第12話 婚約破棄に三秒ルールは適用しますか?
王宮の最奥に位置する謁見の間は、足を踏み入れる者の呼吸すら奪うほどの威容を誇っていた。
遥か高くにそびえるドーム型の天井には、建国神話を描いた極彩色のフレスコ画が一面に広がり、見下ろす神々と英雄たちの視線が、侵入者の罪を暴こうとしているかのように重くのしかかる。
塵一つなく磨き上げられた大理石の床には、入り口から玉座へと続く真紅の絨毯が一直線に敷かれていた。
その分厚い絨毯の上を歩くたび、私の足元からは音すら吸収されていくような錯覚に陥る。
絶対的な権力の象徴であるこの空間には、空気が凍りついたかのような、張り詰めた静寂だけが支配していた。
私は真紅の絨毯の上に静かに膝をつき、深く頭を垂れる。きょろきょろと物珍しそうに周囲を見回していた星羅様が、慌てて私の所作をなぞった。
ルークは彫像のように微動だにしないまま、扉の前で控えている。
私たちの正面、大理石の階段を数段上がった先にある黄金の玉座には、この国の絶対君主である国王陛下が重々しく腰を下ろしていた。
そしてその傍らには、美しい金髪を輝かせた第一王子、アルベルト・アドラー殿下の姿がある。
「……面を上げよ、我が国の誇り高き聖女たち」
国王陛下の、低く威厳に満ちた声が、広大な謁見の間に反響した。
私はゆっくりと顔を上げ、国王陛下の深い皺が刻まれた、しかし眼光鋭い顔を見つめ返す。
昨夜、王都を覆う不穏な瘴気の気配を感じ取り、朝から対策を考えていた私は何の前触れもなく、こうして王宮へと召喚されたのだ。
嫌な予感しかしない。
派閥争いの激化、そして星羅様という新たな聖女の存在。
これらが複雑に絡み合い、国政に暗い影を落としていることは間違いない。
そして王家が、この事態を収拾するために何らかの『強硬手段』に出ようとしていることも、長年の勘で容易に想像がついた。
「昨今の貴族たちの対立、そして教会内部の混乱。余も深く憂慮しておる」
国王陛下は重々しく息を吐き、玉座の肘掛けを静かに叩いた。
「新たな聖女セーラの降臨は、我が国にとって大いなる祝福である。しかし同時に、古き良き秩序を揺るがす火種となってしまったこともまた事実」
その言葉に、私は内心で激しく同意した。
本当にその通りだ。私はただ、自分の後継者を育てて、さっさと隠居生活に入りたかっただけなのだ。それがどうしてこんな国を二分するような大騒動になってしまったのか。
すべては私の打算的な『引きこもり計画』から始まったことだが、まさかここまで事態がこじれるとは夢にも思わなかった。
「このまま派閥の争いを放置すれば、いずれ国は二つに割れ、内乱へと発展するやもしれん。それは王家として、何としても避けねばならぬ事態だ」
国王陛下の瞳が、鋭く私を射抜く。
その強い視線に、私は背筋が粟立つような悪寒を覚えた。
来る。
私のささやかな平穏を、完膚なきまでに叩き潰すような、恐ろしい宣告が今ここに――。
「故に、余はここに一つの決断を下す」
謁見の間の空気が、さらに一段と冷たく張り詰めた。
国王陛下は一度言葉を区切り、そして、謁見の間の隅々まで響き渡るような、力強い声で言い放ったのだ。
「レティシアーナを第一王子アルベルトの妃とし、生涯この国の聖女として王家を支えさせる。これにて、派閥の争いも収まるであろう」
ピシリ、と。
私の脳内で、何かが決定的にひび割れる音がした。
――妃? 生涯、聖女として王家を支える?
意味がわからない。いや、言葉の意味は理解できるが、私の脳がその情報の処理を全力で拒絶していた。
私の聖女としての地位を、王家との婚姻によって絶対的なものとする。
そうすれば、新参の聖女である星羅様を担ぎ上げようとする新興貴族たちも、おいそれと手出しはできなくなる。
保守派の旧聖女派は歓喜し、王家の権威のもとに争いは強制的に鎮圧されるだろう。
政治的な判断としては、極めて合理的で、反論の余地がないほどの完璧な一手だ。
しかし――。
それでは私の『夢』は一体どうなってしまうのだ。
王妃教育。他国からの賓客を接遇するための、終わりの見えないマナー講習。歴史、語学、政治学の分厚い教本。
公務。朝から晩まで分刻みで組まれた視察、式典、そして絶え間なく続く治癒と祈りの儀式。
夜会。重いドレスと息もできないほどのコルセットで身を締め付けられ、腹の探り合いをするためだけに夜更けまで立たされ続ける地獄の社交場。
そして何より、次期王妃という、国全体の運命を背負う重圧。
そんな生活の中に、私の愛する『睡眠時間』が入り込む余地など、一秒たりとも存在しないではないか。
私の頭の中で、あの雲のように白くて柔らかい、念願の『ふかふかのベッド』が、凄まじい音を立てて崩れ去っていくのが見えた。
最高級のスプリングが弾け飛び、真っ白なシーツが泥まみれになり、枕が羽毛をまき散らしながら虚空へと消えていく。山積みにするはずだった未読の本たちが、公務という名の燃え盛る炎に包まれて灰と化していく。
私の輝かしい引きこもり生活が……! 絶対的な孤独と、至福の安眠が……!
