第54話 紗伊那国の姫
「食べるか?」
ヒナの記憶を取り戻す治療が始まって三時間。
優菜にの前に焼きたてのパンが差し出された。
食欲なんてなかったけれど、手持ち無沙汰だったからとりあえず受け取ることにした。
「ありがとうございます、すいません」
相手は国王騎士団長、国明だった。
団長なのだから落ち着いてどっかりと座り込んでいればいいのに、彼もまたきっと落ち着かなかったのだと思う。
座ってじっとしていると色々な葛藤をしてしまうのかもしれない。
そして、食事係がどうしようか迷っているのにでも気付いてパンを受け取ったのだろう。
優菜は折角の焼き立てパンを口に入れてみた。
が、どれだけバターの甘い香りがしようが、それ以上食欲はわかなかった。
国明もまた食欲などないようで、籠にあまったパンを持ったまま結局椅子に座った。
遅々としてすすまない時計が、やがて昼を示した。
心躍る魔法のショーでも見せてもらえたらもっと気持ちが違ったとは思うけれど、ヒナの頭の上に手をかざしたワンコ先生と兄さんは目を閉じたまま全く動かない。
そして彼女の親である教皇と王はずっとヒナの手を握って娘の様子を窺っていた。
それから時計の長針が更に百八十度動いたとき二人が手を下ろした。
「終ったの?」
恐る恐るヒナの手を撫でていた教皇が問うと、二人は頷く。
「目を覚まされれば、きっと全てを思い出しておられるでしょう」
妖艶なワンコ先生はそう言った。
そしてそのまま優菜を見て、息を吐くと優菜の隣に腰をかけて、持っていたパンを奪い取りむしゃむしゃと食べ始めた。
「先生、おなかすいてたの?」
「あたりまえだ。こっちは三時間の重労働だ、優菜お茶」
「はいはい」
「私の分も」
置いてあった高そうなティーセットへと寄って行くと魔央も声を上げた。
二人の余裕のある顔を見ていれば、成功したことはわかる。
ただその成功が優菜にとってどんなものになるかは分からなかった。
国明からパンの入った籠を受け取り、それを二人の前に置いて、お茶を差し出すと二人はお互いの成果をたたえあうこともなく、無心にむしゃむしゃと口に運んでゆく。
沈黙に耐えられず優菜は二人に声を掛けてみた。
「今日は静かな儀式だったんですね。何かもっと大きな爆発とか期待してたんですけど」
「今日はそういう趣味じゃなかっただけだ」
「趣味の問題! あんな危険な国境地帯で趣味で爆発させたの!」
優菜が呆れて声をあげると二人の魔法騎士は悪い顔を作った。
(おい、おい、俺もいつかあんな顔をして、騒ぎを起こすのか)
「美珠?」
優菜は女性の声に振り返る。
娘の睫が震えたことに気がついた教皇が優しく手をさすっていた。
父親である国王もまた娘の頬を何度も何度も撫でていた。
するとゆっくりと目を開けて、首を動かして、やがて笑みを浮かべた。
「お母様」
そして片方に動かして、父親を見つけるとそんな父に額をつけて微笑んだ。
「お父様」
そして周りに首をめぐらせて、騎士団長達を見つけると幸せそうに微笑んだ。
「皆さん……ただいま」
優菜は不安で不安で仕方なかった。
今まで心が隣にあると思っていた彼女はどんな反応を示すのか。
存在すら感じられないと無視されてしまったらどうなるだろうと。
ヒナが何かを探すようににゆっくりと首を動かして、やがて目が合った。
「よかったちゃんといた。優菜」
そうヒナから声が漏れた途端、今まで不安でどうしようもなかったものが全部流れおちた。
(ヒナはやっぱりここにいる)
すると先ほどまで悪い悪い顔を浮かべていた魔央が善人の顔を作ってヒナの隣に膝をついた。
「どこか痛いところは? 気分の悪いところは?」
魔央の問いかけにヒナは軽く首をふる。
「頭の中はすっきりしてます。でもすごくお腹すきました」
「何か用意させましょう」
パン係の国明がさっと立ち上がり外に控えていた使用人に命じていると、ヒナは首をかしげ包帯を巻いた少年の頭をつついた。
「相馬は今、目と耳が不自由なの。でも暫くすれば治るそうよ」
教皇の言葉にヒナはそんな相馬の手をしっかりと握って前に屈んだ。
「今までどこにいたのさ、この馬鹿姫。せめて執事には連絡してよね」
「ごめんね。相馬ちゃん、旅してたの。でも私がいなくても、こんなに怪我をしててもちゃんと執事でいてくれるんだね、ありがとう」
すると相馬という少年はきっと聞こえてはいないのだろうけど、頷いた。
ヒナは顔を緩め、もう一度頭をつつくとよほど空腹だったのか、パンを見つけ、口の中へと放り込んでゆく。
「あ、おいしい。優菜も食べた? 高級ですよ! って感じ」
「材料いいもの使ってるんだと思うけど、そんなにお腹すいてたの?」
「だって、朝、あっちを出発して何も食べてなかったじゃない。超~おなかすいてるの。このパンうま~」
(ところで、姫ってこんな言葉遣いなのかな。もともとこんな街娘風? 俺の教育が悪かったか!)
「ねえ、ワンコ兄さん、ヒナってもともとこんな感じなの? 紗伊那国の姫なんだろ? もっとおしとやかにとか」
するとヒナも自分の言葉に気がついたのだろう、優菜を睨んでから丁寧にパンをちぎって口に入れた。
「まあ、おいしいパンでございますこと。オホホホホっつ! ゴホ」
(ほら、言わんこっちゃない!)
むせた妹を白い目で見ていると誰かがヒナへとお茶を差し出した。
どうしたらそんな綺麗なお色でお茶を出せるのかと問いたくなるような見事な紅色の紅茶からはすばらしい香りがした。
「ありがとうございます、聖斗さん」
けれどヒナは何かを思い出したのか、口をあけたまま優菜へと顔を向けた。
「私、なんか聖斗さんにとんでもないこと言った気がする」
「むっつりすけべ、私は安い女じゃないよべーだ」
優菜が言って見せるとヒナは困ったようにお茶を受け取り、何度も何度も頭を下げた。
「そ、そんなこと本当に思っているわけではありませんし」
「いいえ、どこかにそう思われる何かがあったのかもしれません」
全く表情を崩すことない騎士団長はそういうと今までの悲嘆から卒業し、娘を見守る教皇のために新しいお茶を入れることにしたようだった。
どこか和んだ空気に魔央の声が入ってきた。
「さてと、明日、今回のことについて、前魔法騎士団長魔宗から説明があります。教皇様、国王陛下、お怒りをぶつけられるのは明日までお待ち下さいませ。あと、優菜」
「あ、はい兄さん」
何故か改まった顔をする兄さんに優菜は緊張した。
すると兄さんは満面の笑みを浮かべてくれた。
「ようこそ、紗伊那へ」
その隣でヒナも手を差し伸べてくれた。
「いらっしゃい。紗伊那へようこそ」
優菜はその手をとった。
妙に恥ずかしくなったが、嬉しかった。
「よろしくおねがいします」