百物語 其の5
ボウと炎がさらに近くの漫画に燃え移る。
「まず…い…」
景君が声を出すが、彼以外は未だに声はおろか指先一つ動かすことができない。
火花が舞う度にパチパチと子気味の良い音が聞こえる。
先程の下卑た笑い声は今ではゲラゲラと大きな笑い声に変わっている。
「ぎぎ…んぎ…ぐ」
景君が歯を食いしばり必死で身体を動かそうとしているのが分かる。
当然私も、いや私含む全員が身体中に力を込めている……いるのだが、長年連れ添ったはずの身体はまるで言う事を聞いてくれる気配が無い。
せいぜい視線をキョロキョロと動かす事ができる程度だ。
金縛りを解く方法としては、深呼吸をして、指を1本ずつ動かすように意識する…と言われているがそんなものは本物の金縛りの前では全く意味の無いものだとここに記しておこう。
「あ゛ああ!」
景君がそう叫んだかと思うとブバッと勢いよく鼻血を吹き出し……片膝をついた状態で身体を起こす。
凄い!凄いぞ景君!しかしそれ以上は動かないのかボタボタと鼻血垂らしたまま停止してしまう。
「ぐぅうう…」
血走った目はまるで獣のように見開かれており、口の端からは血の混じった泡が溢れてい
た。
「ぶちょ…あとは…おねが…」
そう言った景君が再度鼻血を吹き出したかと思うと、そのままヒカル君とタク君に向かって飛び込む。
そのまま2人をドンと炎の回っていない部屋の隅へ押し飛ばし、更に上から抱え込むように、覆いかぶさる。
そこで完全に景君の動きが止まる、意識を失ったのだろう。
ヒカル君とタク君はボロボロと涙を流しながら景君を見つめている。
「………」
千影君と目が合う。
我々の仲間があそこまで頑張ってくれたと言うのに我々がこのまま何もしないでいいわけがない。
アイコンタクトなんてものが本当に出来ているかは分からないが、私は千影君に向かって思い切り目を見開く。
景君が示してくれたのだ、根性だ、金縛りは気合いで解けるのだと!
「………!!!」
頭の血管が千切れそうな程に全身に力を入れる。
勿論こんな時でも無い限り決して真似してはいけない。
頭の血管が切れると、脳出血や、くも膜下出を起こし脳神経にとって甚大な被害を及ぼしかねない。
だが今は成り行き上仕方無し、そんな事は言ってられない、グズグズしているとこんがり明日のニュースを飾ってしまう。
「ぁ…あ…」
隣からか細い声が聞こえた。
小さく掻き消えてしまいそうな声ではあったが、千影君の物に間違いなかった。
ただその小さな声を出すだけでも彼女に大きな負荷がかかっている事は、充血した目や浮き出た血管が語っていた。
かくいう私はと言うと…残念ながら全くもって…動くような箇所は………いや…なんとか1箇所…右手の人差し指だけなら動かす事が出来るようだった。
「ぶちょ…」
縋るような目で千影君が視線を投げかけてくる。
我々がこうしている間にも、部屋の炎はクッションに、ソファーに、その赤を広げて行く。
明らかに吸引してはいけない臭いの煙を吸い込み、嘔吐感が込み上げる。
何ができるだろうか、私の指一本と千影君の小さな声…。
「………!」
私は視線で私の指を見るように誘導する。
察しのいい千影君には十分伝わったようで、私の指を注視してくれているのが分かる。
人差し指を伸ばす、曲げる、再度伸ばす。
曲げた時には出来るだけ親指の先につけるよう意識する。
その動きを1セットにして、何度か繰り返す。
私に出来る事がこれだけなのが歯痒すぎるが、今は出来る事をやるしかない。
私の意図する事が伝わったのか千影君が小さい声で呟き出す。
「こ……れ……」
パキンと窓が割れ、外から風が吹き込む。
新鮮な酸素を取り込んだ事で炎の勢いが急速に増すのが分かる。
何者かの笑い声はもう聞こえない。
ただ炎のゴウゴウという唸りが聞こえるばかりだ。
「……」
これだけの炎、誰かが通報していてもおかしくないが、もしもてけてけやきさらぎ駅の様な向こう側にいる場合…我々が焼け焦げるまでこの火事が認知される事は無いように思う。
動け!景君が出来たのだ、私に出来ないはずがない。
身体を倒す事ができればそれだけでも炎から千影くんを守る壁になれる。
「おかぁ…さ……」
ジリジリと肌を焼く程の熱気が迫る中、それでも千影君は真っ直ぐに前を向きながら必死で小さな声を紡ぐ。
「お…まえ…」
ボウと私の顔の前に炎が上がり、前髪の焦げる臭いが漂う。
「これ…で…」
バンッと何かが爆ぜる音と共に、千影君の言葉が響く。
「百一話目を終わりますっ!!」




