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第20章:見えない距離、確かな温度

第二十章:見えない距離、確かな温度




駅のホームで電車を待つ桜は、風に揺れる髪を押さえ足元を見つめた。


冷たい風を感じつつ、心は熱く高鳴る。

電車が遅れているのか。空いたホームに響く誰かの足音が寂しさを増す。


その時、iPhoneが震えDiscordの通知が表示された。

画面を開くと、隆平さんからの一言が目に飛び込む。


「次はいつ会おうか?」


その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。

さっきまで隣にいた隆平さんからの言葉に鼓動が早まる。


本気なのかもしれない。


本当に【桜】と付き合おうとしてくれているのかもしれない。


ベッドで交わした会話がよみがえる。


「池袋のサンシャイン水族館、2人で行ってみたいね」


その言葉は、優しい夢のようだった。


でも桜には現実とは思えなかった。

人を信じることがずっと怖かった。

優しくされれば、されるほど嘘に感じた。


一度だって信じきれたことなどなかった。


隆平さんの囁いた言葉も、ただのピロートークだと思い込もうとしていた。


でも、このメッセージは違う。

目を合わせて言われたわけじゃない。触れられたわけでもない。


なのに、iPhoneの小さな文字に隆平さんの声が重なる。


「次はいつ会おうか?」


“次”があると思ってくれている。

“また会いたい”と思ってくれている。

その事実が、桜の心をそっと溶かした。


本当の自分を見せたら、嫌われると思っていた。

年齢も体のことも家庭のことも。すべてをさらけ出す勇気がなかった。


けれど隆平さんは、そのすべてを見ようとしてくれる。


桜はiPhoneを握りしめ、返信を打ち始めた。


「うん私も行きたい。池袋の水族館楽しみにしてるね」


送信ボタンを押す指が少し震えた。

でもその震えは恐れではなく、希望が混じっていた。

すぐに隆平さんからの返信が届く。


「楽しみにしてるよ」


たったそれだけの言葉が、桜の心に灯をともした。


あの時間が夢なんかじゃなかった。今なら信じられる。


【でも信じるのはまだ怖い】


電車が到着し、扉がゆっくり開いた。

駅員がスロープを渡してくれる。


桜はひと呼吸おいて車内に入った。

目を閉じ、隆平さんと見た街の風景を思い出す。


静かで少し切なく、それでいて幸せだった時間。


次に会える日まで、自分を少し好きになれたらいい。


そう思いながら、電車の揺れに身を預けた。


電車の揺れが心地よく桜は目を閉じた。


さっきまで隆平さんが隣にいた。その余韻がまだ体に残る。

唇に残るキスの感触。手のひらのぬくもり。ベッドで交わした言葉。


どれも夢のようで、確かに現実だった。

iPhoneを取り出し、ゆっくりメッセージを打ち始める。


心にずっとあった言葉。

直接では言えなかったこと。


「お金振り込んだからね」


その一文で指先が震えた。

彼の苦しみを自分も引き受けたい。


「半分には足りないけど、貴方の苦しみを背負うから」


送信ボタンを押すと、胸の奥がじんわり熱くなった。

不安も迷いも愛情も、すべてその短い文章に込めた。


「お金」という形しか取れなかった不器用さに、少し恥ずかしさもあった。


でもそれでよかった。


今の桜にできる、精一杯の優しさだったから。

iPhoneを膝に置き、夜の街へ視線を向けた。


街は夜の帳に包まれていた。

ビルの窓の明かりが、星のように瞬く。

遠くのビル群を見つめ、桜はふと微笑んだ。


隆平さんの家はあの街のどこにもない。

隣の県からわざわざ会いに来てくれた。


それだけで、隆平さんの気持ちは十分に伝わっていた。

“会いに来てくれた”という行動がどれほど重いか。

距離も時間も、心の痛みも超えて彼は来てくれた。


「ひとりで抱えないで。私にも少し分けてよ」


そう言いたかっただけ。

隆平さんが涙を流した夜を思い出す。

過去の傷を打ち明けてくれた、あの震える声。

あの時、ぎゅっと抱きしめたかった。


「あなたはひとりじゃない」


と声をかけたかった。

それが今少し遅れて形になっただけ。

隆平さんが、少しでも楽になるならそれでいい。


その時iPhoneが震えた。

画面を見ると、隆平さんからのメッセージが届く。


「直接お礼を言いたかった。ありがとう」


短い文だった。

でもその言葉に、彼の気持ちがぎゅっと詰まっていた。


“直接”と言ってくれたことが、何より嬉しかった。

ちゃんと目を見て伝えたかったのだろう。


今はそれが叶わなくても、隆平さんの心はここにある。


桜はiPhoneを胸にそっと抱きしめた。

伝わった。

届いた。

それだけで、胸がいっぱいになった。


「…また会えるよね」


次に会う日が少し待ち遠しくなった。


家に帰り玄関を開けると、いつもの匂いが迎えた。

柔らかい照明。生活の音。安心する空気。


でも今日はそれが遠く感じた。


「ただいま」


奥の部屋から小さく「おかえり」と返ってきた。

すぐ後に、ゲームの効果音とBGMが聞こえる。

いつも通り。何も変わらない日常。


「友人とお茶してきた」


そう言った嘘を、夫は疑わずに受け取った。


何年も触れ合っていない。


この身体のこと心のこと。もう関心がないのだろう。


まさか、自分の妻が男と会っていたなんて。

しかも、その男にお金まで渡しているなんて。

そんな現実は想像の外にあるのだろう。


【車椅子の女が恋なんて】


その“非常識”を夫は知らないままでいる。


桜は静かに息を吐いた。


罪悪感と胸に残るぬくもり。何も変わらない現実。

それらが混ざり合い胸の奥がじんわり痛んだ。


触れられた記憶が、指先に灯っている。

目を閉じると、寄り添ったベッドの小さな言葉や指先の優しさが蘇る。


ふと画面に通知が浮かんだ。

Discordからの隆平さんからのメッセージ。


「今日の桜をとても愛しく感じていたよ」


その一行に、胸の奥がじんわり熱くなる。

「愛しい」なんて言葉をもらうのはいつぶりだろう。


優しさでも思いやりでもなく、身体でもなく。


ちゃんと「愛しさ」として抱きしめられたことがたまらなく嬉しかった。


桜は、指で画面をなぞり短く返事を打った。


「ありがとう。私も…ずっと幸せだったよ」


本当はもっと言いたいことがあった。

でも今は、隆平さんの言葉を胸に眠りたかった。

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