第一話
痛み、血が流れ出る喪失感、死の気配……。
当然やってくるはずのそういったものが、しかしいつまでたっても訪れない。
それどころかむしろ、穏やかな空気が身体を包んでいる。
奇妙な話だった。
日本刀の刃はこれ以上ないというほど頸動脈に食い込ませたし、ざっくりと滑らせた。
視界も真っ白に染まったから、自殺は上手くいったものだと思っていたのだが。
それともこれが死というやつなのだろうか?
死が穏やかなものであるというのは、宗教が生み出した幻想だと俺は考えてきた。が、こうなると考えを改めなければならない。俺のようなろくでなしにも救いが与えられるとしたら、少しは癒やされる気がする。永遠の眠りとやらに心地よく落ちることができる。悪くない。この世界も捨てたものではなかったのかもしれない……。
そんなことを考えていると、突然身体がずしりと重くなった。
思わず膝をつく。
地面の冷たい感触が膝頭から伝わってくる。
ああ、遂に死ぬのか――と、安堵と空しさに息を吐く。
何だか身体が涼しい。
服を一枚も着ていないようだ。
命の終わりとはこんな感じなのか。そう思うと少しだけおもしろかった。
これが最後の感覚なのか。それとも次にまた何か感じるのか。
死の手触りを少しでも感じようと、感覚を研ぎ澄ませたそのとき、俺はざわめきを耳にした。
それは俺の周囲から聞こえてきた。
複数の男女が何かに恐れおののいたような、そんなざわめきである。
何なのかはわからないが、警察官や救急隊員でないことは間違いない。
となると死神でもやってきたのか。まさか天使ではないだろうし――。
当然、好奇心に駆られる。
死の間際、どのような光景を目にすることができるのか、どうしてもこの目で見たくなった俺は、羽のついた悪魔のような存在が自分の周囲を飛び回っているのを想像しながら、うっすらと目を開けた。
そして、そこにまるで予想外のものを見た。
まず、ここは広い和室ではなかった。
薄暗い洞窟遺跡のような、薄暗く狭い空間。
壁面に備え付けられた松明の明かりが、唯一の光源だった。
その揺れる光に照らされるのは、灰色のフードを目深にかぶった複数の人影。体格から成人した男女であるようだ。少なくとも羽の生えた小人ではない。
彼らは空間の真ん中で膝をつく俺の周囲をぐるりと囲んでいた。フードのせいではっきりとはわからないが、視線も俺を向いているらしい。突き刺さるような視線だ。かなりの注目を集めているようだ。
何がそんなに気になるんだ。
中身はともかく、見かけはどこにでもいる男子高校生だ。
珍しいところなんて何もないだろう。
ああいや、よくよく考えると俺は血まみれだし、同じく血にぬれた日本刀を持っているわけだから、恐れられて当然か――。
そう思いながら自分の身体を見下ろした俺は、自分の考え違いに気づき、驚きとともに納得した。
手の中の日本刀は消えていた。
血まみれのカッターシャツもない。
それどころか、ボクサーパンツ一枚はいていない。
全裸だった。
涼しいと思ったのは死がどうこうではなく、裸だったせいらしい。
なるほど。
目の前に全裸の男が現れれば、たいていの人間が驚くだろう。俺だって驚く。
しかしどういうことだ?
さっき和室で自殺を図った人間が、気づいたら洞窟のような空間で全裸になっていた。
普通に考えれば、普通じゃないということになる。
幻覚を見ているのか、それとも死後の世界にやってきたのか。
考えられる可能性は少ないようでいて無限だが、俺が知っている現実じゃないことは確かだろう。
……死のうとしただけなのに、何かおかしなことになってしまった。
訳がわからずため息をつく俺に、硬直していた人々の中の一人が、おそるおそる話しかけてきた。
若い女の声。
だが、何を言っているのかわからない。
日本語じゃないのだ。
俺が知っているどこの国の言葉とも似ていない。
独特な発音や呼吸を聞いていると、異国の言語というよりは異界の言語といった感じがする。
死後の世界の言葉、地獄の言葉だろうか?
