2 殺してやりたいくらい好き
放課後、田島は憂鬱な気分で廊下を進んでいた。吹奏楽部が奏でる音楽が、これまでにないくらいとても安らかな音色に聞こえる。
「いやー、先輩も喜ぶよ。かなり粘って交渉したけど、今月中に誰も入らなかったら廃部だからさぁ」
田島の暗い表情とは裏腹に、隣を歩く高橋は明るく、口調も一段と元気が良い。
なぜだ? 俺は見学すると言っただけなのに、どういうわけか入部する流れになってしまっている。これは一大事だ。どうにかしないと……。
「あ、あの。高橋、俺は――」
口を開いたそのとき、急に高橋が立ち止まった。一階の体育館の隣。言われなければ気がつかないほどのスペースに、古びたドアがあった。
何度も通っている、それこそ体育の授業毎に来ているはずの場所であるにも関わらず、田島はこの扉に初めて気がついた。
「ここだよ」
高橋は当然のようにそう言うと、ノックもせずに扉を開ける。先輩が居たらどうするつもりなんだろう? 全くデリカシーというか常識のない奴だとつくづく思う。
部屋の様子は、普通の準備室とあまり変わりはなかった。薄暗く、コピー機やストーブが乱雑に置かれていて、部屋の中央にはやや大きめの机とパイプ椅子が五つあった。どうやら志摩先輩はまだ来ていないようだ。
部屋に置かれている何よりも目に付いたものは、この部屋唯一の窓からの光を遮断してまで作られたスペースにあった。どこから調達したのかまるで検討がつかない巨大な用紙に、これまた巨大な文字で黒々としたそれが並んでいたのだ。ミミズの這ったような汚い丸文字。逆光になっていて読み辛いが、よく目を凝らすと、その内容が読み取れた。
ニ苦い食べ物大嫌い
ュ夢物語が大好きな
ウ宇宙人なら尚素敵
ブ不気味な言葉を紡ぐのは
キ共産主義者の仕事なの
ボ防衛省には敵わない
ウ運転技術の向上で
シ新宿駅までひとっ飛び
ャ休みの日だけゆっくりと
ボぼんやりするのが私の日課
シ仕事が無いのも考えもの
ュ夕食だって一人だし
ウ家に居たって仕方がない
チ巷で人気の演劇部
ュ勇気を出して叫ぶのよ
ウ旨い餌には引っ掛かれ!
なるほど、頭文字を取ると“入部希望者募集中”となるわけか。しかし少々意味が通じない箇所がある。まぁ、この類の文字列に意味を求めるのは野暮というものだろう。しかし、この紙はどこか別の場所に貼ったほうが良いのではないだろうか? 部室に貼り付けても入部希望者が増えるとは到底思えない。
「あぁ、それは先輩が書いたんだよ。字下手だよなぁ。先輩が「これを貼れば、必ず入部希望者が来る」って聞かなくってさぁ。俺は意味ない、って言ったんだけど、先輩の読みが当たったよな」
田島の視線に気付いたのか、高橋は勝手に説明を始めた。表情は、相変わらずヘラヘラとした笑い顔のままだ。
だから、俺は入部しないって何度も言っているのに……。こいつ人の話聞いてないよな。前々から思ってたけれど、その性格はどうにかして治らないものだろうか?
田島が眉をひそめていると、唐突に部屋の扉が開いた。高橋のように乱雑ではなく、ゆっくりと、上品に扉が移動する。扉が人の手によって開けられているのではなく、扉そのものの意思によって開かれたのかと思うほど、華麗な動きだった。
「ゴキブリってエビフライの尻尾と同じ食感って話、本当なのかな?」
華麗な動きで開かれたドアから表れた人物は、可愛らしい容姿をしていた。第一ボタンすら外していない真っ白なブラウスに、きっちりと巻かれたネクタイ――それは三年生であることを示す赤色をしていた。紺色のスカートは三年生であるにもかかわらず、折り曲げられずに膝丈まで伸びていた。肩の下まで伸びたストレートの黒髪が、白い肌を際立たせている。
「なぁ、高橋聞いてんの? ゴキブリの食感だよ。お前なら食べたことあるだろ? 昔、テレビで見たんだよ。とても苦そうだった」
この人が志摩先輩……なのだろうか? 弟の志摩君はクラスでも目立たない、華のない奴だったのに、お姉さんのほうはとても綺麗だ。流石演劇部に所属しているだけのことはある。
「はぁ、えーと。ゴキブリはありますけどエビフライを食べたことがないので分かりません。カリカリしてて苦いですか? もしそうなら似たような味だと思いますけど……ゴキブリよりナメクジのほうがまだマシな味ですよ」
そうかそうか。これだけ綺麗な先輩が居るんだったら演劇部も悪くないかもな。こんなことだったらもっと早く入部していれば良かった。清楚な先輩――いいじゃないかぁぁああ!
