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第14話 寝落ちで夢見

 謁見の間での血みどろの大惨事未遂を、渾身の平伏でどうにか「保留」に持ち込んだ私は、肺の底に溜まっていた重苦しい空気を一気に吐き出した。


 やるべきことが決まれば、次に必要なのは入念な準備である。

 一刻も早く帰って愛しのベッドに飛び込まなくては――。

 いそいそと迎えの馬車へ歩き出した私の背後から、氷のように冷たく、そして明確な怒りを孕んだ声が追いかけてきた。



「……貴様ら、そのまま帰れると思うなよ」



 振り返ると、僅かに金髪を乱したアルベルト殿下が、青筋を立てて立っている。彼の背後には近衛騎士の姿はなく、どうやら単身で追いかけてきたようだ。

 かくして私たちは解放されるどころか、第一王子であるアルベルト殿下の執務室へと強制連行されることになったのである。




 王宮の奥に位置するその部屋は、国の未来を担う次期国王の執務室に相応しく、重厚な机や壁一面の書棚が目を奪う、威厳に満ちた空間だった。

 しかし、今の私にとって最も価値があったのは、部屋に置かれた最高級の長椅子である。



「お前たち、そこに座れ。……全く、王の御前で剣を抜くなど、どれほど肝が冷えたと思っている」



 アルベルト殿下が、酷く疲労の滲む声でそう告げる。

 私は「失礼いたします」と形式的な礼を述べるや否や、その長椅子に深く身体を沈め込んだ。


 ふわり、と極上のクッションが、連日の過労と先程の極度の緊張で悲鳴を上げていた私の腰と背中を、まるで雲のように優しく包み込む。

 あぁ、なんて素晴らしい座り心地だろう。教会の安っぽい木椅子とは大違いだ。王族というのは、毎日こんな素晴らしい椅子で仕事をしているのか。

 私の意識は、長椅子に座って僅か三秒で、急激に暗く甘い泥の中へと引きずり込まれ始めていた。



「……おい、レティシアーナ。まさかとは思うが、寝ていないだろうな」



 アルベルト殿下の鋭い声が、遠くの水面から聞こえてくるように響く。



「……起きて、おりますわ。殿下のありがたいお言葉を、目を閉じて心に深く刻んでいる最中で……」



 私は首をかくんと揺らしながら、辛うじて掠れた声を絞り出した。

 長年、過労死寸前のスケジュールをこなしてきた私は、座ったまま、あるいは立ったままでも仮眠を取るという、聖女らしからぬ特技を身につけていたのである。



「嘘をつけ。完全に首の力が抜けているではないか」



 殿下が呆れたような、しかしどこか苛立ちを含んだ足音を立てて近づいてくる気配がした。

 しかし、彼が私に触れるより早く、冷たい鋼の鳴る音が執務室に響く。



「そこまでです、アルベルト殿下」



 私の斜め前に立ち塞がったのは、当然のごとくルークだった。彼は騎士剣の柄に手を掛け、サファイアの瞳を氷のように冷たく細めて殿下を睨み据えている。



「レティシア様は、連日の激務と心労により限界を迎えられております。これ以上、彼女の安らかなる眠りを妨げるというのであれば、たとえ次期国王たるあなた様であろうと、俺はこの剣を抜くことを躊躇いません」



 私は重い瞼の裏で、「ああ、またルークが物騒なことを言っている……」と現実逃避を加速させた。

 お願いだから、王宮の中で王族を脅迫するのはやめてほしい。私の睡眠時間が物理的な死という永遠のものになってしまう。



「貴様……本気で言っているのか? ここがどこだと……っ」


「わぁ、この焼き菓子、すっごく美味しいですね! 中に苺のジャムが入ってる!」



 アルベルト殿下の怒りの声を真っ二つに遮ったのは、恐ろしいほどに場違いな、明るく無邪気な声だった。

 薄目を開けると、私の隣に座る星羅様が、来客用に用意されていた三段重ねの豪奢な茶菓子のスタンドから一番高価そうな焼き菓子を鷲掴みにし、幸せそうに頬張っているのが見える。



