ある日のことだった。
ある日のことだった。
どこかの街の、冒険者ギルドの酒場。
夕暮れの光が窓から差し込み、古びた木のテーブルを琥珀色に染めている。酒と肉の匂いが漂い、冒険者たちの笑い声が壁に反響していた。
若い冒険者が三人、隅のテーブルで一冊の本を囲んでいた。
分厚い本だ。革の表紙に金の箔押しで題字が刻まれている。
「おい、これ読んだか。例の歴史書」
「ああ、全種族会議が公式に出したやつだろ。『世界再生記』」
「この章が面白いんだよ。ほら、ここ」
一人が本を開き、声を出して読み上げた。
「『最弱にして最凶の魔王ヴァルゼン。戦闘力は最底辺ながら、その知略と胆力で全種族を束ね、虚淵を退けた。目を閉じてなお世界の真理を見通す魔眼を持ち、その一言は万の軍勢に勝るとされた──』」
読み上げた冒険者が、本を閉じて笑った。
「こんな魔王いるわけないだろ」
「だよな。戦闘力最底辺で世界を救ったって、どういう理屈だよ」
「歴史書って盛るからな。英雄譚は話半分に聞いとかないと」
三人が笑い合った。
だが、一人だけ──赤毛の若い男が、少し違う顔をしていた。
「いや、俺は信じるね」
「は? お前、こんなの真に受けてんのか」
「だってさ──全種族会議の公式記録だぞ。七人の証人が全会一致で認めてる。勇者エルヴィンも、あの天才賢者フェリクスも。嘘を書く理由がない」
「でも戦闘力最底辺って──」
「だからこそだろ。弱いのに全部乗り越えたってことは、戦闘力以外の何かがあったってことだ。それって──すげえことじゃないか?」
仲間たちは顔を見合わせ、首を傾げた。
赤毛の男は目を輝かせたまま、歴史書のページをめくり続けている。
そのとき、酒場の扉が開いた。
夕暮れの逆光が差し込んで、入ってきた人物のシルエットだけが浮かび上がった。
小柄だった。フードを深く被っており、顔は見えない。ローブは古く、何度も繕った跡がある。背中に武器はなく、魔法の杖も持っていない。
足取りはおぼつかなく、扉を開ける手が僅かに震えていた。
フードの人物は、酒場の中を見回した。
冒険者たちの視線が集まるのを感じて、一瞬たじろいだ。小さな肩が縮こまった。
受付のカウンターまで歩く。
足が、もつれそうになった。
「あの……」
声は小さかった。消え入りそうなほど小さかった。
「冒険者登録を、したいんですが……」
受付の女性が不思議そうな顔をした。
カウンター越しに見える相手は、どう見ても冒険者には見えない。戦士の体格ではない。魔法使いの気配もない。ただの──怯えた旅人だ。
隅のテーブルで、若い冒険者の一人が笑った。
「おい見ろよ。また弱そうなのが来たぞ」
「あれで冒険者になれると思ってんのかね」
「ゴブリンにも勝てなさそうだ」
笑い声が酒場に響いた。
フードの下で、ヴァルゼンは小さくため息をついた。
──ああ、やっぱりこうなるのか。
知っていた。わかっていた。
見た目は変わらない。戦闘力も変わらない。ゴブリン以下の最弱の魔王。それは昔も今も、何一つ変わっていない。
でも──不思議と、かつてほどの恐怖はなかった。
怯えている。それは本当だ。声は震えているし、手も震えている。
だが、あの頃のような──世界の全てが自分を拒絶しているような、底のない恐怖ではなかった。
だって知っている。
この震えの先に、何があるか知っている。
エルヴィンの声が聞こえる気がした。「俺は信じる」と言うあの声が。
グリゼルダの笑い声が聞こえる気がした。豪快で、温かい笑い声が。
フェリクスの呟きが聞こえる気がした。「興味深い」と目を輝かせる声が。
ミラベルの涙声が聞こえる気がした。「大丈夫です」と微笑む声が。
ザガンの静かな声が聞こえる気がした。「お供いたします」と告げる声が。
──冒険しないか?
あの日のエルヴィンの誘いを、結局断り切れなかった。断り切れるわけがなかった。この勇者の誘いを断れたことなど、一度もなかったのだから。
受付の女性が書類を差し出した。
「お名前は?」
「……ヴァルゼン、です」
「ご職業は?」
一瞬の間があった。
「…………魔王、です」
受付の女性は万年筆を止めて、ヴァルゼンを見た。
フードの下から覗く淡い紫の瞳は、怯えていた。しかし逃げようとはしていなかった。
「……はい。では登録いたしますね」
受付の女性は、深く追及しなかった。冒険者ギルドには変わった者がよく来る。魔王を名乗る者も、まあ──いないことはない。
隅のテーブルで、赤毛の若い冒険者がふと目を止めた。
フードの人物を見た。
小柄で、怯えていて、今にも逃げ出しそうで。
手元の歴史書に目を落とした。
──最弱にして最凶の魔王。
まさか、と思った。
まさか。
赤毛の男は仲間の肩を叩いた。
「おい……あの人、もしかして──」
「ん? 何だよ」
「いや……いい。なんでもない」
首を振って、歴史書を閉じた。
まさかね、と笑った。
あんな弱そうな人が、最凶の魔王なわけがない。
カウンターで、ヴァルゼンは登録証を受け取った。
真新しい冒険者の証。最低ランク。
──また、ここからか。
フードの下で、小さく笑った。
笑ったつもりだったが、たぶん情けない顔になっていた。
酒場の扉を押し開けて、外に出る。
夕暮れの街に、風が吹いた。
どこかで、聞き慣れた声がした。
「遅かったな、ヴァルゼン! 登録できたか?」
眩しい笑顔が、待っていた。
相変わらず歯が光っている。物理法則に反している。
「……エルヴィン。やっぱり待ってたんですか」
「当たり前だろ。仲間を待つのは勇者の仕事だ」
「僕、まだ行くとは言ってないんですが」
「行くだろ?」
「…………」
ヴァルゼンは空を見上げた。
夕焼けが、あの日と同じ色をしていた。戦場跡で倒れていたあの日。差し伸べられた手を取ったあの日。
怖い。やっぱり怖い。
でも──仲間がいる。
「……よろしく、お願いします」
声が、震えている。
誤解の物語は、終わらない。




