番外編「黒竜騎士の十年越しの執着」
◇レオンハルト
雪の匂いがすると、いつもあの森を思い出す。
十四歳の厳冬、私は死にかけていた。
アルスヴァン家の跡取りとして、初めて率いた魔獣討伐の小隊が壊滅したのだ。
吹雪の中で仲間とはぐれ、黒角熊の毒爪に胸を深く引き裂かれた。
血が雪を赤く染め、体温が急速に奪われていく。
血管の中を冷たい毒が駆け巡り、心臓が今にも止まりそうだった。
(ここまでか)
名門アルスヴァン家の面汚しとして、この名もなき森の片隅で野垂れ死ぬ。
そう覚悟して目を閉じたとき、雪を踏みしめる小さな足音が近づいてきた。
うっすらと開けた視界の端に映ったのは、薄汚れた粗末な麻布の服を着た、小さな少女だった。
細い首筋、寒さで赤くなった鼻の頭。
少女は倒れている私の姿を見るなり、弾かれたように息を呑んで駆け寄ってきた。
(逃げろ、魔獣が戻ってくる)
そう警告しようとしたが、喉からは血の混ざったかすれた息しか漏れなかった。
少女は私の傷口を見るなり、泣きそうな顔で周囲の雪を素手で掘り返し始めた。
かじかむ指先で、凍てついた土の中から薬草を引き抜き、近くの平らな石の上で、別の石を使って懸命にすり潰す。
泥と草の青臭い匂いが、冷たい空気に広がった。
少女は自らの服の裾を引き裂くと、すり潰した薬草を傷口へと直接塗り広げた。
その小さな手のひらが、私の胸に触れた瞬間だった。
目に見えない、微かな波紋が胸の奥へと染み透ってきた。
暴れ狂っていた毒の熱が、まるで冷たい泉の水を注がれたかのように、静かに凪いでいく。
凍りついていた四肢に、じんわりとした温もりが戻り始めた。
少女の手のひらは荒れて傷だらけだったが、その指先は驚くほど優しく、ひたむきだった。
「……だれ、だ……」
かすれた声で問いかけたが、遠くから捜索隊の呼ぶ声が響いた瞬間、少女は弾かれたように立ち上がった。
怯えたように周囲を見回し、私を一瞥すると、そのまま雪の森の奥へと駆け去っていった。
残されたのは、胸の痛みが綺麗に引いた奇跡のような傷口と、澄み切った青い瞳の残像だけだった。
あの冬から、私はその少女を探し続けた。
家督を継ぎ、黒竜騎士団の長となってからも、私の胸からあの手の温もりが消えることはなかった。
帝都のあらゆる薬師の名簿を調べ、魔導研究所の記録を洗わせた。
だが、どれほど探しても、触れただけで魔毒を完全に中和するような高位の治癒魔導士は見つからなかった。
当然だ。
当時の私はまだ、彼女の力が『魔力波長を消し去る』という、世間からは無能と切り捨てられる特異体質であることなど知る由もなかったのだから。
八年の歳月が流れた。
二十二歳になった年の暮れ、帝都の監査報告書の中に、奇妙な記述を見つけた。
中央魔導薬師研究所の下級見習い、アリア・レンフィールド。
『魔力を持たず、触れた触媒の魔力を消散させてしまう欠陥調合師』
『筆頭薬師ギルベルトの霊薬を汚染した罪により、国外追放および地下牢勾留』
その報告書を読んだ瞬間、私の全身を電撃のような衝撃が貫いた。
魔力がないのではない。
乱れた魔力を均し、不純物を無へと還す力。
あの雪の森で、私の体内の毒魔力を一瞬で凪へと導いた、あの力そのものではないか。
私は馬を飛ばし、帝都へと向かった。
あの薄暗く湿った地下牢で、膝を抱えてうずくまっていた彼女を見つけたとき、八年間凍りついていた私の心臓が、激しく跳ね上がった。
やつれ果てた顔、泥に汚れた囚人服。
だが、その双眸は、八年前のあの日と同じ、北方の氷晶石のように深く澄んだ青を湛えていた。
荒れた指先の古傷。
薬草を摘み続けてきた者の、誇り高き手のひら。
間違いない。
私がずっと探し求めていた、私の命の恩人。