「あっ、そうだ先輩。入部したいって奴が居たんで、連れてきました。どうですか? わりと格好良いでしょう?」
高橋に肩を叩かれて、田島は我に返った。それまでの心と高橋の会話は全く頭に入っていなかった様子だ。
「はい! 田島丈治といいます。宜しくお願いします!」
「ふーん。じゃあ入部届け出しといて。どこだっけ? 生徒会かな? よろしく。……それにしてもこれで廃部にならなくて済むな。やっぱりこのお守りのおかげかぁ。もう外そうか」
田島の熱意の篭った挨拶を気にも留めず、心は部室に貼られている巨大な用紙を眺めた――部室の薄暗さはこれが原因ということは心にも分かっているのだろう。
「これは私が作ったんだよ。どう? えーと……名前は……田島? だよな」
心は「外そうか」と言ったはずなのに、用紙を取り外そうとする素振りを見せず、パイプイスに腰を下ろした。潰していない鞄を机の上に放り、腕組みをする。自分に自身を持っている人間の動きだった。
「はい。良いと思います。こういうの、好きなんですか?」
「うーん。そうだなぁ。あんまり褒められたことはないけど、弟が好きだったから」
そう言いながら、心は窓を覆う用紙を眺めた。必然的に首を少し傾げ、上目遣いになる。
こんなところに地雷があったなんて、反則だろ! だいたい志摩君は同じクラスだったけど俺は仲良くもなかったし、別段虐められているところを見たこともないぞ。そうだ、俺には何も疚しいことはない。あるのは……何だ? 何もない! そう、何もない。
心が発した唐突過ぎる台詞に、心臓の動きが早まった。必死で思考を巡らせ、自分を落ち着かせる。
「そういえば高橋、今日水曜日だろ? 病院行かなくて良いのか?」
「はぁ、そうですね。じゃあそろそろ失礼します」
高橋は返事をしながら鞄を掴んだ。
病院? 病院って何だ? 高橋が病院に行っているなんて話、聞いてないぞ?
「病院って?」
尋ねると、高橋よりも先に心が声を発した。驚いた声色。
「あれ? 高橋の友達じゃないの? 別に隠すことでもないのに……」
隠すことでもない、ということは魔法量のことだろうか? それなら知っているが医者にかかって治るものではない。先輩の口振りからすると、常習的に通っている様子だ。どこかそんなに悪いのだろうか?
「はぁ、隠していたつもりはないんですけど……今日は急ぐので失礼します」
高橋はそそくさと鞄を掴み、部屋を去る。ドアを開け閉めする様子は相変わらず乱暴だった。
どうしたのだろう? いつもの高橋らしくない。魔法量が足りないことをそんなに気にしていたのだろうか?
「高橋、どっか悪いんですか?」
心が答えてくれるとは思わなかったが尋ねずにはいられなかった。曲がりなりにもクラスメイトなわけだし、そこそこ親しい間柄だ。
「いや、私から言うのは……ちょっと。私はそこまで不遜じゃないから。ところで、田島は十組?」
「……はい。そうです」
心の言葉に田島は少しだけ驚いた表情を見せた。「不遜」という単語を日常生活で使っている人間はあまりいないのではないだろうか?
心は田島の様子を気にも留めず、パイプイスの背もたれに寄りかかった。机の上に置かれた自身の鞄から出したスナック菓子を齧っている。
「そう。高橋と同じなんだ。だったら知ってると思うけど……。まぁいいや、高橋が足りてないのは知ってるよな?」
「足りてない」というのは魔法量のことであることはすぐに理解できた。主語がなく、ただ「足りてない」と使われる場合、魔法量のことを示しているのは常識だからだ。差別用語として使われることが多いのだが、心の口調からは、侮蔑の意図は感じられなかった。
「まぁ、知ってます」
「そう、でもそのこととは関係ないから」
まるで事務的な会話をしているようだった。心が伝えたかったのは、高橋の病院通いと魔法量が足りてないことが無関係である、ということだけで、それ以上の質問は受け付けない、言っているような響きを持った声だった。
はぁ、こんなことなら訊くんじゃなかった。俺は別に高橋のことを心配してるとかじゃないし、だいたいあんな非常識な奴、どうなったって俺には関係ないじゃないか。まぁ演劇部に勧誘してくれたことには感謝してるけど。
田島は心の中で舌打ちをした。初対面である心に嫌われたような気分になったからだ。心はそんな田島のほうへ目をやることもなく、スナック菓子を齧り続けている。
「そうだ。田島も食べる? 甘いもの平気? つーか座ったらどうよ」
心は腕組みを止めた代わりに、今度は足を組んでいた。机の上にはスナック菓子だけでなく、ジュースも置いてある。どこから出してきたのだろう? 田島は、昼御飯を食べていない胃袋が食料を欲しているのを感じた。さっきまでは空腹感などまるでなかったのに、それが嘘のようだ。
