見習い天使と大天使
そのまま、紗綾は部室へは行かなかった。今は行きたくなかった。
遅れて行くという話にはなっていたが、連絡もしたくはなかった。
もうどうでもいいとさえ思っていた。
もしかしたら、怒りを覚えていたのかもしれない。
今までずっと服従してきたオカ研への反逆だったのかもしれない。
そんな時に足が向いたのは陸上グラウンドだった。
少しだけ、陸上部の練習をこっそり覗いたら帰ろうと思っていた。
それなのに、香澄に見付かってしまう。
「あれ? 紗綾? どうしたの?」
香澄は首を傾げる。
三年生が引退し、今では香澄が部長だ。
将也の意志を継ぐ彼女を慕う人間は多い。
「えっと、見学……しても大丈夫?」
その、たった一言さえ口にするには躊躇いがあった。
「呼び出しで何か言われたの? オカ研関係で何かあったの?」
「……うん、ちょっと行きたくなくなっちゃって」
香澄にはすぐわかってしまったのだろうが、紗綾は詳しく話すことはできなかった。
話したくないのもあるし、彼女の時間を無駄にしたくもなかった。
すると、香澄はすぐに笑みを浮かべた。
「いいよ、私の勇姿をとくとご覧あれ!」
「ありがとう」
「あいつら来ても絶対に追い払ってあげるから安心して!」
そのままベンチへと半ば強制的に連行される。
迷惑をかけたくないと思うのに、とても彼女が頼もしく感じてしまう。最強の盾を得たような気分だった。
元気に走る香澄を見ていると気分が落ち着いていく。
合間に話しかけてくれる部員達も本当に優しい。
けれど、いつまでもいられないと思っていた。オカ研の人間が下校するのと重なるのはまずい。
そろそろ帰った方がいいかもしれない。
紗綾はそっと立ち上がる。
「あれ、紗綾ちゃん? どうしたの?」
そんな声に振り返れば、彼は不思議そうな表情で立っていた。
「将也先輩……」
紗綾をじっと見て、それから安心させるように優しい表情を見せた。
彼も様子を見に来たのだろうか。時々、そうしていると聞いていたし、放課後は図書室で勉強していることも多いと言っていた。
何というタイミングなのだろうか。香澄が連絡したわけでもないのに不思議なものだった。
「オカ研で、何かあったんだね?」
断定する将也に紗綾は頷く。
何かあったと言うほどではないのかもしれない。
圭斗との問題でしかないのかもしれない。だが、全ては繋がっているのだと思っていた。
オカ研に入った始まりの日から、何もかも全て。
「君は随分頑張ったよ。本当なら、とっくに退部してたと思う。頑張りすぎってくらいかな」
いつでも辞めていいと彼は言った。
紗綾も紗綾なりに考えて部にいたつもりだった。
けれど、今はどうしたらいいかわからない。何もわからなくなってしまった。
「これから、俺と帰らない?」
「え……?」
「田端君と帰る約束してるわけじゃないでしょ? 俺でよければ、話聞くよ」
どこかで期待があったのかもしれない。
彼ならば、話を聞いてくれるのではないかと。
それでも、申し訳なく感じてしまう。
「俺も気分転換がしたいから。君が嫌じゃなければ、ね?」
紗綾は誰かに聞いてほしいという気持ちはあった。だから、ここへ来たのかもしれない。
今すぐに吐き出してしまいたかった。ただ香澄には部活動があり、そうでなくとも何となく相談しにくい。
だが、将也には話せる気がした。
なんて自分はずるいのだろうかと心のどこかでは思いながら。
将也は香澄に声をかけ、それから紗綾を促した。
彼は最近話題だという喫茶店へ連れて行ってくれた。気遣ってか、自分が来たかったのだと言って。
そこで紗綾は圭斗と海斗のことを話した。海斗と将仁のことも含めて。
「なるほど……確かに兄貴が最近元気だと思ってたよ。あの年中くたびれ魔人がすっきりした顔してるなんてそうそう続くことじゃないからね」
自ら捜査に協力するサイキックの存在、それは将仁にもオカ研にもメリットがある。
将仁はわざわざ賄賂を手にオカ研に泣き付かなくて済むし、オカ研は将仁の面倒を見る必要がなくなる。
「でも、その海斗さんって人は何か企んでるって言い方はあれだけど……、まだ何かありそうだね」
将也の言う通りだった。
「単なる兄弟喧嘩にしては不穏な感じだし」
圭斗の憎悪と、海斗の冷たい態度、何か確執があるのは間違いない。あの女性を巡ってのことかもしれないし、そうでないかもしれない。
