第12話「満ちた契約と雪の足跡」
帝都へ解毒薬が送り届けられてから、三日の月日が流れた。
アルスヴァン砦に届いた急使の知らせは、帝国全土を揺るがす奇跡の報せだった。
帝都の使者がアリアの前にひざまずき、「あのドブ泥のように濁っていた帝都の霊薬が、アリア様の雪解け水の一滴で、眩い黄金の光を取り戻したのです! 陛下は貴女の薬を飲み干した直後、自ら立ち上がられました!」と、泣き叫びながら報告した。
その日の昼下がり、砦の大広間には、皇帝直属の勅使として再び訪れたハインリヒ卿の姿があった。
金糸で縁取られた豪華な親書を広げ、ハインリヒ卿が高らかに読み上げる。
「勅命である。アリア・レンフィールドの冤罪を完全に雪ぎ、その並外れた調合技術と帝室救済の功績を称え、帝国最高位たる『筆頭宮廷薬師』の地位を授ける。また、中央魔導薬師研究所の全権を与え、直ちに帝都へと帰還し、帝国薬学の刷新を指揮することを命ず」
広間に集まった砦の兵士たちから、地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。
「やったぞ、アリア様!」
「帝国の頂点だ! 俺たちの調合師様が、国で一番の薬師になられたんだ!」
カイルが飛び跳ねて喜び、バルツ副長が豪快に笑いながら仲間の肩を叩いている。
ゲルハルト医官も、目頭を熱くしてアリアに向かって深々と一礼していた。
かつて無能と蔑まれ、地下牢に放り込まれた少女が、名誉の最高峰へと上り詰めた瞬間だった。
しかし、親書を受け取ったアリアの指先は、冷たく強張っていた。
上座に座るレオンハルトを見つめる。
男はいつものように沈着な表情を崩さず、威厳を保ったまま座っていた。
だが、その青い双眸は、広間の歓声から切り離されたように静まり返り、アリアと一度も視線を合わせようとしなかった。
(今日で、三ヶ月……)
アリアは胸の奥で、小さくつぶやいた。
暦の上で、あの日地下牢で交わした契約の期日が、ちょうど今日満了を迎えていた。
『三ヶ月の間、私の屋敷で専属の調合師として働き、対外的には私の婚約者として振る舞ってもらう』
その契約は、完璧に果たされた。
アリアは砦の兵たちの命を救い、王都の陰謀を粉砕し、皇帝陛下を救済した。
そしてレオンハルトもまた、約束通りアリアを守り抜き、名誉と安全を取り戻してくれた。
(閣下は、もう私を必要としていない)
胸を刺す激痛に、息が詰まりそうになる。
勅命が下った今、アリアは皇帝直属の筆頭薬師だ。
身代わりの婚約者としての役目は終わった。
これ以上一緒にいて、もし彼に『もう用済みだ』と捨てられたら、私は確実に死んでしまう。
だから、最も美しく完璧な形で愛されている今、自分から終わらせなければならない。
「アリア」
ハインリヒ卿たちが引き揚げた後、静まり返った広間で、レオンハルトが低く呼んだ。
「……はい、閣下」
「皇帝陛下からの親書だ。帝都へ戻れば、誰もがお前に頭を垂れる。贅沢な暮らしも、広大な研究所も、すべてお前の思いのままだ」
レオンハルトの声には、何の抑揚もなかった。
まるで、他人の事務処理を淡々と告げるかのような冷たさ。
「お前が望むなら、明日にも帝都への護衛部隊を編成する」
その言葉が、アリアの最後の淡い期待を、容赦なく断ち切った。
引き止められることはなかった。
残ってほしいとは、言ってくれなかった。
彼にとって、自分はやはり、契約によって一時的に雇い入れた調合師にすぎなかったのだ。
「……ありがとうございます、閣下」
アリアは深く、深く頭を下げた。
顔を上げれば、涙がこぼれてしまいそうだったから。
「すべては、閣下が私を地下牢から救い出してくださったおかげです。感謝の言葉もございません」
「そうか」
レオンハルトはそれだけ言うと、背を向けて大広間を出て行った。
重い金属の足音が、遠ざかっていく。
一人残された広間で、アリアは胸元の青い氷晶石の薬入れを、服の上から強く握りしめた。
◆ ◆ ◆
夜、砦は静まり返っていた。
日中の晴天が嘘のように、外では再び細かいみぞれ混じりの風が吹き荒れ始めていた。
アリアは自室で、身支度を整えていた。
用意された上等なドレスや、皇帝から下賜された財宝には一切手をつけなかった。
身につけたのは、最初に着せてもらったあの簡素な紺色のウールのスカートと、生成りのシャツ。
そして、レオンハルトから贈られた白銀狐の手袋と、青い薬入れだけだった。
机の上には、一通の手紙と、レオンハルトから前払いされていた契約金の革袋が手つかずのまま置かれていた。
手紙には、砦の人々への感謝と、温室の薬草の管理手順が几帳面な文字で記されていた。
そして末尾に、たった一行だけ。
『短い間でしたが、生まれて初めて、温かい居場所をいただきました。ありがとうございました』
帝都へ戻る気はなかった。
筆頭宮廷薬師の地位など、最初から欲しくはなかった。
あの権謀術数渦巻く王都に戻れば、また誰かの争いに巻き込まれ、心をすり減らすだけだ。
誰にも知られない、遠い街へ行こう。
そこで小さな薬草店を開き、誰かの擦り傷を治しながら、静かに生きていこう。
(泣かない)
アリアは唇をぎゅっと噛み締めた。
あの日からずっと、泣かないと決めていた。
幸せな夢を見させてもらったのだ。
それだけで、これからの孤独な人生を生きていくには十分すぎるほどの宝物だった。
アリアは厚手の外套のフードを深く被り、音もなく部屋を出た。
深夜の廊下に、人影はない。
裏手の通用門の閂を静かに外し、外へと踏み出す。
冷たい風が頬を打ち、みぞれがまつ毛を濡らした。
振り返ると、夜の闇の中にアルスヴァン砦の黒い巨躯がそびえ立っていた。
最上階の執務室の窓には、まだ暖炉の微かな明かりが灯っている。
あの部屋で、男は今も一人、書類と向き合っているのだろうか。
「……さようなら、私の黒竜様」
アリアは小さく呟き、雪の上に最初の足跡を刻んだ。
一度も振り返ることなく、白く煙る夜の闇の中へと、その姿を消していった。
だが、アリアは知らなかった。
彼女が部屋を出てからわずか半刻後、異変に気づいたカイルの叫び声が砦を揺るがすことを。
そして、手紙を読んだレオンハルトの顔から完全に血の気が引き、鎧も着けぬまま愛馬へと飛び乗ることを。




