かっちゃって」
「本当にな」
「あ、そこは『いえ、そんなことないですよー』って言ってくれないと。友達できないよ、湊斗君」
「……」
顔を顰める湊斗に、佐野はにこにこと笑うだけだ。人の話を聞かないところや、痛い所をついてくるところまで水宮に似ていて、イラっとする。
佐野が手入れの仕方を言うのを半分聞き流しながら、湊斗は眼鏡をかけて鏡に映った自分を見る。
耳周りと襟足はすっきりと短く切られ、前髪は要望通り短くはされなかったが、それでも目にかからないくらいになっていた。もっさりとしていた頭が、全体的に軽くなって、自分でも少し「いいなこれ」と思ったくらいだ。佐野はちゃんと美容師だったのか、と失礼にも今さらながら思う。
これで無料だというのだから、間違いなくラッキーだ。最近ついていないことばかりだったが、ようやく運が回ってきたかもしれない。
スースーする首元に触れる湊斗は、気にも留めない。切られた髪が、足元に大量に散らばっていることに――。