「すまない。あんたが何を言っているかわからない」
女の言葉を遮り、俺はそう言った。
すると女ははっと息をのみ、確認するような語調で何事か俺にささやいた。
俺はただ首を横に振った。
沈黙が満ちる。
どうしたものかと思っていると、女は意を決したように頷き、周囲の人々に向けて真剣な口調で何か言った。
無数のうなずきがそれに答える。
女は他の人々がなにやら行動を起こし始めたのを見届けると、ローブのような上着を脱ぎ、かしこまって俺に差し出した。
着ろということらしい。
全裸でいる趣味はないので、ありがたく受け取ることにする。
女は俺がローブを着終えるのを待った後、うやうやしく腰をかがめ、手で一方を指し示し何か言った。
おそらく着いてこいという意味だろう。
状況が解らない以上、ほいほい見知らぬ人間の後を着いていくことは愚行に違いなかったが、ここに突っ立っていても意味はない。
何しろ俺は自ら死のうとした人間だ。
生きることにも自分にも未練はなく、この先どうなろうと構わなかった。
どうやら俺が十七年過ごした世界とは異なるらしいこの世界でも同じことだ。ここが地獄で今から二人の人間を殺した罪を責められるというなら、従順にそれに従うだけだった。
俺はひっそりと息を吐き、女の指し示す方へと歩き出した。
予想通り、先ほどの狭い空間は洞窟の中だったらしい。
外に出ると、闇の中にぼんやりと森が広がっていた。
夜なのか、それとも地獄では一日中これなのか。解らなかったが、自分がどういう世界にいるのかは相変わらず解らない。森の小道を歩いて行く女の後を追いかけながら、俺は耳を澄ませた。
動物のものらしい気配、虫らしきものの鳴き声、草木の葉が揺れる音。森の中ではごく普通の情報の群れの中に、人間の気配は俺たち以外にはない。周囲を歩く人々の動作を見ていると、どうやらこれは秘め事のたぐいであるようだ。そしてその秘め事の核となるのはおそらく俺である。洞窟の中での対面後、驚きはしていたようだが、その後は流れるようにことが運んでいるところを見ると、彼らは俺があそこに現れるのを知っていた――あるいは俺が現れるのを待っていたということになる。地獄に送り込まれた罪人の扱いにしては良すぎる気がするが、実際はこっちもサービス業になっているのだろうか……。
あれこれ考えているうちに、森は終わり、視界が開けた。
暗闇のせいではっきりとは見えないが、どうやらここは小さな集落のようだ。闇の中にぼんやりと木製らしき家々が遠くに見える。小道を進んでそちらに行くのかと思いきや、俺を連行する人々は道をそれ、森から一番近いところにある、大きな建物の方へと進んでいった。近づいてみると、それは人間が居住することが目的ではない、様々な装飾が施された建築物――ある種の神殿らしかった。
祭壇で生け贄にでも捧げられるのかと、期待に似たものを抱きながら薄ら笑いを浮かべる俺をよそに、人々は俺を建物の中へと案内した。
板張りの広い廊下を抜けて辿り着いたのは、如何にも祭壇然とした、厳かな空気の満ちる一室だった。一番奥の壁に見えるのがいわゆるご神体というやつだろう。天井近くに備え付けられた水晶のような透明な石に、精緻な文様が刻み込まれている。おそらくは女神のレリーフだ。透き通った瞳がこちらを見下ろしている。宗教心のない俺でも、不思議とそれっぽい気分になったのだから、なかなかのものだろう。が、そのレリーフの真下に置かれた椅子が良く解らない。レリーフと違って岩石から適当に削りだしたような無骨な形をしているし、何より座る面がこちらを向いている。祭司のたぐいが儀式をするために使うのであれば、レリーフの方を向いているだろう。配置から考えれば、神の代行を務める者が座るのかもしれない……。
と、声をかけられ後ろを振り返る。
気づけば俺を連れてきた連中は姿を消し、最初に俺に声をかけてきた女だけが少し離れたところに立っていた。
壁に掛けられた照明の淡い光の中、手に小さな桐箱のようなものを持っている。何が入っているのか解らないが、状況から考えれば、まず間違いなく俺に何かするためのものであるだろう。心臓に突き刺すための短剣か、不気味な造形の仮面か……。考えればきりがないが、あまり良いものではないような気がする。全裸にローブをまとっただけの男に、服よりも先に用意した代物だ。相当に重要なものであるだろう。