「おい、小娘……! それは他国からの献上品で、王族しか口にできない……」


「へえ、そうなんですね! レティシア様も一つどうですか? 甘いもの食べたら疲れも取れますよ!」



 星羅様は殿下の抗議など完全に無視し、口の周りに粉をつけたまま、私の口元へ焼き菓子を押し当ててくる。



「んむっ……星羅様、私は今、睡眠の神と交信中ですので……」



 私は口に押し込まれた甘い菓子を咀嚼しながら、再び首をかくんと落とした。



「あ、寝ちゃった。レティシア様の寝顔、すっごく可愛いです! ルークさん、見てくださいよ!」


「ええ。まさに天使の寝顔。この穏やかな御尊顔を守るためならば、俺は世界を敵に回す覚悟があります」



 フリーダムに菓子を貪る異郷の娘。

 主の寝顔を眺めながら、物騒すぎる忠誠を誓う狂犬騎士。

 そして、その二人の間で白目を剥きながら首を揺らして眠る限界聖女。


 執務室という閉鎖空間に放り込まれた、この規格外の三人の異常性を前に第一王子であるアルベルト殿下は、両手で顔を覆って天を仰いだ。



「……頭が痛い。頼むから、お前たち、少しは王族を敬ってくれ……」



 彼の絞り出すような声には、先程までの謁見の間で見せたような威厳や冷酷さは微塵もない。

 ただ、理不尽な災害に巻き込まれた可哀想な青年としての、純粋な疲労と胃痛が滲み出ているだけだった。



「殿下、顔色が悪いですよ……。もしかして胃が痛いんですか? 私、治癒魔法かけましょうか?」



 星羅様が親切心百パーセントの無邪気な顔で、黄金色の魔力を指先に灯して近づいていく。



「やめろ! お前のその底知れぬ魔力を向けられると、逆に寿命が縮む気がする!」



 殿下は後ずさりしながら、机の引き出しを乱暴に開け、胃薬らしき小瓶を取り出して水もなしに飲み込んだ。



「はぁ……。お前たちを野放しにしておけば、早晩この国は内乱ではなく、お前たちの手によって物理的に滅びるだろう。……俺が、俺が監視するしかないというのか」



 アルベルト殿下は金髪を乱暴に掻き乱しながら、絶望的な未来を受け入れるような重い溜息を吐き出した。

 私は意識の底へと沈みゆく中、微かにその言葉を耳にする。

 なんだか、殿下が不憫な勘違いの使命感に燃え始めている気がするのだが……。


 けれど、今の私にとって最も重要なのは、国の未来でも王族の胃痛でもない。この最高級の長椅子がもたらす、数分間の極上の睡眠時間だけである。

 私はルークの殺気と星羅様の咀嚼音を子守唄に、アルベルト殿下の絶望の溜息を遠くに聞きながら、心地よい微睡みの中へと完全に落ちていったのだった。


 ◇◇◇


 ぽつり、ぽつりと、冷たい水滴が硬い石畳を打つ音が響いている。

 どこまでも深く、酷く静かな暗闇の中を、私は目的もなく歩いていた。足裏から伝わってくるのは、ひんやりとした古い石の感触。

 空気は微かに湿り気を帯びており、カビと長い年月蓄積された埃の匂いが、肺の奥にまで入り込んでくる。

 不思議と恐怖はなかった。

 むしろ、その絶対的な静寂と暗闇が、連日の過労で擦り切れた私の精神を、柔らかい綿のように優しく包み込んでくれているような気がしたのだ。


 ふと、前方にぼんやりとした光が見える。

 光に誘われるように歩みを進めると、やがて古びた木製の扉に行き着いた。取っ手に手をかけ、ゆっくりと押し開けると、ギィィィ……という、油の切れた蝶番の悲鳴が暗闇に吸い込まれていく。


 扉の向こうに広がっていたのは、忘れ去られた過去の遺物たちだった。


 広さは、教会にある私の部屋と同じくらいだろうか。石造りの壁の三面を、床から天井まで届く巨大な本棚が覆い尽くしている。

 そこには、背表紙の擦り切れた旧時代の分厚い書物や、丸められた羊皮紙の束が、所狭しと乱雑に詰め込まれていた。

 部屋の中央には、簡素だが頑丈そうな木の机と椅子。その上には、埃を被った怪しげなフラスコや、用途不明の古びた魔術具が散乱している。


 窓は一つもない。外界の光も、音も、風すらも完全に遮断された、完璧な閉鎖空間。

 部屋の最奥には、どす黒い霧のようなものがとぐろを巻き、ブクブクと嫌な音を立てて蠢いている。

 けれど、私の視線はその不気味な靄を完全に通り越し、部屋の『間取り』と『静けさ』に釘付けになっていた。



(……なんて素晴らしい空間なのかしら)



