柔道の精
「ただの柔道家」と呼ばれる者の話をしようか。
――柔道で最強になる人には妖精が見えます。それは微かで移ろいたゆたう幻ですし、ほとんどの人には見えませんが、確かにそこにいるのです。
真由は礼をして一歩前に出る。
「よ~し。次、背負い打ち込み!」
ベリーショートの首筋に汗がたまり、やがて一筋の線になって流れていく。柔道着の下のシャツは張り付き、褐色の肌が透けて見える。
「五十九、六十ッ!」
素早く相手の懐に入り、腰を跳ね上げて畳に大男をたたき付けた。
部活が終わり、他の男子メンバーが詰め襟に着替えたあと、真由は静かに更衣室に入った。
しばらくして出てきた姿はジャージだった。
大きな鞄とセーラーの入ったスポーツバッグを抱え、中学校を出て二駅離れた家まで走って帰る。
「…………」
呼吸音だけが夜闇に消えていく。単調なステップが、記憶の底に眠る憧れの人を呼び起こす……。
それは真由がまだ幼稚園の頃。母親についていった銀行で強盗事件に巻き込まれた。
真由は待合席に座り、チュッパチャップスを舐めていた。金髪の警備員となんとなく目が合い、にっこりと笑いかけられ真由は俯く。
そこへマトリックスのような黒のロングコートを着た人間が入ってきて受付嬢に包丁を突き付けたのだ。
「お金を出して下さい」
袖から出た枯木のような腕はぷるぷる震えていた。声が小さく、ごった返した人込みのせいで誰も気付かない。
「そちらの席で少々お待ち下さい」
落ち着いた受付嬢にそう言われ、強盗は素直に席――真由の隣に座った。
真由はじっと顔を覗きこんだが、強盗は隠すばかり。
さっきの警備員が背後から突然飛び掛かった。しかし、次の瞬間彼は投げ飛ばされていた。
「やる気かね」
強盗は邪魔だとばかりにコートを脱いだ。その下にいたのは、おじいさんだった。やせ細っているが、何度も何度も警備員はポンポン投げ飛ばされる。
真由はそれに見とれて、投げ飛ばすたびに拍手していた。
しかし結局、警察官がやってきて銃を出されあっさり御用となった。
手錠をかけられた強盗は、連れられながら真由に囁いた。
「ここにいる人間の中で、誰が真に強いと思うかね」
真由は指差す。
「わしじゃない。それはお嬢ちゃんだ。あんた以外みんな逃げてたんだ。あんたは混じり気のない憧れがある。強さへの。あんたは誰よりも強くなるよ」
家に帰った真由は、母親が用意したトンカツと飯とキャベツと味噌汁と生玉子を混ぜてガツガツ食う。
兄がため息を吐いた。
「お前な、いい加減にしろよ。そんな食い方する奴見たことないぞ。汗臭えし」
三杯おかわりして兄貴とカツを取り合った。真由は笑っていた。
シャワーを浴び、部屋に帰ってベッドに倒れこんだ。
「選ばれし者よ……」
真由のそばに三十センチほどの女の子が現れた。ドレスを着て羽が生えている。
妖精だ。
だが真由は答えない。妖精は仕切り直した。
「コホン、選ばれし者よ……」
――ぐごごごごおおおぉぉ。
「イビキをかくなっ!」
妖精が両手で左の頬をつねると、真由はやっと起きた。
「何。え、何……?」
妖精は恭しくお辞儀をする。
「私はヤワラ、最強の柔道家になる者の前にだけ現れる柔道の精」
「それで?」
寝はじめを起こされた真由は不機嫌そうだ。
「私がいれば、世界一は約束されたも同然。今まで緩くやってたかもしれないけど、ビシビシいくわよ」
――グシャッ!
真由は妖精を握り潰した。しかし手を開くとそこには何もない。
「怖っ。いきなり何よ」妖精はいつの間にか頭の後ろにいた。「妖精の力をあげようっていうのに」
真由は頭をボリボリ掻く。
「いらない。私、一人でやる。誰かの力を借りると、自分でやり遂げたっていう自信がなくなるから」
妖精は不思議そうに、彼女の瞳を見つめた。それから呆れたように言った。
「こういうタイプは初めてね。でも、まだ甘いんじゃないの。いつかこう思う時が来るわよ。『あの時、妖精の力を借りてれば負けなかったのに』って」
「そう思う奴は、世界一になんてなれないよ」
妖精は目を見開いた。胸に手を当て、鼓動が高くなるのを感じた。
「勝つためにはなんだってやる。ルールの範囲内で。妖精の力はルールの範囲外だしね」
妖精は笑いだしたくなる自分に気づいた。
「ねえ、じゃあ力は貸さないけど見てるだけならいい? 私、あなたがどこまで行くか見ていたくなったの」
「じゃあ、友達になろう」
それはいいの、と妖精は上目使いに尋ねる。
「友達はルールと関係ないじゃん」
真由は呟き、また寝はじめた。妖精はその枕元で横になってすやすや眠った。