女はそっと俺に近づいてくると、手を伸ばせば届く距離で足を止め、膝をついた。
予想通り、箱の蓋を取ると、うやうやしく俺に差し出してきた。
――受け取れ。
そう言っている。
さてさて、一体何が入っているのかと箱の中をのぞき込んだ俺は、意外なものを目にした。
高級そうな紫色の布が敷き詰められた箱の中に入っていたのは、短剣でも仮面でもなく、中指くらいの長さの枯れ枝のようなものだった。黒っぽいそれは所々にとげが生えている。が、人に血を流させるほどの威力はなさそうだ。何に使うためのものか、まるで解らない。当然のように俺は困惑した。
「……これをどうしろって言うんだ?」
俺は呟くようにそう尋ねた。
しかし女は無言で頭を下げ、その代わりに手の中の箱をより高く捧げた。
――良いから受け取れ。
そんな感じである。
これをどうにかしないと、話は先に進まない風である。
『どういうものか解らないものには手を出すな。情報を十二分に収集してから客観的に判断しろ』
様々な場面で祖父が口を酸っぱくして俺に言い続けた言葉だ。
理にかなった言葉でもある。
だが、その台詞の背景にあるのは、己を生かすという揺るぎない意志。
その生きるというやつを自分で切って捨てた俺には、はっきり言って無用の言葉だった。
どうでも良い。
毒があろうが、手に取った瞬間激痛にのたうち回ろうが、構わない。
どうせならもう一度俺を殺してくれ。
そう自暴自棄に思いながら、俺は桐箱の中のそれに手を伸ばした。
指先で枯れ枝を掴んだ、その瞬間だった。
何かが、指先から這入ってきた。
ぐにゅりと音が聞こえてきそうな、そんな感覚だった。
そのおぞましい感触に咄嗟に枯れ枝を放り出そうとした。だが、指を離しても、枝は落ちなかった。指先に――いや、既に右手の大部分に食い込んでいる。ムカデが手に絡みついているような光景だった。トゲが伸び、がっちりと身体に突き刺さる。枝は凄い勢いで指から手へ、手から腕へ、腕から肩へ、肩から首、胸、腹……あっという間に全身に広がっていく。身体への侵入が深まる度に、黒っぽかった枝はみずみずしい緑色になり、枝というよりは蔓のように柔らかくなった。最後には、俺の血を吸っているのか、段々と真っ赤に染まっていった。
異常な光景だった。
だが、何より異常なのは、気持ち悪いだけで身体に痛みが全くないということだった。
「――――!」
俺が声にならない悲鳴を上げた時、身体の中を蠢いていたものは唐突に動きを止めた。
震える息を吐きながら、俺は自分の身体を見下ろした。
枝は皮膚の下に潜ったらしい。身体中に入れ墨のような赤い文様が走っている。だが、それだけだ。やはり痛みも感じないし、手足が動かなくなったということもない。むしろ身体の奥から力がわき出てくる。軽くジャンプしたら天井を突き抜けそうな気分だ。一体俺の身体に何が起こったというのだろうか――。
「無事適合されたようですね。安心いたしました」
ぎょっと女の顔を見る。
何を言ったのか解った。今聞こえたのは間違いなく日本語だった。
女が急に日本語をしゃべれるようになったのか。
いや、何のきっかけもなくそんな都合の良い展開になるのはおかしい。
むしろきっかけがあったとすれば俺の方だ。
例の枝が身体に侵入してきたことで、今まで解らなかった言葉が解るようになったとでも言うのか……?
「――あんた、誰だ。俺に何をした……?」
かすれた声で尋ねた俺に、女は小さく頷いた。
フードを脱ぎながら、頭を下げる。
「失礼しました。わたくしはティーア。神人種族、メルトカモの村の祭司長をしております」
豊かな金髪が花が咲いたように広がる。
秋空のように澄んだ青い瞳が、下から俺を見上げた。
人形のように整った顔をした女の耳は、人間ではあり得ないほど鋭くとがっていた。
「神の御使い――今生の救済者、ザルヴァトル様……どうぞあちらにおかけになってください」
女……俺よりも年下に見える少女は、畏れ敬うようにそう告げると、指で一方を指し示した。
指先を追いかけると、あの無骨な椅子がそこにあった。
俺は椅子を見つめ、途方に暮れた。
何ということだ。神の代行者は俺だったのか――――。




