エピローグ「春を待つ調合室」
北方の山々に、ようやく遅い春が訪れていた。
分厚い氷に閉ざされていた渓谷には清冽な雪解け水が満ち、日当たりの良い斜面には、淡い黄色の福寿草と青い雪割草が一斉に咲き乱れていた。
砦を吹き抜ける風には、もはや肌を切り裂くような鋭さはなく、湿り気を帯びた若草の甘い香りが混ざり合っている。
アルスヴァン砦の南側に新設された、広大な石造りの回廊。
その一角に掲げられた真新しい木彫りの看板には、『アルスヴァン北方調合院』の文字が誇らしげに刻まれていた。
「アリア院長! 麓の薬草園から、春摘みの月見苔が届きました!」
回廊の向こうから、元気な声を上げて走ってきたのはカイルだった。
右腕に巻かれていた包帯は完全に取れ、真新しい騎士団の制服を着こなした青年は、抱えていた大きな麻袋を作業台の上に下ろした。
「ありがとうございます、カイル様。でも、院長だなんて大げさな呼び方はやめてくださいと、あれほど申し上げましたのに」
アリアは苦笑しながら、手にしたガラスの蒸留器を木製の棚へと収めた。
あの吹雪の夜から、二ヶ月が過ぎていた。
皇帝陛下への筆頭薬師辞退の申し入れは、主席監察官ハインリヒ卿の取り成しもあり、無事に受理された。
代わりに帝国政府は、アリアの功績を称えて巨額の助成金を北方に下賜し、国境地帯の医療と薬学の拠点として、この調合院の設立を認めたのだ。
今では、王都の中央研究所でギルベルトの不正に反発していた若い薬師たちや、各地から薬学を志す若者たちが、アリアの技術を学ぼうとこの地に集まり始めていた。
「何を仰るのですか! アリア様はれっきとした調合院の長であり、何より、俺たちの辺境伯夫人になられるお方なのですから!」
カイルが胸を張って言い切ると、作業台の奥で薬草をすり潰していた初老のゲルハルト医官も、眼鏡を押し上げながら深くうなずいた。
「その通りですぞ、アリア様。今や帝都でも、北方の調合院が精製する常備薬は至高の逸品として貴族たちが奪い合っておるのです。あなたが毎日、素材の波長を丁寧に整えてくださるおかげで、薬の効力は王都の霊薬の比ではありません」
「ゲルハルト様まで……」
アリアは困ったように眉尻を下げ、白銀狐の手袋を外した自らの手のひらを見つめた。
指先の荒れはすっかり治まり、柔らかな皮膚が戻っている。
かつて『触れるだけで魔力を消し去る無能の手』と呪われた手。
それが今、何百人、何千人もの人々の命を救い、新しい未来を紡ぎ出すための手として、誰からも尊ばれていた。
(夢のよう……)
胸の奥に広がる温かな充足感。
かつて地下牢で抱えていた冷たい諦めは、春の雪解け水のように、跡形もなく消え去っていた。
「アリア」
背後から、低く心地よい声が響いた。
振り返ると、調合室の入り口にレオンハルトが立っていた。
軍務の合間なのか、黒い上着の袖をまくり、手には湯気を立てる二つの陶器のカップを持っていた。
部屋にいたカイルとゲルハルトが、心得たように目配せを交わし、足音を忍ばせて部屋を出ていく。
「閣下……お仕事はよろしいのですか」
「レオンハルト、と呼べと何度も言っているだろう」
男は苦笑しながら歩み寄り、作業台の上にカップを置いた。
立ち上ったのは、カモミールと蜂蜜の甘い香りだった。
「春の遠征の打ち合わせが終わったところだ。お前の顔を見に来た」
レオンハルトはアリアの隣に腰を下ろし、ごく自然な動作で彼女の手を取った。
無骨な大きな手のひらが、アリアの指先を包み込む。
硬い剣だこの感触。
あの日、地下牢で差し伸べられたときと同じ、火のように熱く、けれど誰よりも優しい温もり。
「手の調子はどうだ。無理をしていないか」
「はい。皆さんのお手伝いのおかげで、とても順調です。温室の雪割草も、新しい芽をたくさん吹いてくれました」
アリアが微笑むと、レオンハルトの青い瞳が、愛おしそうに細められた。
男は引き寄せるようにアリアの肩を抱き、その額にそっと唇を落とした。
「お前が笑っているだけで、この砦の氷がすべて解けたような気がする」
「……大げさです」
アリアは赤くなった頬を隠すように、彼の胸元に顔を埋めた。
上着の奥から香る、研ぎ澄まされた鉄と、春の陽光の匂い。
胸元に触れる銀の感触に気づき、アリアは首から下げていた細い鎖を引き出した。
手のひらに載ったのは、あの青い氷晶石の銀の薬入れだった。
「これ……今でも、肌身離さず持っています」
「ああ、知っている」
レオンハルトは愛おしそうに、薬入れの中央の青い石を親指でなぞった。
澄み切った北方の空と同じ色。
八年前、彼を暗闇から救い出した少女の瞳の色。
「来月、帝都から大司教を招いて、正式な婚儀を執り行う。帝国全土に、お前が私の唯一無二の妻であることを宣言する」
「私のような者が、本当に……あなたの隣に立って、よろしいのでしょうか」
ふと口をついて出た小さな不安。
長年染み付いた自罰の癖は、幸せを前にすると、時折こうして微かに顔を覗かせる。
レオンハルトは、アリアの顎を指先で優しく持ち上げ、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前以外の誰が、私の隣に立てるというのだ」
力強い、迷いのない言葉。
「竜の呪いを宿し、孤独に凍えていた私を救ってくれたのはお前だ。お前が私の手を握ってくれたから、私は人間としてここに立っていられる。私の命も、この領地も、私の心のすべてがお前のものだ、アリア」
その言葉に、アリアの瞳がじわりと潤んだ。
だが、もう悲しみの涙ではない。
満ち足りた幸福が、胸の奥からあふれ出しているだけだった。
「……はい、レオンハルト様」
アリアは小さくうなずき、自らの指を、男の硬い指先へと強く絡め合わせた。
窓の外では、春の風に吹かれて、温室のガラスが光の粒子を撒き散らしていた。
中庭では兵士たちの朗らかな笑い声が響き、遠くの山並みからは、雪解けを祝う鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
二人が紡ぎ出した奇跡は、凍てつく北方の地に、二度と枯れることのない温かな春をもたらしていた。
重なり合う二つの手のひらには、永遠を誓い合う確かな熱が、いつまでも、いつまでも灯り続けていた。




