第四十四話:懲りない男
梅雨が明けた七月上旬の休日、勇一君は私の家に来ていた。
これは私の両親が仕事で不在のため小学生の私一人では危ないという事で、数年前から勇一君と休日を過ごすのはいつもの事だった。
勇一君は正午の陽が射し込む私の部屋の、僅かに光が当たらない南西側にある学習机を使って医学の本を黙々と、しかしどこかルンルンとした笑みを浮かべながら眺めていた。
どうやら勇一君は今まであまり接点はなかったが、以前からずっと好きだった女子から交際を申し込まれたらしい。
学業成就や恋愛成就は私が贈ったビーズのおかげだとか言ってとても喜んでくれているようだ。
もしかしたら本当にあのビーズには何らかの力があるのだろうか。
「さやかちゃん、お昼にしようか?」
「うん、そうだね」
勇一君はふと本を机に置いて絨毯に体育ずわりをしながら考え込む私を誘った。
私は勇一君に連れ出され、駅の北口にあるピザ屋に入った。
北口は私たちが住む海側の南口より栄えていて、駅ビルの下に位置する割と大きめのロータリーにはバスやタクシーが溢れ、歩行者は駅ビルの三階エントランスから伸びるペデストリアンデッキを歩く。周囲には銀行や証券会社、六階建ての大型スーパーやファストフード店などが立ち並ぶ。
「さあ、今日は好きなだけ食べていいよ。さやかちゃんのお陰で僕はサクセスライフを送れているんだから」
「そんな、大袈裟だよ」
この店はこの時間、食べ放題を実施していて、どれだけ食べても値段は同じなのだがそこは敢えて何も突っ込まなかった。一般的な学生が金銭的に貧困な生活を送っているのは承知している。食べ放題であろうと御馳走してくれるだけで有り難いのだ。
「いやいや正直な事を言うと僕、あのビーズをお守りくらいにしか思ってなかったんだけど、言われた通り一日一粒テグスに通してみたら受験に成功したり定期試験の順位が格段に上がったり彼女が出来たり、きっと何かあるよ、ホントに」
小さく扇形に切られたパインアップルが乗っかったフルーツピザをかじりながらビーズを始めてからの運気の上昇ぶりを語る勇一君。
「良かった。でもね、私も実は半信半疑なんだ。でもきっとこのビーズをみんながやれば幸せになる人が増えるよね」
「そうだね。ありがとう、絵里にも分けてくれて、ビーズ」
絵里という固有名詞を口にしようとした時、勇一君は少し頬を赤らめ照れ臭そうな顔をした。
きっと絵里さんは勇一君の彼女なんだから良い人に違いない。私はそう信じていた。だからビーズを分けたのだ。
食べ放題を利用して、たらふく食べたのは勇一君だった。私は腹八分目辺りで手を止めたのだ。彼は体を重たそうに、私に手を引かれながら猫背になって店を出た。
「ごめん、さやかちゃん、小学生に手を引かれるなんて、情けない」
はぁ、と溜め息をついて中央公園に向かいとぼとぼと歩く勇一君は、まるで何かに取り憑かれたようにぐったりとしていた。その姿はビーズの効果でサクセスライフを送る成り上がりの『勝ち組』の人間とは寧ろ逆で、運気を使い果たして廃れ、やがては倒れて灰になり風化しそうな、奈落の底に落ちた『負け組』だった。
「食べ放題だからって調子に乗るからだよ。折角ビーズで運気が上がっても、調子に乗って悪い事すると地獄に堕ちちゃうよ?」
勇一君の体を落ち着かせるべく駅から少し北へ向かい、国道の向こうにある中央公園で休む事にした。
中央公園は特に子供用の遊具などはなく、東西に芝生が広がっていて、東と西の中間には背の高い木が何本か立っている。公園の西側には入口にトイレがある建物とやや大きめな池があり、東側には人工の滝と、その滝の上に小高い丘がある。噂によるとその丘には捨てられたウサギが多く棲んでいて、夜になると公園中を自由気ままに駆け回るようだ。
私たちは滝の前に常設されている、木製のステージに上り腰掛け滝を背にして、私は両足をぶらぶらさせ、勇一君はうずくまっていた。
「ふっ…」
「何か可笑しいかい?」
しばらく休んでいると、未だ同じ姿勢を保ったままの勇一君の背中にシオカラトンボが止まった。まるでトンボにまで馬鹿にされている様でそれが可笑しかった。
「うん、可笑しい」
公園を後にすると、そのすぐ近くの道路を挟んで東側にある駅前にある大型スーパーとはまた違う大型スーパーに連れられた。このスーパーには映画館があり、勇一君が私に何か好きな映画を見せてくれると言った。
勇一君は映画館の売店でメロンソーダを私の分を含めて二つと、スモールサイズとレギュラーサイズのポップコーンを一つずつ買った。レギュラーサイズの方は勇一君が食べるそうだ。
この人、懲りてない。
映画が終わって、私や他の客は席を立ち劇場を出ようとする。しかし勇一君だけは立とうとしなかった。
「勇一君?」
「立てない、体が重くて」
それを聞いた私は勇一君を無視して出口へ向かう。
「ちょっ、そんな」
仕方ないので私は勇一君の左腕を両手で引きずって劇場を出た。映画館の係員は、どうしました? と訪ねてきたが、私は何か言いた気な勇一君を目で制止して、いえ、何でもないです。御心配おかけして申し訳ありません。と答え、一礼した。引きずる私と引きずられる勇一君に入場待ちの行列の目線が集まる。
結局タクシーを呼んで帰宅し、夕食は出前を取る事にした。勇一君はメニューを見ながら通話している。
「え〜と、ラーメン二杯に餃子二皿、麻婆豆腐と野菜炒めに青椒肉絲を一皿ずつ、あとピータンも一皿、最後に杏仁豆腐を二つお願いします」
二人分の量とは思えない注文だ。それにお金は足りるのだろうか。ましてやピザとポップコーンで同日中に二度も苦しい思いをしている筈なのに。
どうもこの人は『懲りる』と言う事を知らないようだ。
今回の話はコメディータッチですが、さりげなく今後の展開に重要なポイントを置いた話です。今後の勇一の動きにご注目下さい。