4 潔癖症
「ようし、じゃあアンケートにより十組は喫茶店ということで」
委員長の鈴元の声に顔をしかめる。声が大きく、少しイライラした。
そういえば彼は最近勧誘に来なくなった。
金曜日は授業が長い。そう感じるのは七時間目のこのホームルームの時間が原因なのだろう。
しかしこんな匿名のアンケートに意味があるのだろうか?
そんなことを考えながら田島はぼんやりと教室を見渡した。友一の席はいつの間にかなくなった。クラスメイトは皆、それが初めからなかったかのように振舞っている。皆、演技をしているのだ。
そう考えると恐ろしい。突然、とんでもなく、この空間が嫌になった。
早く帰りたい。
ため息をついたとき、田島の願望を叶えるかのように、授業終了のチャイムが鳴った。ときに煩わしく感じるこの音も、今はとても心地の良い。
掃除当番ではないが、強引に決定された部室の掃除係の仕事をまっとうすべく、田島は鞄を掴み教室を出る用意を始める。すぐに帰宅できない事実に、再びため息をつかずにはいられなかった。
「なぁ、鈴元、お前友一知らない? 最近見ないし、机も、なくなったよな」
信じられない台詞が聞こえた。前方の席を確認すると、誰もいない。関係のないことと割り切ればそれまでなのだが、顔が青ざめていくのが自分でも分かった。田島に聞こえたということは、きっと他のクラスメイトにもこの台詞は聞こえたということだ。発信源は、おそらく教室前方。先ほどまで教卓付近にいた鈴元の方だろう。一方田島の席は教室の後方、一番後ろというわけではないが、後ろのほうと言って差し支えない位置だった。
皆はきっと動揺している。その証拠に、教室内は水を打ったようにシンとなっていた。
「はぁ? ちょ、お前頭大丈夫?」
しばらく時間を置いた後、鈴元の返事が静まった教室内に響き渡った。高橋は、教室の異様な雰囲気に気付いていないのか、気付いているのに気付いていないフリをしているのか、それとも関係のないことだと割り切っているのか、とにかく普段通り、いや普段よりも数段飄々とした風に、言葉を返した。
「大丈夫って……確かに鈴元よりは成績悪いけど、その言い方は酷くね?」
鈴元は、その返事に「あ゛ー」と唸りながら、自分の髪を掻き毟る。次に、静まった教室を見渡し、高橋の腕を強く掴んだ。しかし、それはすぐに振り払われる。
「触るな。痛いだろ」
「あー、わるいわるい。とにかく、ちょと――」
そんなやり取りの末、二人は教室から姿を消した。
なんだろうこの、胸糞悪い感じ。さっさと部室行くのが正解だな。
田島はそう判断を下し、携帯電話を鞄に放った。
歩き慣れた廊下を通り、部室を目指す。面倒くさいことこの上ないが、先輩の役に立つなら本望というものだ。
「なんだよ掃除係って、初めから居なかっただろそんな係」
田島は埃臭い部室に眉をしかめていた。普段から掃除をしていればここまで酷くはならないはずだ。以前来たときには気付かなかった汚れが目に付き、かれこれ一時間近くそれらの汚れに付き合っていた。早々に切り上げてしまえば良いことは分かっているのだが、潔癖症という性格上、しっかりと窓のサッシの炭を綺麗に除去してしまいたかったのだ。
先ほど見てしまったやり取りを忘れるべく、雑巾を握る手に力が篭る。なかなか良い気分とは言えるものではなかった。
「あのう、志摩先輩知りませんか?」
聞き覚えのない声だった。振り向くと、開け放ったドアの向こうに、背の高い、少し気の弱そうな人物が立っていた。二年生の色を表す緑のネクタイ。
演劇部の入部希望者だろうか? いや、しかしこんな状況下で入部したいと思う物好きは俺くらいなものだ。
「いやー、今日は部活ない日なので僕は分からないです。すみません」
田島の返事に、相手は「おかしいなぁ」と首をひねった。
先輩とはどういった関係なのだろう? 二年生に知り合いがいる人だったのか。意外だ。
「あのう、失礼ですが、先輩とはどのようなご関係で?」
帰る素振りを見せない相手に、田島は話しかけた。このまま無視して掃除に没頭してもよいのだが、心の知り合いを邪険に扱うのも気が引ける。かといってお茶やお菓子を振舞うのも、なんだか違うと思ったのだ。