圭斗が言う暗黒の時期とも関係があるのだろうか。
「先生はこうなることがわかってたと思って間違いないみたいだし……」
海斗がオカ研の関係者だと言ったこと、それと、これまでの嵐の発言から見ても確かだろう。
鈴子の初恋の相手というのも海斗ということになるのだろう。
「俺も黒羽が全く知らないってことはないような気がする。あれでボケだからね……俺も顔覚えてもらうのに、物凄く時間がかかったくらいだから。忘れてるとか、気付いてないとか、そういうことだろうね。知らないフリをするなんて器用なことはできないと思う」
海斗のことなど知らないと十夜は繰り返してきたが、今はそれを信じることもできない。
オカ研の誰も信じることができなくなってしまった。
「問題は、君が巻き込まれているってことだね」
「どうしたらいいか、わからなくなったんです。ずっと、私には何もないって思ってたのに……」
何もわからないのに、抜け出すことができないほど巻き込まれてしまっている。
明らかになった事実を考えたところで、結論として自分はサイキックではないとわかっている。
「君は明日からどうするの?」
問われて紗綾は沈黙した。
考えなければならないとわかっているのに、考えたくないことだった。
誰かが決めてくれれば楽なのに、そういうわけにはいかない。
これは自分の問題であって、自分の頭で考えなければならないはずなのに、果たして本当にそうなのだろうか。
彼らは自分をどう思っているのだろうか。
「どうしたいかは君が決めていいんだよ。誰にも気を遣わなくていい。好きなようにしても、誰も文句は言えない。そんな権利なんてないんだから」
将也は優しい。だから、彼が決めてくれればいいと思ってしまう。それではいけないとわかっているはずなのに。
「君に強力な守護霊がついているということは素晴らしいことだとは思う。俺は本当だと思うよ」
無敵の強運と海斗は言った。
運気は良くならなくとも、身の危険から守ってくれたことには感謝しなければならないと紗綾も思う。
たとえ、姿を見ることも、声を聞くこともなく、存在を感じられる術がないとしても。
「でも、黒羽達はそれを知っていて、利用してたってところがあると部外者の俺から見ても思う。少し距離を取ってもいいんじゃないかな?」
「……部活には行きたくないです」
将也の言葉に促されるように紗綾は答えを出した。
今、ここにいるのが後ろめたいというのもある。
明日、何事もなかったかのようにということもできない。
「そうだね。彼らに会うのは得策じゃないと思う。聞いたところで、ごまかされると思う。君には抵抗する権利がある」
将也は大きく頷く。
まるで、これから二人でオカ研を敵に回す相談をしているかのような気分にさえなる。
「丁度、今は文化祭準備で忙しいからクラスの手伝いをしてみるのもいいかもしれないよ。まあ、それには田端君の協力も必要になるとは思うけど、彼女なら俺が何も言わなくとも、君がお願いしなくともやってくれるだろうね」
香澄がいなければ、紗綾はクラスに溶け込むこともできない。
彼女には本当に感謝している。どんな時でも味方でいてくれた。
そして、将也もそうだ。
「ありがとうございました」
「俺が君の相談に乗るのは当然のことだよ」
将也が微笑む。
十夜が悪魔や魔王などと呼ばれるのに対して彼は大天使だ。
「俺は今でも黒羽と友達になりたいと思ってる。いや、もう友達だと思ってる。でも、それは何でもかんでも許すってことじゃない」
将也は厳しい表情をしていた。
彼は紗綾の味方であり、十夜の味方でもある。
けれど、それは無条件ではない。
「困ったことがあったら、いつでも言って。君を不幸にはしないから」
「大丈夫です。運は良くないですけど、不幸じゃないですから」
それはほとんど反射的に言っていた。
オカ研に入ってから辛い思いもしているが、世の中に転がる不幸に比べれば不幸と言うに値しないと紗綾は思っていた。
今、この状況に陥ってもそう感じる。
「でも、君は今幸せだって言えるかい?」
その質問には答えられなかった。
不幸でないなら、それでいいと思っていた。
幸せというものは、よくわからない。
それからは、ずっと、その言葉が響いていた。




