利用しようとした者の敗北
利用しようとした者の敗北
宰相ルドヴィークは、執務室で一人、窓の外を眺めていた。
夕暮れの王都が赤く染まっている。尖塔の影が長く伸び、街路を行き交う人々の姿が小さく見えた。
「……甘かった」
独白が、静かな部屋に落ちた。
机の上には、リンデン渓谷紛争の調停報告書が広げてある。自分で起草させた報告書だ。「調停の主導者——魔王ヴァルゼン殿」。この一文が、今のルドヴィークには棘のように刺さっていた。
(利用するつもりだった)
あの魔王を。王都に名を轟かす「最凶の魔王」を。
外交のカードとして。国際交渉の切り札として。宰相府の権威を高めるための道具として——使うつもりだった。
だからこそ、使節団に同行を依頼した。魔王の名前が横にあるだけで、相手国が萎縮する。実際に何かをする必要はない。座っていてくれればいい。そう計算した。
計算は——ある意味で正しかった。
ヴァルゼンは確かに、座っていただけだった。一言も発さなかった。宰相の計画通りだった。
しかし、結果は計画を遥かに超えた。
あの沈黙が、ガルディアの鉄壁アデルハイトを揺さぶった。二十年の外交キャリアを持つ女が、魔王の沈黙に気圧されて譲歩した。宰相自身の弁舌では三日かかっても引き出せなかったであろう譲歩を——魔王は、黙っているだけで手に入れた。
「利用した、と思っていた」
ルドヴィークは椅子の背にもたれた。
「だが実際には——利用されていたのは私の方だ」
いや、違う。「利用された」という表現すら正確ではない。利用するには意図が必要だ。あの魔王に、宰相を利用しようという意図があったとは思えない。
意図なく、計算なく、ただ在ることで——周囲の計算を無効化してしまう。
それは、ルドヴィークの六十年の政治人生で出会ったことのない種類の存在だった。
扉が叩かれた。
「閣下、ヴァルゼン殿が面会を求めておられます」
「……通せ」
ヴァルゼンが入ってきた。おどおどとした足取りで、目が泳いでいる。あの国境交渉の場で三時間、鋼の如く沈黙を貫いた存在と同一人物とは思えない佇まいだった。
(——いや。この姿こそが、彼の恐ろしさなのかもしれない)
「あ、あの、ルドヴィークさん」
「宰相閣下、とお呼びいただいて結構ですよ」
「ルドヴィーク宰相。その、この前の交渉のことで——」
「リンデン渓谷の件ですか。見事でした」
「いえ、見事とかじゃなくて。僕、何もしてないんです。本当に何も。ただ座ってただけで。だから、その、報告書に僕の名前を書くのはやめていただけないかなって——」
ルドヴィークは、ヴァルゼンの目を見た。
怯えた淡い紫の瞳。嘘をついている目ではなかった。本気で自分の功績を否定している。
(この方は——本当に、自分が何をしたかわかっていないのか)
それとも——わかった上で、あえて無知を装っているのか。
どちらであっても、結論は同じだった。
「ヴァルゼン殿」
ルドヴィークは立ち上がり、深く頭を下げた。
「……え? ちょっと、宰相が頭を下げないでください」
「お礼を申し上げます。あなたのおかげで、戦争が一つ回避されました」
「だから、僕は何も——」
「何もしていないのに戦争を回避した。それこそが——最も偉大な外交なのです」
ヴァルゼンの口が半開きになった。反論しようとして、言葉が見つからない様子だった。
(この人に勝てる政治家はいない)
ルドヴィークは確信した。
(議論で負けるのではない。議論の土俵に立たせてもらえないのだ。この方は、あらゆる政治的な枠組みの外にいる。利用しようとした者が、気づけば利用される側に回っている。——勝てない。絶対に勝てない)
「あ、あの、その、報告書の件は——」
「残念ですが、既に各機関に回覧済みです」
ヴァルゼンの顔が蒼白になった。
「回覧——各機関に——」
「ええ。明日には各国の大使館にも写しが届くでしょう。国際的な外交記録として保存されます」
(国際的な記録。僕が黙ってただけのことが。国際的な。記録)
ヴァルゼンの膝がふらついた。
ルドヴィークは執務机の引き出しを開け、小さな包みを取り出した。
「これを」
「なんですか?」
「国境の町ヴェスターの銘菓です。交渉中にお出しできなかったもので」
ヴァルゼンが包みを受け取った。中身は焼き菓子だった。素朴な甘い香りがした。
「……ありがとうございます」
その「ありがとう」には、政治的な含みは一切なかった。純粋に、菓子をもらったことへの感謝だった。
ルドヴィークは、その姿に——不覚にも微笑んだ。
(この方を、道具にしようとした自分が恥ずかしい)
「ヴァルゼン殿。一つだけ、お伝えしておきます」
「はい」
「あなたを利用しようとした私の目論見は、完全に失敗しました。今後は——対等な協力者として、お付き合い願いたい」
「え? 利用? 利用しようとしてたんですか?」
ルドヴィークは一瞬、固まった。
(……気づいていなかったのか。本当に)
「冗談です」
「あ、冗談ですか。よかった。びっくりした……」
ヴァルゼンがほっとした顔で菓子を齧った。
ルドヴィークは窓の外に目を向けた。
(冗談ではない。だが、この方に真実を告げたところで、「そうなんですか」で終わるだろう。それが——この魔王の恐ろしさだ)
ヴァルゼンが礼を言って部屋を出た後。
ルドヴィークは椅子に深く腰を下ろし、天井を仰いだ。
「利用しようとした者の敗北、か。——若い頃に読んだ寓話のような結末だ」
夕日が、執務室を琥珀色に染めていた。
この日を境に、宰相ルドヴィークは「魔王殿をカードとして使う」という発想を完全に捨てた。
代わりに——「魔王殿に気持ちよく過ごしていただく」という方針に切り替えた。
それが結果として最高の政治判断になることを、老練な宰相はよく理解していた。




