珈琲占い 1
その少年がとある公園の横を通ったとき、公園の中の騒ぎが耳に入った。少年はよく見ようと中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
小学生が数人、木に向かって何かを投げていた。少年の視線は小学生たちが投げているもの━━小石というには少し大きな石━━の軌道から標的にしているものを探した。
そして、木に引っ掛かっている黄色い帽子に気がついた。
黄色い帽子はこの辺の小学生が通学時に被るもので、少年━━真咲も五年前は被っていた。木にひっかかっている帽子は、全体につばが広いもので、女児用のそれと分かった。
男児たちと一緒に女児がひとりだけ混ざっている。少女は心配そうにそれを見上げていた。少女は帽子を被っておらず、どうやらあの帽子はあの女の子のものであるらしい。
少年たちは少女のために帽子を取ろうとしているところなのだろう。
期末考査のためのテスト準備期間として、生徒会活動および部活動は禁止。というわけで、高校生の下校時間に小学生の下校時間が重なったとしても不自然ではないのだが……。
塾の時間までにはまだ余裕がある。
時計を確認した真咲は、公園に足を踏み入れた。
少年たちは手段と目的が入れ替わったように、小石を投げている。真咲は心配そうに帽子を見上げている少女に声をかけた。
「どうしたの」
少女は、はっとしたように振り向いて真咲を見た。
真咲は同時にしまったと後悔した。小さい女の子に声をかけて、周りからロリコンだと思われるのではないかと思ったのだ。
読書が好きで図書委員をやっている真咲は、科学部所属。人見知りする性格で前髪はつい伸ばしてしまう。そんな自分は他人から見れば暗くて 地味で、オタクだと思われているのではないかと思っている。確かにある意味オタクではあるのかもしれない。小学生の頃に行った科学館でみた科学ショーに心を奪われ年間パスを誕生日に買ってもらい通いつめた。夏休み子どもラジオ相談には毎年質問を応募したし、今も魅せられて続けている。志望は国立の理工学部だ。いや、今はそんなことはどうでもいい。
真咲の心配をよそに、少女は帽子を指差して言った。
「帽子が木にひっかかって取れないんです」
随分しっかりした物言いをするんだな、と真咲は思った。それから、先ほど自分が視認した枝を見る。小学生低学年らしい彼らには手が届かないが、真咲ならジャンプすればなんとか手が届きそうだと思った。
少年たちの輪に入っていくと、少年たちは石を投げるのをやめ、知らないお兄さんが何をするのかと一挙一動を見守った。
真咲は持っていた通学かばんを地面に置き、目標を見定めて飛び上がった。指に黄色いつばがひっかかる。
一度では無理でも何度かすれば━━。そう真咲が思いながら着地をした足元に少年たちが投げた石が転がっていた。
「いてっ」
着地するときに石を踏んでしまい、変な具合に足をひねったおかげでどしんと尻餅をついた。かなり格好が悪い。真咲は顔を真っ赤にした。
指でひっかけたのが風の具合で枝から外れたのか、黄色い女児帽子が落ちてきた。少年たちはわっと歓声をあげた。
女児帽子を被った少女は、まだ座り込んでいる真咲に近付いてにっこり笑って頭を下げた。
「お兄さん、ありがとうございました」
「はは……良かったね」
少女は気遣わしげな様子で真咲に尋ねた。
「あの……大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
真咲はずれた眼鏡を直しつつ、立ち上がろうとした。足首に変な痛みがある。
小学生に心配させられないと平気な顔をしようとするが、痛みにひきつってしまったのが分かったのだろう。
「あの、お母さんがやってるお店が近くにあるんです」