「はい。じゃあ頂きます。甘いもの好きです」
短く了解の返事をし、手近にあるパイプイスに座る。心はコピー機の隣にある冷蔵庫からジュースやお菓子を取り出している。
「これ、バイト先の先輩がよくくれるんだよ。暇なとき勝手に食べていいから」
そう言いながら、二リットルのペットボトルに入ったオレンジジュースをコップに移す――まるで何かの打ち上げだ。
田島はおずおずと菓子の一つに手をつけた。甘く、いかにも身体に悪いもの、という味がした。こういった嗜好品を摂取している感覚は久しぶりだった。懐かしい昔の思い出が蘇る。
「甘いもの平気で良かったよ。はいジュース」
きっと高橋もこうして放課後、お菓子やジュースを食しているのだろう。演劇部に入ればこんなに素晴らしいことが待っていたのか……こんなことならもっと早く入部していれば良かった。高橋が先輩を「良い人」と評価したのも今なら理解できる。
「はぁ、もうこの時期だと周りが進路進路煩くってさぁ。困るよ」
田島は心が話を振ったので、安心した。このまま無言でお菓子を食べ続けるのは些か苦痛を伴う。それがいくら心と一緒でも、だ。
「私も高橋くらいの成績よかったらなぁ。もったいないよな、あれだけ頭が良いのに……」
高橋はきっと、魔法量さえ足りていればもっと良い高校にも行けただろう。人生そう簡単にはいかないものだ。
「そうですね。あいつこの前の中間も結構点数よかったし」
学年で三位以内には入っていたと思う。総合得点の貼り出された廊下は混雑していてあまりよく見ていない。田島には縁のない世界だ。
「それにあいつ、記憶喪失だしなぁ」
心の言葉に高橋は驚いて目を見開いた。記憶喪失って、昨日の夕食が思い出せないとかいうアレか?
「き、記憶喪失ですか?」
驚いて訊き返すと心は首を大きく傾げた。セミロングの黒髪がだらりと垂れ下がる。田島があまりにも高橋のことを知らないことに驚いているようだった。化粧っ気のない整った顔に戸惑いの表情が浮かぶ。
「あいつは友一が死んだとは思ってないみたい。演技かどうかは分からなけど、そういう演技をしようとすれば簡単にできると思う」
心は再び部室の巨大な用紙に目を向けながら言った。家族が死んだのだからそれは計り知れない悲しみだろう。しかし、そのことと高橋が記憶喪失であることは全く関係のないことに思えた。何故、心はそんなことに執着を見せるのだろうか?
「先輩は、演技だと思ってる。ってことですか?」
束の間の沈黙。スナック菓子を噛み砕く、あの心地よい音すら聞こえない。締め切ったドアと窓からは、当然風が吹き付けることもなく、嬉しくもない無音の状態を保っていた。
「もしも……」
心がゆっくりと唇を動かす。視線は相変わらず用紙に向けたままで、田島にはその表情が伺えなかった。
「もしも、高橋が友一になにかしていたなら――殺すかもしれない。絶対に許さない」
その言葉には明らかに殺意がこもっていた。
怖い……でも先輩の言うことは至極真っ当なことなのかもしれない。俺だって、もし兄弟の誰かが殺されたら犯人を殺してやりたいと思うかもしれない。でも高橋は人を殺すような人間ではない。普段の行動からして、少し空気の読めない、人当たりの良い奴だと思う。
「先輩考え過ぎですよ。高橋はそんな奴じゃないと思います」
田島はできるだけ、柄でもない明るい声色を出した。気を利かせたつもりだったのだが、心はそんな田島の台詞を鼻で笑った――まるで高橋の何を知っているんだ。といわんばかりに。
「ふぅ。じゃあ私もう帰るよ。時間も遅いし……。田島は掃除係だから鍵、職員室に返しといて」
そう言って田島のほうを向いた心の表情は、柔らかく、何か楽しんでいるようなものだった。
「あのう、どうして俺掃除係なんでしょうか?」
田島は机の上を片付け、心から鍵を受け取りながら疑問を口にした。
いくら新入部員といっても掃除は部員のローテーションというのが筋、というより普通なのではないだろうか? せめて一年生である高橋と交互にする、とか方法はいくらでもあるような気がする。
心は、田島のそんな疑問の声が聞こえていないのか、鞄を手に持ってゆっくりと立ち上がった。返事をしないまま部室の扉まで歩を進める。そして、綺麗な顔に人当たりの良さそうな爽やかな笑みを浮かべて田島を振り返った。丁度、用紙に遮られなかった西日がライトのように顔を照らし、まるでテレビの中の女優のようにキラキラと輝いて見えた。
「溜飲が下がるからだよ」
ドアは、入って来たときのように自分の意思で移動し、心はとても自然に田島の視界から姿を消した。等間隔で遠ざかっていく足音は、ひどく耳当たりの良いものだった。
一人部室に取り残された田島は、机の上に散乱したジュースやら歌詞やらを片付けながら思った。
――フソンとか、リュウインが下がるって何だ?




