SIRAN end
「どうしたん、のんのんちゃん?」
慌てて涙をぬぐい、エプロンを広げる。
「あ、いえいえ…あの、ゴミ、入っちゃって…」
店長は、そうと相槌を打って点検ファイルを手に取る。
「あぁ、あたしが手が空かないから、のんのんちゃんに残業させたのね。
――水村ちゃんといえばさぁ」
びくっと肩が動く。
店長は気付かないのか、そのまま続ける。
「…異動、早まってね。
まぁ今、本部から電話受けてたんだけど、日曜だって。
あと二日しかこの店にいられなくなっちゃった。
急すぎるから荷物とかは追々まとめていくだろうけど、
実際この店舗で働けるのは、あと二日」
耳を疑う。
困ったなぁ人足んないよ、と店長はぼやいた。
「あと二日って…」
そんなの、早すぎる。
だって、私まだ…
――副店長のこと、こんなに好きのままだ。
そして店長はまるで何気なく、言う。
「あと二日で、最後だね。のんのんちゃん」
ぱん、とファイルを閉じる音。接客へと戻る店長の後ろ姿。
これで最後。
戻ってきた私の顔を見ても、副店長は何も言わなかった。
普通に接して、普通に笑って、いつも通りの副店長。
私の気持ちを知らない、知らないまま…。
「ありがとう、のんのん」
店舗の裏口に再び戻ってきても、私の心はまだ揺れている。
どうしよう、今。いや、でも…。
そんなもどかしい気持ちで、副店長の背中を眺めていた。
「今ね、店長に怒られちゃって。
上がった子に残業させるなって、無理なことを言うよね…。
だから罰だってさ」
私の好きな、あの笑顔。手には配達ワゴンのキーを持って。
「ついでに送ってくよ、狭い配達の車で悪いけど」
いつもならすごく嬉しいこの言葉なのに。
この瞬間、私は本当に最後なのだと実感して、
―――また泣きそうになった。
しばらくの沈黙の後、副店長は異動のことを口にした。
「俺ね、のんのんとちゃんと話せたの最近じゃない。
だからさ、ちょっと寂しくてね。正直な話、もう少し残りたかった」
仕方ないけどねと苦笑して、ハンドルを切る。
車内が、緩やかに傾く。
私の頬に、涙が落ちていった。
「わっ! ご・ごめん、湿っぽかったね」
私のアパートの前で、車は止まる。
泣いている私に気づいて、さすがに副店長は慌てていた。
「大丈夫、都内って言ってもそんな遠くない距離だからさ。
会おうと思えば会えるし、また顔出しに行くから」
だから泣かないで。副店長は私をそう慰めた。
優しい人、だから…優しいままでいてほしい。
私の気持ちに気付いたら、このままではいてくれない。
―――だから。
「そう、ですよね。うん、ごめんなさい。
また会いに行きます」
私は笑ってみせた、泣き笑いかもしれないけど。
ばたん、とドアが閉まる。お礼を言って、車を去る。
「のんのん、」
副店長の声に、私は振り向いた。
「ばいばい。頑張ってね」
ゆっくりと発信していく車。
私の心の中の時間は、ゆっくりと動いていく。
ほんとうに、最後。
―――ねぇ、…いいの?
足が動いた。コンクリートを駆ける。
生暖かい空気が、頬に当たる。
この辺りの配達なら、そう遠くには行かないはず。
車がすぐそこの交差点の角を曲がる。
私も交差点を目指して走った。
自分の息遣いが荒い。
走っていて、頭の中は真っ白。浮かぶのはこの感情だけ。
…好き。
あなたを好き、ただその気持ちだけが足を動かす。
叶わなくても、受け入れられなくても。
馬鹿みたいに。
嫌いになんか、なれない。
角を曲がった先の玄関先に止まった、配達のワゴン。
走り寄っていくと、玄関を出ていく副店長の横顔が見えた。
私に気づかないで、副店長はワゴンのトランクを閉めて、運転席のドアを開ける。
「副店長っ!」
驚いた彼の顔、どうしたのと覗き込む彼の声。
すべて聴こえない。
がしっと、彼の袖をつかむ。
「私、…っ」
―――この一瞬を、永く感じた。
「好きなんです」
乾く口、つばを飲み込む。
「毎日諦めても、どんなに諦めても
やっぱり副店長のこと、好きです。
嫌われても、引かれても、ごめんなさい、どうしてもっ
副店長のこと、好きなんです……」
ごめんなさい。
最後の方は、泣いてしまった。
泣かないように、頑張ったけど。
…怖い。
気持ちを伝えて、何を言われるのか。
この恋が、どうなるのか。
すごく今、怖い。
「ずっと、戦ってたんだね」
優しい、声。と、彼の手。
私の頭を静かに撫でていた。
「ありがとう、俺のことをそんなに好きでいてくれて」
あげた顔の先には、いつもと同じ。
いつもよりも優しい、彼の眼差しがあった。
「俺は応えることはできないけど、
のんのんの気持ち、ちゃんと伝わったよ。
…ありがとう」
せき込むように、泣いてしまった。
優しい感触が私の涙をさらに誘った。
―――好き、本当に大好き。
私は、この人を好きになって本当に良かった。
泣き続ける私に、副店長はそれ以上何も言わず、ただずっと頭を撫でていてくれた。
いつまでも、優しいままで。
それから一年たった今、いつもの店先で
紫蘭のつぼみが膨らんでいくのを見て。
このつぼみが開いて、朝焼けのような色の花が咲くのを、私はずっと楽しみにしている。
あの優しい微笑みが、まるでこの花みたいだと思うから。
END