お店、とはどういった業種のお店なのか。真咲は戸惑った。
「お兄ちゃんもいるし、あの、手当てとか」
「はは……気にしなくていいよ」
「ちゃんとお礼しないとお母さんに怒られちゃうから」
自分で転けたのだから、あまりえぐらないで欲しいと真咲は顔を隠したくなった。
高校生の自分が小学生の女の子に気遣われるという絵面が情けない。
「お母さんのお店って?」
なんとか立ち上がった真咲は挫いた足を上げて片足で立った。このまま片足で家まで飛んで帰るのは無理があるな、と真咲は思う。
連絡手段はあるのだが、真咲の親は共働きで迎えに来てもらうのは無理そうだ。
「そじゃっていうスイーツカフェなの」
知ってる? と少女が小首を傾げた。
「知ってるよ」
この界隈でちょっと名の知られているケーキ屋さんの隣にあるカフェだ。豆腐を使ったヘルシーなスイーツが女性に受けている。真咲の母もここのお豆腐チーズケーキやお豆腐ムースが好きでよく買ってくる。
へえ、あそこの子なんだ。
知っているお店の名前が出てきたことに安心した真咲は、手当てやお礼はともかく、ちょっとだけ休ませてもらおうと少女の提案を受け入れることにした。
通学かばんを肩にかけ、ひょこひょこと飛びながら進む。かばんが重いのと、普段体育のときしか身体を動かさないのもあって、真咲の基礎体力は運動部のそれと比べてあまりない。
軸足になっている太腿はすぐに疲弊しし、前に進めなくなってきた。
カフェまで案内してくれるつもりなのか、少女ほか少年たちも真咲を取り囲み、進むのをやめた真咲を見上げていた。
ちょっと休憩、と答えようとして、真咲は同じ道路の上に同じ学校の先輩たちの姿を見つけた。短いスカート、指定のシャツという没個性な制服姿の先輩たちの集団のなかで、囲まれるように中心にいる先輩に自然と真咲の視線が吸い寄せられる。
ふわふわと揺れる栗色のロングヘアー、ぱっちりしたアーモンド型の目をしている彼女は、同じくらいの身長の取り巻きから頭ひとつ飛び出していた。女子としては高身長なほうだろう。
華やかな先輩たちの集団に比べて、こちらは小学生に取り囲まれた地味な男。しかも木にひっかかった帽子さえまともに取れず、勝手に怪我をした。恥ずかしい。真咲は顔をあげられないでいた。
「どうかしたの?」
真咲の視界に白いスニーカーを履いた足が入り込んだ。
学校の指定の通学靴は革靴だけれども、運動部に所属している三年生はスニーカーを履いてもいいという暗黙ルールがあることは真咲も聞いていた。
はっとして顔を上げると、目線の少し下にさっきの先輩が真咲を見上げていた。男子の中でも身長の高い方の真咲より少し低いくらいということはやはり女子のなかでは抜きん出ての高身長だろう。さっきまで彼女を取り囲んでいた先輩たちは、寄り集まったままでこちらを観察するように見ている。
真咲が片足を上げたままの姿であることに何か気付いたのか、
「家近いの? 肩貸すね」
と鞄を真咲から奪い、真咲の腕を肩にかけた。先輩との距離がゼロになり、甘い匂いがする。
「あの、あの……どうして」
狼狽した真咲に先輩は微笑む。取り巻きの先輩たちが、不快そうに、少しだけ心配そうに遠巻きにしている。
「変な立ち方をしているから。足をひねったのかなって」
ウンウンと小学生たちが肯首する。
「冷やして固定すればいいよ。あんまり腫れるようなら病院行った方がいいけど。で、家はどっち?」
「あ、いえ……あの」
しどろもどろになる真咲に代わって、女子小学生が前に出て事情を説明した。
「sojaか。私は行ったことがないけど……近いの?」
「ここから歩いて10分くらいです」
「10分っていうと駅の方?」
「ううん、神社の近く」
「そっちか。で、君の家はそれより遠いのね」
