第七十六話 私の音楽
突然与えらえて自由に私は混乱する。
(どうすればいいの……)
晴人君と一緒に弾くのか、それとも潔くここから退場をするのか、それとも何も選択しないで傍観するべきなのか、分からない。
(逃げればいいじゃん)
姿の見えない真っ黒な私が囁く。
(すべて放り投げて逃げよう。もう無理な戦いをする必要ないよ)
真っ暗な私が踏み出そうとした私の手を掴み、語りかける。
(あれは才能だよ。どれだけ努力しても届かないし、一瞬で追い抜かされる。痛感して折れたじゃない)
真っ黒な私は目を背けていた辛い現実を突きつける。
ドロドロとした感情が私の体の全体を駆け巡り、気を抜いたら力が入らなくなりそうになる。
(もう必要以上に頑張ったよ。休もう。休んだって誰も怒らない。怒れるはずがない。才能に抗い続けろなんて無理だもん。傷つくだけの道を歩み続ける必要なんてない)
違う……違う。
(何が違うの?私は今苦しんでいる。今すぐ辞めたいと思ってる)
そんなこと思ってない。
(思ってるよ。気を付けてないと力が抜けて座り込みそうじゃん!)
これは……違うの。
私は音楽が楽しくて……やってるの。
(楽しい?どこが楽しいの?ピアノを弾き始めて辛い事ばかりじゃん。友達は少なくなり、辛い練習ばかり、クラスからもイジメられ、この道に私を引き込んだ愛佳ちゃんは絶望を与えて一人何処かに消えたじゃん!)
愛佳ちゃんは悪くないの……。
(悪くない?今の自分の現状を考えてみてよ。クラスでは孤立し、助けようと動いて傷ついてるじゃん!そして今も私は傷ついてる!みんなバンドの足を引っ張る私の事を邪魔ものだと、悪者だと見てる!いなくなればいいって見てる!)
仕方ないことだよ、私の実力がないから。
私が悪いんだよ。
(そう、私が悪くなる。この道を歩み続ける限り、私が悪くなる。だって実力がないから。才能もないから。だから諦めよ。潔くいなくなろうよ。そうすればみんなが喜ぶ。私が悪いことにはならない。私が傷つくことはない。みんなハッピーだよ)
でも、それだと愛佳ちゃんが……。
(私には何もできないよ。私と愛佳ちゃんでどれだけ違うと思っているの。愛佳ちゃんは万能の天才!大人でも敵わないほどの才能を持っているの。私と愛佳ちゃんは同じ次元の人じゃないの!あの日分かったはずだよ!私には一生頑張っても届かないって!)
その言葉に涙がこぼれそうになる。
私が必死に頑張っても頑張っても、愛佳ちゃんに届く未来が見えなかった。
私と愛佳ちゃんは違う。
愛佳ちゃんは私よりずっとずっとすごい人なのだ。
(そう、愛佳ちゃんは凄い人なんだよ。きっと一人で何とかするよ!だからさ、諦めよう。傷つくのはこれで最後、もうピアノをやめよう)
そうしてボロボロの姿の私が手を差し伸べる。
あの手を取れば私は楽に……。
もう、傷つくことも苦しむことも、一人でいることも、罪悪感で締め付けられることも、この絶望もなくなるんだ。
そう思うと体が軽くなる。
諦めよう。
そして楽になろう。
私は差し伸べられた手を取ろうとする。
『友梨ちゃんの演奏とても素敵だわ。いつまでも聞いていたいわね』
手がピタリと止まる。
その言葉を言われたのはまだピアノを始めて間もない頃だった。
「それは言い過ぎだよ、愛佳ちゃん。まだ、音の場所すら満足に覚えてないんだよ。音楽すらなっていないよ」
音程もどこを弾けばいいのかも分からなかった。試しに弾いた曲は散々たるものだった。それでも愛佳ちゃんは非常に嬉しそうな表情をして聞いていた。
「今の技量だけで見るなら確かに聞けるものじゃないわね」
「あはは……」
愛佳ちゃんのストレートな言葉に私は致命傷を喰らう。
私から言ったことでも、こうもド直球に言われるとキツイものがある。
「だけど、そんなことはどうでもいいの。後から身に着けばいいから。」
「なら、どうして素敵だって、いつまでも聞いていた言ってくれるの?」
「とても楽しそうにやっているからよ」
そう言って愛佳ちゃんは私の隣に座る。
「友梨ちゃんが奏でる音はどれも元気で聞くだけで、こちらも明るい気持ちにさせてくれる」
とても穏やかな表情をしながら愛佳ちゃんは静かにピアノを弾き始める。
「確かに上手な演奏は人に感動を与えてくれる。だけど、心がワクワクするような明るく照らされるような気持ちにはならない」
愛佳ちゃんは何処か遠くの人を見るような表情をする。
「人の心を動かせるのはいつだって、人の気持ちだけだと思うの。上手いだけでは人は動かない」
その言葉には重みがあった。
「みんな上手くやれることを注目するけど、私は気持ちを大切にしたい。だから、私は友梨ちゃんの演奏が大好きだわ。上手どうこうに囚われない、楽しそうに弾く友梨ちゃんの演奏が大好き」
その時の愛佳ちゃんは何処までも楽しそうな表情だった。
「愛佳ちゃん……」
涙がこぼれる。
それは悲痛の涙ではなかった。
(どうしたの、早く手を取りなよ。諦めようよ。楽になろうよ)
ボロボロな私は手を取るように促す。
だけど、私は手を引いた。
(何をしているの!!どうして手を取らないの!!もう私は限界なんだよ!)
ボロボロな私は叫ぶ。
そんなボロボロな私を優しく抱く。
(何を……するの)
「ごめんね、辛い思いをさせて」
(……)
「とてもキツかったよね。逃げたかったよね」
私は温めるように優しく包み込む。
「それでもここまで折れなくてありがとう。諦めてくれなくてありがとう。最後まで戦ってくれてありがとう」
今できる精一杯の感謝を伝える。
「あなたがいなかったらここまで来れなかった。思い出すことができなかった」
どんなに辛いしくて泣きたい時があったとしても、火が消えることがなかった。
「ありがとう。音楽を好きでいて続けてくれて、お陰で私は音楽と向き合える。好きな気持ちになれる」
そうして私は、音楽が好きだった私に最高の笑顔を見せる。
「さあ、一緒に楽しもう!あの時のように上手い下手関係なく純粋に音楽を楽しもう」
(うん!)
もう一人の私は最高の笑顔をしていなくなる。
「ありがとう。そして見ててね。最高に楽しんであげるから」
もう迷わない。
私の音楽を見つけたから。
そうして意識はライブの方に向く。
私の周りにあった霧が晴れたように、様々なものが見えてくる。
(みんな楽しそう)
どこまでも盛り上がっていた。
観客も広さんも西村さんも楽しそうにしている。
だけど、一人だけ楽しんでいない。
一人だけ必死に弾いていた。
私を守ってライブを成功させようと晴人君は必死に弾いていた。
「私のせいで迷惑をかけてごめんね」
晴人君には聞こえないように謝罪する。
「私のためにここまでしてくれてありがとう」
そして感謝する。
「最高に楽しませてあげる」
そうして私は晴人君の隣に向かう。
晴人君のリベンジマッチをするために。