田島の質問に、相手はひどく狼狽した様子で、後退さった。
しまった、こう名前とか、クラスとかを先に聞いたほうがよかったかな……。
「ええと、あの、すみません。僕、田島丈治と申します。失礼ですけど、お名前を伺っても?」
そう言うと、相手はおずおずと部室に足を踏み入れた。埃っぽい空気に、少しだけ表情が曇る。
「あぁ、あの安藤と言います。二年の三組で、その志摩先輩とは、えーと……」
安藤は落ち着きのない様子で話した。しかし心との関係は話したくないようで、言葉を濁す。
なんだよ。先輩に金でも借りてるのか? そんなに後ろめたいことがあるのか? 麻薬とか栽培してたりして。まぁ、そんなふうには見えないけれど……。
「安藤君? すいません、ホームルームが長引いてしまって」
今度は聞き覚えのある声色だった。しかし田島の知っている人物は、こんな話し方をするような人間ではない。その違和感に、首をかしげながら、声のした方に視線を移す。
「せんぱい? なんですか、その話し方」
心だった。田島を掃除係に無理矢理任命した人物と同じ人間とは思えない口調だった。田島と初めて会ったときの、高橋に対する口調も、決してこんなに柔らかいものではなかったはずだ。
「何って? 昔から口調は変わってないけれど。田島君も、掃除はいいからもう帰ったらどうかしら? 私は安藤君と帰るから、鍵はちゃんと職員室に返しておいてね」
うわー。なんだろうこの感じ。気持ち悪いというかなんと言うか、まぁそれでも先輩が綺麗なことには変わりはないんだけれど。でも……。そもそもこの安藤って奴は何なんだ?
「じゃぁ、お先でーす」
心と安藤は、そんな台詞と共に、田島の視界から姿を消した。
あぁ、もう。どうでも良いけど、なんだよそのOLみたいな口調は! 先輩はそんなに人格変わる人だったのか。まぁそれでも綺麗なことには変わりがないんだが。
田島は手にしていた雑巾を放り、帰宅しようと、椅子に置いた鞄に手を伸ばした。しかし、足を滑らせてしまい、その反動で机と椅子をひっくり返してしまった。これはおそらく高橋が使っている机だ。床を水拭きしたのが原因なのか、滑りやすくなっていたようだ。大きな音が響き、机にぶつけた足が痛む。
はぁ、厄日とはこのことか。せっかくの金曜日に、ホームルームでは気まずいやり取りと目撃し、掃除をしたらひっくり返る。おまけに先輩には恋人らしき人がいて……。
おや? と首を傾げた。高橋の話によると、心は弟の友一と恋人関係にあったのではないか? と。
高橋は嘘をついていたのだろうか? いいや、おおかた記憶の曖昧な奴だから、本気で信じた俺が馬鹿だったというオチなんだ……。
田島はガックリと頭を垂れると、倒れた机や椅子を復元すべく、机に手を掛けた。
「なんだろう?」
ガサリ、と手に違和感があった。机の中に入っていたものなのだろうか? 何の変哲もない、くしゃくしゃに丸められた紙。捨てておけば良いのだろうか? しかし、確認もせずに勝手に捨てて怒られたら堪らない。田島はそれを、広げ、綺麗にピンと伸ばした。
「……」
何か、文字が書いてある。たった一行小さな文字だった。細いシャープペンシルで書かれたためか、文字は半分消えかかっていた。さらには汚い、走り書いたような文字なのだ。
何とか読み取れないものか。と、田島はじっくり目を凝らす。
顔を近づけると、文字が幾分よく見えた。特徴のある筆跡だが、読み取れないことはない。
――姉さんがこわい。
そう、書かれていた。
姉さん? 誰かの妹か、弟が書いた? しかしどうして高橋の机に……? ホラー映画みたいだな。
そう考えるとなんだか急に恐ろしくなった。誰もいない部室。窓の外は、夏だというのにもう、暗くなりかけていた。随分遅い時間なのだろう。
「あぁ、きっと台本かなんかの書き損じだろ。早く帰ろう。そうだ、それがいい」
倒した机や椅子を直すこともなく。田島は鞄を掴み、そそくさと部室をあとにした。鍵を閉め、職員室へ走る。手を洗うのは家に帰ってからだ。と、自分に言い聞かせながら。