ようやく自分に話しかけられたと分かった真咲は、裏返った声ではいと返事をした。
「じゃあ行こうか。ゆっくりでいいからね。もっと体重預けてもいいから。ごめんね、クレープはまた今度。この人送っていくから」
前半は真咲へ、後半は一緒に下校していた友達へと声をかけた先輩は、真咲に合わせてゆっくりと歩き始めた。
***
「なんだか変なものが流行り出しましたね」
仕事中らしく敬語を使えるようになった茜は、珈琲を淹れている伊織にこそっと囁いた。
伊織はチラッと店内の客席を見回し、茜の行った『流行っている変なもの』を確認すると、また何食わぬ顔でドリップ作業へと戻った。反応が薄いことに茜がわずかに頬を膨らませるのを見て伊織は口角を上げた。
「別にいいんじゃないかな」
流行っている変なものというのは、一種の占いのようなものらしい。
以前、茜はこの店で彼氏に別れ話をされた。彼氏は少し前から茜の友人と二股をかけており、はっきり心変わりを宣告されたわけだ。
その後、伊織のおかげで失恋の痛手を乗り越えた茜だったが、天文部の活動で行ったプラネタリウムで、疎遠になっていた利恵と顔を合わせてしまい、嫌いな茜に嫌がらせ目的で彼氏を奪ったことを聞かされた。
その時、カフェ仕様の伊織が現れ、利恵の前で茜と付き合っていると嘘をいい、利恵を退かせた。
伊織の嘘に気が動転した茜に伊織は「本当のことにすればいい」と分かりにくい告白を返した。
なんだかんだ付き合うことになった茜と伊織だが、学校では地味な天文オタクに擬態しているため、利恵はカフェ仕様の伊織とは別人だと思い込んでいるらしい。
特にその後利恵からの嫌がらせもないので、茜は相変わらずな学校生活を送っていたのだが、どこからか茜の彼氏はsojaというカフェの店員ということがバレてしまった。
そこからなぜかsojaで飲んだカフェオレのカップをひっくり返して、好きな相手の名前を一分間唱え、カップを戻した底の模様がハートになれば恋が叶うなどという胡散臭い噂というか占いが流行ってしまったようなのだ。
「というわけなんです」
「なにが、というわけなのか分からないけど、少なくとも失恋カフェと呼ばれなくて良かったと思ってるよ」
「でも、ソーサーが」
「洗い物は茜の仕事だね」
「そうなんですよ」
カランと入店を報せるベルが鳴った。茜がドアに目をやると、まず入ってきたのは、黄色い通学帽子を被り、ランドセルを背負った有紗だった。
緊急時以外は下校途中にカフェに寄らないよう約束している有紗が現れたので伊織が作業の手を止めた。しかし、有紗の様子は、例えば不審者に追いかけられたような緊迫感はない。
有紗が支えているドアから続いて入ってきたのは、見覚えのある三年生の女子に肩を貸してもらいながら、片足を庇いながらよたよた入ってきた同級生の姿。
いつぞや科学室で茹で卵を作ろうとしたときに茜に手を貸してくれた男子だ。孵卵の観察をしている卵を使われないよう料理倶楽部に卵を分けてもらうことを提案し、一緒に掛け合ってくれた人だ。
たしか名前は━━。
「真咲━━?」
そう、佐倉真咲。フルネームを聞いたとき、なんて綺麗なイメージの名前なんだろうと思ったのだ。
伊織はドリップしたばかりの珈琲を注いだカップを、指示とともに茜に押し付けると、真咲君の方へと急いで、しかし優雅な足取りで近付いた。
茜は注文品の珈琲をテーブルへ届けると、真咲くんはドア近くの椅子に腰をかけていた。先輩も同じテーブルに向かい合うように座る。
「そうだったんだ。真咲ありがとう。先輩も、友人を助けてくださってありがとうございました」
伊織はテーブルについた二人に頭を下げると、有紗に何かを指示した。有紗はランドセルを背負ったまま、店を出ていった。