全身の血が一気に足元へと下がり、指先から急速に体温が失われていくのを感じた。
呼吸が浅くなり、視界がぐらぐらと揺れる。
あまりの絶望に、私はその場で泡を吹いて倒れそうになるのを、法衣の裾を強く握り締めることでどうにか堪えていた。
過労死寸前の地獄から抜け出すために、わざわざ異世界から後輩を召喚したというのに。
その結果が、以前よりもさらに過酷で、一生逃げ出すことのできない『王妃』という名の黄金の鳥籠への収監だなんて。
神様は、どれだけ私の睡眠時間を憎んでいるというのだ。
私は、酸素の足りない頭で必死に考えを巡らせた。
断らなければ。
なんとしてでも、この勅命を撤回させなければ、私は本当に過労で死んでしまう。
しかし、相手は絶対の権力を持つ国王陛下だ。ここで「嫌です、私は寝たいんです」などと本音を叫べば、不敬罪で即刻牢屋行きだ。
いや、牢屋ならずっと寝ていられるかもしれないから、案外悪くないかもしれない。
そこまで思考が飛躍するほど、私の精神は限界を迎えていた。
乾いた唇を震わせ、何とか言葉を絞り出そうとした私の横で、深く息を吸う音がする。
「……お断りします」
静寂に包まれた謁見の間に、酷く冷たく、そして凛とした声が響き渡った。
私の声ではない。
隣斜め後ろに控えていた、異郷の後輩聖女、星羅様の声だった。
その言葉が意味するものを理解した瞬間、私の心臓は早鐘を打ち始めた。
ドクン、ドクンと耳の奥で嫌な音が鳴り響き、全身からさあっと血の気が引いていくのがわかる。
ここは、この国で最も神聖で、最も絶対的な権力が存在する場所だ。玉座に座る国王陛下の勅命は絶対であり、それに逆らうことは即ち反逆罪を意味する。
私は信じられない思いで、ゆっくりと首だけを動かして後ろを振り返った。
ちょうど星羅様が、膝をついた姿勢からゆっくりと立ち上がるのが視界に入る。
彼女の艶やかな黒髪が、シャンデリアの光を浴びて鈍く輝き、赤みがかった茶色の瞳は少しの怯えもなく、玉座に座る国王陛下とその傍らに立つアルベルト殿下を真っ直ぐに射抜いていた。
「せ、星羅様……っ⁉ なにを言って……」
私は掠れた声で静止しようとしたが、彼女の耳には届いていなかった。
星羅様は一歩前へ踏み出し、私の横に並び立つ。
小柄なはずの身体からは、普段の無邪気さからは想像もつかないほどの、圧倒的で濃密な魔力の波動が立ち上っている。
黄金色の光の粒子が彼女の周囲をチカチカと舞い、謁見の間の空気がビリビリと震え始めた。
「レティシア様は今まで、身を粉にしてこの国のために尽くしてこられたんです! それなのに、これ以上彼女から自由を奪うなんて、絶対に許しません!」
星羅様の声は、怒りに震えていた。
彼女の目には、私が『国を救うために自己犠牲を強いられる悲劇の聖女』として映っているのだろう。
いや、確かに過労死寸前まで働かされていたのは事実だが、今の私が求めているのは『自由』という高尚なものではなく、単なる『睡眠時間』と『ふかふかのベッド』である。
しかし彼女は、正義感と私への異常なまでの執着心から、堂々と王家に喧嘩を売ってしまったのだ。
「控えよ、異郷の娘。これは決定事項だ」
玉座の傍らから、鋭い声が飛んだ。
第一王子、アルベルト殿下が、階段を一段下りて私たちを見下ろしている。
アクアマリンの瞳が氷のように冷たく細められ、王族としての圧倒的な威圧感が、目に見えない巨大な波となって私たちに押し寄せた。
「我が国の聖女の処遇は、王家が決定する。異郷の客人であるお前が口を挟む問題ではない」
「客人だなんて思ってないくせに! 私を都合よく使おうとしてるだけじゃないですか!」
星羅様は一歩も引かず、アルベルト殿下を睨み返した。
「私は、レティシア様を助けるためにこの世界に来たんです。もし、王家がレティシア様を無理矢理その玉座に縛り付けるというのなら……私は、レティシア様を連れてこの国を出ます!」
ヒュッ、と私の喉の奥で、空気が引き攣る音がした。
国を出る?
冗談じゃない。私には特注のふかふかベッドが待っているのだ。
国を出てしまえば、あてのない逃避行が始まり、野宿で背中を痛めるような地獄の生活が待っているに決まっている。
私の安眠計画が、星羅様の暴走によって、明後日の方向へと木っ端微塵に吹き飛ばされようとしていた。




