第13話「吹雪の峠と追走の蹄音」
吹き荒れる地吹雪が、視界を白一色の闇へと塗り込めていた。
アルスヴァン砦を抜け出し、北の国境へと続く険しい峠道を、アリアはただ一人で歩き続けていた。
膝下まで積もった新雪が、一歩踏み出すごとに重い抵抗となって足首に絡みつく。
風が吹き抜けるたび、細かな氷の粒が外套の隙間から入り込み、肌を容赦なく刺した。
吐き出す息は瞬時に白く凍りつき、まつ毛の先に冷たい霜を結んでいる。
胸元に手を当てると、服の上から硬く冷たい銀の感触が伝わってきた。
レオンハルトから贈られた、青い氷晶石の薬入れ。
中には、温室の雪割草から精製した解毒薬が、今も大切に納められている。
これだけは、どうしても置いていくことができなかった。
(寒くなんて、ない)
アリアは自分に言い聞かせように、奥歯を噛み締めた。
手袋の内側で、指先がかじかんで感覚を失いかけていた。
白銀狐の毛皮をもってしても、深夜の峠の猛吹雪を防ぎきることはできない。
それでも、足だけは止めなかった。
頭の奥で、砦で過ごした日々の記憶が走馬灯のように浮かんでは消える。
地下牢で差し伸べられた、硬く温かい手のひら。
暖炉の燃える部屋で飲んだ、滋味あふれる一杯のスープ。
不器用に手荒れ止めをくれた、あの男のぶっきらぼうな声音。
怪我から復帰したカイルの屈託のない笑顔、バルツ副長の豪快な笑い声。
そして、業火のような竜血の発作に苦しみながら、アリアの服の裾を握りしめて「置いていくな」と弱音をこぼした、夜の静寂。
(私は、十分にいただいた)
アリアは小さく息を吐いた。
誰からも見向きもされず、ただゴミのように搾取され、捨てられるはずだった命だ。
それがこの三ヶ月間、誰かの役に立ち、感謝され、大切に扱われた。
生まれて初めて、一人の人間として息をすることができた。
それ以上の贅沢を望むのは、わがままというものだ。
皇帝からの勅命。
帝国筆頭宮廷薬師の地位。
そんな眩しい光の中に身を置けば、いつかまた、誰かの嫉妬や権力争いに巻き込まれる。
だから、幸せな思い出が壊れてしまう前に、自分から離れなければならない。
(契約は、終わったのだから)
期日は満ちた。
お互いに義務を果たし、傷一つ残さずに終わる。
それが、ただの雇い主にすぎない彼への、最も誠実な恩返しなのだと、自分に言い聞かせる。
不意に、風の咆哮に混ざって、微かな地鳴りが響いた。
雪を踏み荒らす、激しい蹄の音。
雷鳴を思わせる重厚な足音が、峠の下の方から急速に迫ってくる。
魔獣の足音ではない。
訓練された軍馬が、狂気じみた速度で雪原を疾走してくる音だった。
アリアは足を止め、恐る恐る振り返った。
白い霧の向こうから、巨大な黒い影が飛び出してきた。
雪煙を高く巻き上げ、口から白い呼気を激しく噴き出す一頭の黒馬。
そして、その背に跨る男の姿を認めた瞬間、アリアの呼吸が止まった。
レオンハルトだった。
男は甲冑すら身につけていなかった。
薄い黒の上着に、毛皮の外套を羽織っただけの姿。
黒髪は風雪に乱れ、肩や胸元にはびっしりと雪がへばりついている。
手綱を握る手には手袋すらなく、寒さで赤黒く染まっていた。
「アリア――!」
裂帛の気合いを込めた叫びが、猛吹雪を切り裂いた。
黒馬がアリアのわずか数歩手前で前脚を高く跳ね上げ、雪を蹴立てて急停止した。
手綱が擦れる鋭い音とともに、レオンハルトは馬の背から転がり落ちるようにして、深い雪の上へと飛び降りる。
長い足が雪を蹴り分け、真っ直ぐにアリアへと迫る。
その青い瞳は、極北の氷河よりも冷たく、そして狂おしいほどの焦燥に燃え盛っていた。
いつも沈着で、何事にも動じなかった男の顔が、見たこともないほど歪んでいた。
「……閣下?」
アリアは後退りしようとした。
しかし、足が雪に取られて動かない。
次の瞬間、冷え切ったレオンハルトの大きな両の手が、アリアの両肩を万力のような力で掴み取った。
「なぜだ」
低く、絞り出すような声だった。
肩を激しく上下させ、白い息を吐き出しながら、男はアリアの瞳を食い入るように見つめた。
「なぜ逃げた! なぜ手紙一枚で、黙って姿を消した! 答えろ、アリア!」
掴まれた肩から、男の激しい動揺が伝わってくる。
指先が微かに震えていた。
凍えるような寒さの雪山を、命の危険も顧みず、ただ一人で馬を飛ばしてきたのだと言うことが痛いほど伝わってきた。
アリアは喉の奥に広がる痛みを必死に押し殺し、顔を上げた。
泣いてはいけない。
決して、未練を見せてはいけない。
そう自分を縛り付け、穏やかな笑みを作って見せた。
「逃げたのではありません、閣下」
澄ました声を作ろうとしても、唇が寒さでわずかに震えた。
「今日で、三ヶ月の契約は満了いたしました。私は役目を果たし、閣下もまた、約束通り私の身の安全と名誉を取り戻してくださいました。約束通り、私は立ち去るだけです」
「契約だと……?」
レオンハルトの眉が激しく跳ね上がった。
「そんな紙切れ一枚の約束のために、この猛吹雪の中へ一人で飛び出したというのか! 帝都からの勅命を放り出し、私に何も告げずに!」
「閣下には、もう私は必要ありません。皇帝陛下をお救いし、筆頭薬師の地位を得た今、身代わりの婚約者としての私の役目は終わりました。これ以上、閣下のお側にいる理由はありません」
アリアは真っ直ぐに男を見つめ返した。
嘘を並べ立てるたびに、胸の奥が鋭い刃で削り取られていくようだった。
冷徹な、理路整然とした別れの言葉。
だが、その微笑みの奥に隠された頑なな自己否定を、男は見逃さなかった。
レオンハルトの表情から、一瞬、激しい怒りが消え去った。
代わりに浮かび上がったのは、胸を引き裂かれるような、深い、深い苦痛の色だった。
「……お前は、どこまで自分を傷つければ気が済むのだ」
掠れた声が、風の音に溶けていく。
「誰が迷惑だと言った。誰が、お前を身代わりなどと呼んだのだ……!」
男の腕に、さらに強い力が込められた。
彼から立ち上る猛烈な熱気とともに、凍りついた雪の匂いと、限界まで馬を駆った汗、そして獣のように剥き出しになった雄の苛烈な気配が、アリアの全身を容赦なく絡め取った。




