先代の日々
先代の日々
水晶板には、先代魔王ゼルヴァスの日常が記されていた。
それは——想像とは、まるで違うものだった。
「午前。魔力循環の確認。大陸東部に微弱な滞り。調整を行う。所要二刻」
乾いた文体だった。業務日誌のようだ。感情はほとんど書かれていない。文字は整然としており、書き手の几帳面さが伝わってくる。
「午後。南方の人間集落と魔族居住区の境界紛争を調停。双方の代表と面談。人間側は耕作地の拡大を主張。魔族側は伝統的な狩猟権を主張。双方の主張を聞き取り、折衷案を提示。合意に至る。所要四刻」
「夕刻。虚淵の監視。北西に微弱な兆候。拡大の可能性は低いが経過観察とする」
「夜。魔力循環の再確認。全域安定。就寝」
それが、一日。たった一日の記録だ。
次の日も、その次の日も、同じだった。魔力循環の確認。種族間の調停。虚淵の監視。朝から夜まで、休みなく。変わり映えのしない日々が、淡々と記録されている。
何百日分もの記録が、同じ形式で続いている。
ヴァルゼンは読みながら、気づいた。記録のどこにも——「仲間」や「補佐官」への言及がない。全ての業務が単数形で記されている。「確認を行う」。「調停を行う」。「監視する」。主語は常に一人だ。
「一人で……全部やってたんですね」
ヴァルゼンの声が、記録保管庫の静寂に落ちた。
「はい」
ザガンが答えた。その声にも感情が滲んでいた。普段は鉄面皮の元参謀が、目を伏せて答えている。
「先代は全てをお一人で担われていました。魔力循環の管理も、種族間の調停も、虚淵の監視も。参謀である私がお手伝いできたのは、事務的な処理と情報整理だけです。肝心の——魔力に関わる業務は、陛下お一人でした。人の手が入る余地がなかったのです」
記録は続く。日付が進むにつれ、記述に微かな変化が現れ始めた。
「百五十三日目。東方の調停に三日を要した。以前なら一日で済んだが、集中力が落ちている。疲労の蓄積を自覚する」
「二百四十日目。魔力循環の調整に失敗しかけた。微弱な滞りを見落とした。初めてのことだ」
「三百十七日目。東方の魔力循環に大規模な乱れ。一人で調整するには限界がある。だが他に担える者がいない」
その一文の後に、不自然な間隔が空いていた。書きかけて止めた——そんな痕跡だった。
「四百九十日目。南方の虚淵が拡大。三日間不眠で対処。体の限界を感じるが、休めば虚淵が広がる。選択肢はない」
ヴァルゼンの手が、水晶板の上で震えた。
「五百七十日目。種族間の調停で声を荒げてしまった。疲労で感情の制御が効かなくなっている。王として、恥ずべきことだ」
自分を律する言葉。だがその裏に、限界に近づいた者の悲鳴が透けて見える。
「六百二日目。孤独だ」
その一文で、記録の文体が変わった。業務日誌の乾いた筆致が崩れ、個人の感情が滲み出していた。
「孤独だ。この言葉を記すことすら、弱さの証だろう。だが記しておく。後に続く者への記録として。孤独が判断を鈍らせ、孤独が心を蝕み、孤独が世界の管理者としての機能を低下させる。孤独は弱さではない——構造的な問題だ。一人で全てを担う設計そのものに、欠陥がある」
ヴァルゼンは読み上げながら、自分の声が震えていることに気づいた。
ミラベルが声を殺して泣いていた。頬を伝う涙を拭おうともせず、ただ聞いていた。
「先代魔王様は……一人で世界を守っていたのですね……」
エルヴィンが歯を食いしばっていた。普段は底抜けに明るい勇者の顔に、初めて見る種類の感情が浮かんでいた。怒りか、悲しみか、あるいは——自分がその場にいられなかったことへの悔しさか。
「強すぎて、孤独だった」
フェリクスが静かに呟いた。モノクルを外し、目頭を指で押さえている。
「力があることが、この方を一人にした。助けを求めなかったのではなく、助けを受け入れる余地がなかった。……皮肉としか言いようがない」
グリゼルダは黙っていた。だがその蒼灰色の目に、深い共感が浮かんでいた。武人として「強さ」の意味を知る彼女だからこそ、先代の孤独が刺さるのかもしれない。
セラフィオンは微動だにしなかった。だが翼の明滅パターンが——乱れていた。
ヴァルゼンは記録を読み続けた。
「七百四十日目。体調が悪化している。魔力循環の維持に使う魔力が、自分の体を蝕み始めている。世界を維持するために、自分が壊れていく。これもまた、構造的な問題だ」
「八百日目。限界が近い。だが後継者がいない。私が倒れれば、魔力循環は崩壊する。世界が——」
「九百十二日目。後継者について考える。私と同じ過ちを繰り返させたくない。必要なのは、私のような強い魔王ではない。仲間に頼れる魔王だ」
ヴァルゼンの心臓が大きく鳴った。
「だが、そんな魔王が現れるだろうか。魔王の座は強者に与えられる。弱い者が魔王になることなど——」
そこで記録は途切れていた。
「先代魔王様は」
ミラベルが涙を拭いながら言った。声が震えている。だが、その目には温かい光があった。
「一人で世界を守っていた。でも——ヴァルゼンさんには、仲間がいます。それは先代より幸せなことです」
その言葉が、記録保管庫の静寂の中に、温かく響いた。