私の、たった一人の光。
その場で抱きしめ、連れ去りたかった。
だが、彼女の瞳には、深い絶望と、自らを責め苛む冷たい諦観だけが宿っていた。
ここでいきなり「お前は八年前の恩人だ、妻になってくれ」などと告げれば、彼女は恐れおののき、逃げ出してしまうだろう。
何より、無能の罪人として自尊心をズタズタに引き裂かれた彼女には、形式的な保護ではなく、自らの手で尊厳を取り戻す時間が必要だった。
だから、私は契約と言う嘘をついた。
三ヶ月の偽装婚約。
身代わりの調合師。
そう言って割り切らせることで、彼女に砦での居場所を与え、安全な環境で腕を振るってもらおうとしたのだ。
三ヶ月の間に、彼女の冤罪を晴らし、ギルベルトの不正を暴く。
そして、彼女が自らの価値を知ったとき、対等な男として、胸を張って求婚するつもりだった。
だが、私の目論見は、脆くも崩れ去った。
彼女は、私が想像していたよりもずっと優しく、ずっと脆く、そして何よりも頑なだった。
過酷な砦の環境に文句一つ言わず、粗末な薬草から奇跡のような薬を次々と紡ぎ出していく。
兵士たちの命を救い、凍傷を治し、砦中の人間から敬愛されながらも、彼女は常に自らを「ただの身代わり」と卑下し続けた。
凍氷蜘蛛の毒からバルツを救うために自らの命を削ったとき、私は怒りで狂いそうになった。
私の宝物が、目の前で壊れてしまうかと思った。
あの夜、執務室で彼女の手を握りしめながら、私は初めて神に祈った。
どうか、この手を私から奪わないでくれ、と。
そして、厳冬期の竜血の発作。
骨の髄まで焼き焦がす業火の中で、私は誰も近づけるなと命じていた。
化け物のような無様な姿を、彼女に見られたくなかった。
だが、扉を開けて飛び込んできた彼女は、熱波に怯むことなく、私をその細い腕で抱きしめてくれたのだ。
肌が焼ける痛みに耐えながら、彼女は私の胸に手を当て、暴れ狂う血の狂乱を鎮めてくれた。
熱が引いていく中で、私は彼女の首筋に顔を埋め、生まれて初めて他人に弱音を漏らした。
『置いていくな』
あれは、理性で抑え込んでいた私の、剥き出しの執着そのものだった。
彼女なしでは、もう生きられない。
北方の冷徹な守護者などと言う仮面は、彼女の前では何の役にも立たなかった。
ただ、彼女の温もりに縋り付き、彼女の笑顔を独占したいと願う、哀れな一人の男がいるだけだった。
だからこそ、あの日、手紙を残して姿を消されたとき、私の世界は文字通り崩壊した。
もぬけの殻となった部屋。
几帳面に整えられた調合台の上に残されていた、感謝の手紙と契約金。
私の気持ちなど何一つ伝わっていなかった。
彼女を傷つけまいと選んだ『契約』と言う欺瞞が、彼女を追い詰める刃になっていたのだ。
吹雪の峠道を、愛馬を殺す勢いで疾走しながら、私は己の愚かさを呪い続けた。
もし彼女が凍え死んでいたら、私もまた、その場で自らの胸を貫いて死ぬつもりだった。
彼女のいない世界など、私には一片の価値もなかったからだ。
巨岩の裂け目で、彼女を抱きしめた瞬間。
その瞳からあふれ出た大粒の涙を見たとき、私はようやく理解した。
この不器用な少女に必要なのは、慎重な手続きでも、遠回しな気遣いでもなかった。
ただ、力任せに抱きしめ、お前が必要なのだと、愛しているのだと、喉が張り裂けるほど叫び続けることだけだったのだ。
夜明けの光の中で、私の胸に顔を埋めて眠る彼女の重みを感じながら、私は静かに誓った。
この手は、二度と離さない。
帝都の皇帝が何を言おうと、世界のすべてが彼女を奪おうと、私は黒竜の牙を剥き出しにして戦い続けるだろう。
私の命を二度も救ってくれた、この小さな調合師を。
生涯をかけて、愛し、慈しみ、守り抜くために。




