始まり
「いいかぁ。ここにYを代入することによってぇ…
黒板に先生が数式を書き込みながら説明している。しかし、窓際に座っている男は窓の外で熱戦が繰り広げられているサッカーを見ることに夢中で先生の話は一切入ってこない。
「よってぇ、ここの答えはこうなるわけだぁ。
ん? おい、瑞泉。今のところ聞いていたのかぁ?」
瑞泉と呼ばれた男は自分の名前が呼ばれたことにより、意識が窓の外から教室へと戻って来た。だが、話を聞いているはずもないのでキョトンとした顔をして先生の顔を見た。
「おい、成績がいいからと言ってあまり調子に乗るなよぉ。内申点が後々評価に響いてくるのだぞぉ。
いいかぁ、だいたい今の若い奴らときたら―
また始まった。数学の牛島先生のお得意の説教だ。これが始まると下手すれば授業終了まで説教が止む事が無い。
瑞泉と呼ばれた男は時計をチラリと見た。授業終了まで残り十分を切っていた。この様子だと残り時間は牛島先生の説教で終わりそうだ。牛島先生は次から次へと今どきの若い者に向けて嫌味ったらしくネチネチと小言を履いていた。よくもまぁ、こんなにも嫌味を思いつくものだと毎回感心するばかりである。
流石に三分も、過ぎると説教と言う名の小言を聞くのも飽きてくるので瑞泉はノートを開き、落書きを始めた。
「私が学生の頃は先生方にそう言った態度は―
牛島先生が話を続けようとした時、授業終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「ん? もうそんな時間か。
いいかぁ、お前らぁ、ちゃんとここを勉強してくるんだぞぉ。ここはテストに出すからなぁ」
先生はそう言うと教室から出ていった。瑞泉は先生が出ていったのと同時に体を伸ばし、束の間の休息を睡眠に充てる為、そのまま机に突っ伏した。次の授業は何だったっけ?とか考えながら夢と現実を行ったり来たりしていると誰かが瑞泉を現実世界へと呼び戻した。
「ねぇ! たっくん! 今日の放課後暇かな?」
たっくんって。そんな小学生が呼びそうなあだ名で呼ぶなよ。もう、高校二年生だぞ。しかも、たっくんって呼ばれるような可愛らしい、愛くるしいような容姿はしていない。どちらかと言えばクールな部類に入るのでは?
瑞泉は顔を伏せながら、声を掛けてきた人物に向けて心の中でツッコミを入れた。
「ねぇ! 樹! 起きてるんでしょ?」
名前を呼ばれたが瑞泉は顔を上げようとはしなかった。何故なら話しかけてきた相手が少し面倒くさいという事を知っているからだ。
「ねぇ、…いい加減起きないと、小さい時の秘密、バラしちゃうぞ」
耳元で囁かれた言葉を聞いて、瑞泉は反射的に飛び起きた。
「ほらー、やっぱり起きてた。
ねぇ、今日の放課後、暇かな?」
瑞泉は話しかけてきた相手を見た。髪は肩ぐらいまで伸びており、顔のパーツ全て、かなり整っていると言ってもいい。この学校でもトップクラスに入るであろう美人であることは間違いない。現にうちのクラスの男子だけでなく他のクラス、学年、はたまた別の学校からもファンがいる程、人気だと聞いたことがある。
「放課後? …まぁ、暇だけど」
瑞泉は少し考える仕草を見せて、この目の前に立っている美少女の質問に答えた。
「え、ほんと!? それなら一緒に帰ろうよ!」
わざわざ一緒に帰る約束を取り付ける為に俺を起こしたのか、こいつは。と思ったが、決して口には出さずに「なんで?」と素直に疑問に思ったことを質問した。
「なんでって、だって、お家隣じゃん。
それに、最近たっくん、冷たいから。昔みたいに一緒に帰れば前のたっくんに戻ってくれるかなって、思ってさ」
美少女はニコリと笑って瑞泉を見た。瑞泉は昔からこの笑顔が苦手であった。嫌いと言う意味は含まれておらず、この笑顔を見ると、どうしても断り切れないで苦手だった。だが、あまり一緒に帰るのは乗り気ではない。この美少女と帰ればそれなりの優越感に浸れるのだが、次の日以降、視線や殺気があちらこちらから飛んでくるのだ。まぁ、そんな理由より、一緒に帰りたくない本当の理由がある。
「あっ、あともう一つ話があったの! 昨日の心霊番組見た!?」
始まった。
この美少女のオカルト大好きっぷりには、いつも舌を巻く。それはもう凄い。今どき心霊番組なんて、「合成だ」とか「科学で説明がつく」だとか言われて胡散臭い番組になったのに、この女と来たら、一回話を始めると一日どころか、一週間は止まらずに喋れるのではないかと思うぐらいの勢いで喋るのだ。心霊現象だけでなくUMAやUFO,はたまた神話や妖怪など、のべつ幕なしにそういった類のものを網羅しているのだ。