 この部屋のガラクタをすべて片付け、壁際の埃を掃き清めれば、あの部屋の中央に、最高級ベッドを置くのに十分なスペースができる。

 本棚には、私がまだ読んでいない数多の娯楽小説を並べよう。外界の音が一切届かないこの分厚い石の壁は、私の安眠を守る最強の防音壁となるはずだ。


 誰のノックの音も聞こえない。誰の足音も響かない。

 ここは私のための、完璧な楽園。

 歓喜に震えながら、その部屋の真ん中で両手を広げようとして――。




 ぱちり、と。

 私の目は、現実の世界へと強制的に引き戻された。


 見慣れた自室の天井。静かに時を刻む時計は真夜中を指している。

 執務室で熟睡してしまった私を、ルークが抱き抱えてここまで運んでくれたらしい。

 ベッドの上で目を覚ました私の頭は、数時間ぶりの質の高い睡眠のおかげで、恐ろしいほどに冴え渡っていた。


 窓の外を見れば、王都を覆うあの不気味な靄――瘴気が、夜の闇に紛れてさらにその濃度を増しているように見えた。

 謁見の間での騒動を思い出す。王家の権威、貴族たちのドロドロとした欲望、そして星羅様やルークの私に対する重すぎる執着。

 それらが複雑に絡み合い、この国を覆う負の感情を際限なく膨張させている。

 ふと、先程まで見ていた夢の光景が、鮮明な色彩と温度を持って脳裏に蘇った。


 ――外界の音が一切届かない、地下深くに広がる忘れられた部屋。



「……あれは、ただの夢じゃないわ」



 私は小さく呟いた。

 あの部屋の空気の冷たさ、石畳の感触、カビの匂い。そして何より、部屋の最奥で蠢いていたあの不気味などす黒い靄。今まで見た中でも一番濃い瘴気の塊だった。

 あれこそが、王都を覆う瘴気の根源ではないだろうか。いや、そうに違いない。聖女の勘が告げている。


 ――悪意の吹き溜まりは、王宮の地下深くにあるのだと。



「……さっさと片付けに行きましょうか」



 善は急げである。

 私は自室のベッドから抜け出し、汚れ作業用の服に身を包んだ。

 手には、教会で最も洗浄力が高いとされる錬金洗剤が入ったバケツと、真新しい雑巾の束。腰には、万が一の汚れに備えた予備の布巾を括り付けている。

 鏡に映る自分の姿は、国を救う聖女というよりは、夜逃げを図る下働きのメイドにしか見えない。

 だが、今は身なりなどどうでもよかった。私の瞳はアメジストの輝きを湛えて暗闇の中でギラギラとした執念の光を宿している。


 目指すは、王宮の地下深くに眠る忘れられた古い部屋。

 そこは、王都を覆う瘴気の発生源であると同時に、私にとっては誰にも邪魔されない最高の引きこもり予定地なのだ。


 そっと窓を開け、外の様子を窺う。

 夜警の騎士たちの巡回ルートは、長年の付き合いで完全に頭に入っている。それに、私の護衛であるルークの目は、私の自室の扉に向けられているはずだ。

 まさか私が、窓から屋根伝いに王宮の敷地内へ侵入するなどと、あの過保護な狂犬騎士は夢にも思っていないだろう。



「ごめんなさいね、ルーク。私の安眠のために、今夜だけはその視界から消えさせてもらうわ」



 私は誰に聞こえるでもなく呟き、音を立てず窓枠に足をかけた。

 聖女の魔力で身体能力を微かに強化し、夜の闇に紛れて王宮の裏手へと跳躍する。

 冷たい夜風が頬を撫で、私の淡い空色がかった白髪を揺らした。




 王宮の内部は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 私は入り組んだ廊下を迷いなく進んでいく。

 目指すのは、王族の居住区でもなく政務を執り行う広間でもない。もっと古く、忘れ去られた旧王城の基礎部分へと繋がる、西塔の地下だ。


 重厚な鉄格子の扉を見つけ、私は迷わずそれを開けた。

 ギィィ……と、油の切れた蝶番が不気味な音を立てて動く。

 扉の向こうに口を開けていたのは、完全な暗闇へと続く螺旋状の石段だった。

 一歩足を踏み出した瞬間、ひんやりとした冷気が足元から這い上がってきた。



「……やっぱり、ここね」



 私は小さく呟き、魔力で小さな光の球を作り出して足元を照らした。

 壁には古びた松明の跡が残り、空気は一気にカビと古い石の匂いを帯びてくる。

 私はバケツと雑巾を抱え直し、一段、また一段と、螺旋階段を下りていった。


 地下深くへと潜るにつれて、空気の質が明らかに変わっていくのがわかる。

 ただの湿気や冷気ではない。肌の表面に微細な針を突き立てられるような、チリチリとした嫌な感覚。

 人間の負の感情が物理的な質量を持った瘴気が、濃密な霧となって空間を満たしているのだ。


 もし星羅様がここにいれば、その重苦しい空気に当てられて魔力酔いを起こしていただろう。

 ルークがいれば、目に見えない敵に対して無差別に剣を振るっていたかもしれない。


 しかし、私はただの限界聖女である。



「……随分と空気が淀んでいるわね。壁のシミも酷いし……。王室の管理はどうなっているのかしら」



 私は周囲の瘴気をまるで「換気不足の埃」程度にしか認識せず、主婦のような不満を漏らしながらさらに奥へと歩みを進めた。

 念のためにと出力を最小限にまで絞った魔力結界が、凶悪な瘴気を「ジュッ」という微かな音と共に弾き返し、完全に無効化していく。


 私の頭の中にあるのは、国の危機を救うという使命感ではない。

 この地下の最奥にある部屋を綺麗に掃除して、極上の寝室へとリフォームすることだけだ。


 待っていなさい、私のふかふかのベッド。今すぐ、極上の寝室を用意してあげるからね。


 私は血走った目で暗闇を睨みつけ、バケツの取っ手を握り締めながら、さらに深くへと王宮の地下ダンジョンを突き進んでいくのだった。


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