雑踏にいたもの
「地下街の埒外」と呼ばれる者の話をしようか。
イヌは人間には聞こえない音まで拾う。ぼくはそれを初めて知った。黒っぽい表紙の図鑑に書いてあったのだ。
動物には可聴域というのがあって、それが広いか狭いかによってどんな音を聞き取れるかが決まっている。聞くことができるかどうかは別にして、実はヒトは日常生活で様々な音を浴びているのだ。
「もしもそこに……」
それを読んだとき、ぼくの足は家を出て地下街へと急いでいた。急にあの時のことがわかったような気がしたのだ。
小学生の時、その地下街には近寄るなと言われていた。大雨で滝のような水が流れ込み、溺死した人がいたのだ。
それでもぼくは学校帰りによく行った。大好きな少年がそこに住んでいたから。余計な筋肉も脂肪もない細身。セーラー服に、常にいかついヘッドフォンを着けた出で立ち。今ならそれなりに人気が出たに違いない。
彼の占いは評判だった。ぼくらは主に筆談で会話した。下手な字で他愛もない質問を渡すと、彼は真剣な眼差しでヘッドフォンを外す。その時、ぼくは余計な物音を立ててはいけなかった。
彼は地下街の雑踏に耳を傾ける。目を閉じ、座禅を組むように。スカートの端から覗く膝は白く、ぼくは骨のようだと思う。
同じように座禅をやってみたけれど、ぼくは結局一度も成功しなかった。五分ほどして、彼は穏やかな顔で答えを書く。
「生まれるのは二匹。オスとメスだ」
隣の奥さんが妊娠した。男か女か。そういう質問だった。もちろん当たった。
ある時、ぼくは「どうしていつもヘッドフォンをつけてるの」と聞いた。ヘッドフォンには何も曲は流れていなかったのだ。
彼は長々と書き、紙を捨て、再び考えて書いた。
「君の部屋にある、大きな音を出すものから順に消してごらん。テレビを消すと、時計の音が浮かび上がる。それを止めると冷蔵庫の音が浮かぶ。そうやって繰り返していくと、小さな小さな音になる。続けていくとね、やがてそれが果たして本当に聞こえているのか、自分の幻聴なのか区別がつかなくなるんだ。それでも繰り返すと……こうなってしまうんだ。話し相手の上唇と下唇が擦れる微かな音。ごみ箱で紙屑がきしむ音。蝿が餌を舐める音。細胞の入れ代わる音。菌が増える音。そんなのが聞ける。でも四六時中聞こえてると、うるさいだろう? だからヘッドフォンをしてるんだ」
当時のぼくにはよくわからなかったけれど、彼の聞いている世界は全然違うんだってことはわかった。
それからしばらくして彼の元へ行くと、占いをやめていた。階段裏の小さな扉は、無数の貼紙で隙間なくびっしりと埋めつくされていた。貼紙は様々な言葉で書かれていたが、その中の一枚だけぼくには読めた。
「静かにしてくれ」
彼はたった一人で倉庫奥へ閉じこもり、毛布にまみれて震えていた。頭が肥大化したような奇妙なシルエット。周囲には耳栓の空き箱が散乱している。
ぼくが近づいても気づかなかった。肩を叩くと、びくりとして振り返った。目の下に酷いクマができていた。痩せこけた頬に、赤茶けた肌。目の焦点がなかなか合わない。執拗にガムテープで頭をグルグル巻いてヘッドフォンを固定し、その上にタオルを巻いている。
もはや別人だった。
「どうしたの。占いしないの?」
紙に書いて渡した。彼は震える指先で受け取り、長い時間をかけて返事を書いた。ミミズがのたうちまわったような字だった。
「何かと何かの交差したものから得る。僕の占いはそういうやり方だったんだ。雑踏からたくさんの音を聞き取ったら、そこから偶然組み合わされた答えが聞こえる。一度そう聞こえると、もうそうとしか聞こえない。君にもあるだろう、そういう空耳が。僕は聞いてしまったんだよ。雑踏から浮かび上がる奴の声を。それからはどこにいても、何を聞いてもそいつの唸り声にしか聞こえないんだ」
彼はそう書いた。ぼくには何のことかさっぱりわからなかった。この世とあの世の交差した場所に生きていた彼。神秘的な彼。
彼は何を聞いたのだろう。不思議に思ったはずなのに、今の今まで忘れていた。
彼はどうなったのだろう。ぼくは地下街へ続く階段を下りていく。石畳に足音がコツコツと響く。連休前の夕方、行き交う人々は楽しそうに笑う。
倉庫の扉を開ける。彼はまだそこにいた。雑多な掃除用具やゴミに埋もれたセーラー服男。彼の頭にヘッドフォンが無いのは、大事な部品の欠けた人形のように思えた。
声をかけるが返事はない。
「お前、そいつを知ってるのか」
振り向くと、悪臭を放つ小男がいた。ボロ切れを身にまとい、歯は黄色く染まっている。
「そいつ、頭がおかしくなってんだぜ」
彼は自分で耳に割り箸を突っ込んで掻き混ぜたとの話だった。鼓膜を破ってしまったのだと。直後の表情は今まで見たことのないほど安らかだった。しかし、彼の表情はまた歪んだ。
「どうしてまだ聞こえる……どこからの音なんだ」
その言葉を最後に、彼は心を病んでしまったのだという。今、目の前にいる彼はよだれを垂らし、幸せそうな表情でいる。
話を教えてくれた男が彼を蹴飛ばした。ぼくは睨みつけたが、そいつは笑いながら去っていった。
コツコツ。
彼が壁を叩き、陶酔した様子で「いあ……いあ……」と呟いた。どこか名状しがたい儀式めいた様子で「何か」を呼んでいる。ぼくはその名前を聞いてしまう。
扉の外から、音たちがじわじわ染み込んでくる。背中越しに、まるで無数の触手が絡み付くように。
聞こえる。
遠い喧嘩の怒声。
革靴の足音。
膨らんだガムが破裂する。
誰かのくしゃみ。
ジーンズにシャツが擦れる。
蜜柑の皮に指を挿し込む。
死んだ蚊が石畳に落ちた。
どんどん近づいてくる。
腕時計の針がうるさい。
血管が収縮する音。
ぼくの脳から音がする。
シナプス信号の音がする。
「何か」の唸り声。
ぼくは耳栓を持ってこなかったことを後悔していた。