オカルト話に巻き込まれていい思いをした試しが一度も無い。小学生の頃に、コックリさんをした時なんかは特に酷かった。当時、極度の怖がりであった瑞泉は、その日からしばらく一人でトイレに行くことが出来なくなる程だった。
そのことを思い出した瑞泉はゲンナリして、美少女の話がヒートアップする前に話を止めることにした。
「なぁ、露木。話の続きは放課後でいいんじゃないか? 次の授業も始まりそうだし、それに何よりそこら中からの視線が痛い」
「ん? そうかな? じゃあ、私は教室に戻るね。
ちゃんと、放課後待っててね!」
露木と呼ばれた美少女はそう言うと瑞泉に手を振って自分の教室へと戻っていった。色々な意味で面倒なことになりそうだなとか思いながら次の授業の準備を始めると一人の男が話しかけてきた。
「おい、樹。お前、今、奏さんと何を喋ってたんだよ」
声の主の方に目をやると肌はこんがりと日焼けをした坊主頭の如何にも野球部です。という男が立っていた。
「あぁ、悠か。別に大した用じゃないよ」
話しかけてきた人物は鏑木 悠。野球部所属で一年生の頃から先程の美少女、露木 奏に一目惚れをして、何度も告白をし振られている鋼のメンタルの持ち主だ。
「大した用じゃないって。全く幼馴染は羨ましい限りだぜ。俺なんか、話しかけるだけで精一杯だっていうのに。出来る事なら変わってくれよ!」
鏑木は瑞泉の肩をガッシリと掴んで懇願した。
「痛いって。
俺も出来る事なら変わってやりたいところだってーの」
瑞泉は肩を掴まれた手を払いのけて言った。
「じゃあ、裏神様にお願いしようぜ!」
鏑木は曇りのない笑顔を見せて言った。「裏神様」という聞きなれない単語に瑞泉の耳が反応した。
「なぁ、悠。一体、裏神様ってのはなんなんだ?」
「えっ、お前知らないのかよ。裏神様ってのは―
鏑木が裏神様の話を始めようとした時、授業開始のチャイムが鳴った。
「おっと、わりぃ、チャイム鳴ったから席に戻るわ! 次の授業現文の冴木だろ? あいつ怒ると面倒くさいからよ」
鏑木はそう言って席に戻っていった。
裏神様とは一体何だろうか。名前だけで推測するならば、裏の神様。じゃあ、表の神様とは一体? そもそも神様って実在するのか? 考えれば考えるだけ分からなくなる。授業中、裏神様の事が頭から離れず、気が付けば授業は終わっていた。
現文の授業を終え、昼休みを迎えた。瑞泉は立ち上がり、鏑木の元へと向かった。
「なぁ、悠。さっき言っていた裏神様の話なんだけどさ、一体裏神様ってなんだ?」
「ん? あぁ、裏神様ね。しかし、樹は流行りに疎いよな。いいか、裏神様ってのは―
「おい、悠。杉谷がお前のこと、呼んでたぞ」
鏑木が話をしようとした時、誰かが鏑木の話を遮った。全く、嫌なタイミングだ。瑞泉は言葉を遮った人物を見た。別なクラスの人間なので面識は無いが、風貌からして、鏑木と同じ野球部の人間であることは間違いないだろう。
杉谷から呼ばれたと聞いて鏑木の顔は青ざめていた。
「えっ、マジで? な、なんで? 俺、なんか悪いことしたっけ?」
「そんなこと知らねぇよ。とりあえず早く行っといた方がいいぜ」
野球部員はそう伝えると足早に去っていった。瑞泉は鏑木の方をちらりと見ると酷く項垂れている。
「おい、悠。大丈夫か?」
瑞泉の問いかけに小さな声で「大丈夫」と返事をした。とても大丈夫そうには見えないが。
杉谷と言えば野球部の顧問の先生で、この学校で恐いと有名な先生だ。鏑木の鋼のメンタルをもってしても杉谷には太刀打ち出来ないのは鏑木の様子を見れば分かる。
とにかく、これ以上は鏑木から裏神様の話を聞けそうにはないので、瑞泉は自分の席へと戻り、鞄の中からパンを取り出し、昼食を取ることにした。哀愁を漂わせ教室を後にする鏑木の後姿を眺めながらパンを口に入れた。
パンを食べ終え、考え事をしているのだが、どうも裏神様のことが脳裏にちらついて離れない。
「あっ、そうだ」
瑞泉は何かを思い出したかのようにスマホを鞄から取り出した。
「こんな便利な物の存在を忘れるなんて、全く俺としたことが」
瑞泉はそう呟きながら検索エンジンを開き、裏神様と入力して検索ボタンを押した。色々探してみるが、どれもこれもいまいち、パッとしない項目ばかりだった。
「うーん、こうなると、やっぱり悠が帰ってきたら聞くしかないか」
瑞泉はスマホを鞄にしまい、昼休みの残り時間は睡眠に充てることにした。