逢魔が時、悪魔の本性
窓の外は夕暮れ、夕食が作られる良い匂いが台所から漂っている。
それはとても平和な光景だというのに紗綾は少し緊張していた。
膝枕こそしなかったが、圭斗は本当に眠ってしまったようだった。
薄情だとも思うが、連れ回されて疲れてしまったのかもしれない。
壁に寄りかかって目を閉じる彼はどこか無防備にも見え、やはりまだ幼い顔をしている。
もしかしたら……、と思うことはある。
しかし、どうにも彼のことはよくわからなかった。
初めからずっと、今まで彼には振り回され続けている気がした。
十夜や嵐、リアムは無事だろうか。何かが起こってしまう前に早く帰ってきてくれないだろうか。
そう紗綾が思った時、ゴトリと音が響いて紗綾はビクリと体を跳ねさせた。
見れば小さな置物が倒れてしまったらしい。
紗綾は風か何かだとすぐに思ったのだが、善美の様子はどこかおかしい。
「善美ちゃん……?」
あれほど気の強かった善美がひどく脅えている様子だった。
ただ置物が倒れたというだけ、香澄ならば気にも留めないだろう。
だが、紗綾がいくら重ね合わせても彼女は田端香澄ではなく、田中善美なのである。
「な、何かいるよ!」
「今のは風じゃないの?」
「風なんてどこからも入ってこないよ! 窓は閉まってるんだから」
善美の言う通りだった。確かに大きな窓は閉まっている。
どうして、そこまで怖がるのか紗綾にはわからなかった。
たまにあることだと紗綾は思うのだ。どこか別のところに風の流れがあるのかもしれない。
「じゃあ、地震、とか……?」
「地震なんてなかったよ!」
「気付かないような地震だったのかもしれないし……」
紗綾は物が倒れることを安易に霊障と結びつけたりはしない。
今も尚心霊現象は別世界に存在するものであって、自分の世界にはないと思っているのだ。
それはある意味お幸せなことなのかもしれない。
けれど、信じないというわけではない。
たまに世界が交差するのだと解釈するようにしている。
「そんな弱い地震で、あんなのが倒れると思う!?」
「た、倒れない、かも……」
そう言われてしまうと困るのだ。
善美を納得させ、安心させられるだけのものが紗綾にはない。
「ね、ねぇ、本当に、何も、感じないの?」
善美はしがみついてくる。
縋るような目でといかけてくるが、紗綾は困惑するばかりだった。
「えっと……善美ちゃんは何か感じるの?」
思い返せば、話していると時折善美の表情が陰る時があった。
すぐに笑顔に戻ったから特に聞こうとはしなかった。今日出会ったばかりの人間の心に踏み込むような真似は紗綾には不可能だ。
そして、彼女も霊感というものを持っていないのだと思っていたが、彼女がはっきりとそう言ったわけではないのだ。
「あのさ、静かにしてくれない? 集中できないんだけど」
眠っていたはずの圭斗が目を開き、険しい顔をしている。
「ごめん、圭斗君……」
「紗綾先輩はいいんスよ。うるさくないっスから」
紗綾がシュンとすれば、圭斗は微笑む。安心させようとしてくれたのかもしれないが、その表情には硬さがある。
「あたしがうるさいって言いたいわけ!?」
圭斗の物言いに善美が憤慨する。
まるで香澄とのやりとりを見ているような気分になるが、そんな和やかな状況ではない。
「ああ、そうだよ。気が乱れる」
「あんたは既に乱れてるじゃないの!」
圭斗は寝ていたわけではなかったようだ。
やはり、彼はサイキックなのだと紗綾は認識する。
きっと寝ているフリをして、周囲を警戒してくれていたのだと解釈することにした。
「お前、本当にうるさい」
「うるさいって、何よ! きゃあっ!」
ふわりと風が善美の髪を撫でたように見えた。
隙間風ではあり得ない明らかな不自然だった。
ありえないことに善美が悲鳴を上げ、立ち上がった圭斗が舌打ちをした。
そして、彼は紗綾から剥がすように善美を引き寄せる。
「うわっ、ちょっと何するのよ! 痴漢!」
「大人しくしてろよ。乗っ取られる」
善美がじたばたと暴れるのを圭斗は押さえ付ける。
彼女をどうこうしようとするつもりは微塵もないだろう。
彼なりに守ろうとしているに違いない。
「持ってろ」
圭斗はズボンのポケットから何かを取り出して、彼女の手に押し付けたようだった。
紗綾は注視する。今、この場で頼れるのは圭斗だけだ。
何かが起きてしまっている以上、十夜達が戻るまで彼がどうにかしてくれることを願うしかない。
「何この汚い石」
「汚いとか言うんじゃねぇよ。そういうこと言ってると守ってくれねぇぞ」
善美の手の中に見えたのは赤い石のペンダントだった。
彼がお守りだと言ったもののようだった。
彼女が縋るようにぎゅっと握り締めたのを確認して、圭斗はようやく紗綾の方を見た。
「紗綾先輩は大丈夫っスから、まあ、ここは俺に任せて下さいっス」
力強い圭斗の言葉に安心して紗綾は頷く。
何も見えない、何もわからないが、善美に寄り添って終わりを待つ。
「ね、ねぇ、何かいるよ! 大きな犬!」
善美が紗綾の服を引くが、もちろん紗綾には何も見えない。
動物霊というものだろうか。
十夜達から得たなけなしの知識で考えを巡らすが、見えなければわかるはずもない。
「うるせぇ、あれは俺のだ」
圭斗が唸るように言う。
「もしかして、眷属がいるの……?」
紗綾がそっと問いかければ圭斗は頷く。
彼が、守ってくれるという言い方をしたのはそういうことなのだろうか。
「だから、大丈夫っス。すぐに終わるっスから」
どれだけ、どんな霊がいるのかはわからないが、彼の強い眼差しを見れば信じられた。
「何、なんなの?」
不安げに瞳を揺らし、善美が紗綾を見上げてくる。
「えっと、守護霊、なのかな?」
紗綾も圭斗から聞いたわけではないが、十夜がそうであった。
眷属が彼の盾となり矛となる。彼の場合、動物霊ではないのだが。
「じゃ、じゃあ、これは?」
何か知っているかと、善美が握った拳を見せてくる。
黙っていると不安で仕方がないのだろう。
「多分、魔除け、かな?」
圭斗はお守りと言ったそれはアミュレットの類だろうと紗綾は考えていた。
そういうものを見せてもらったこともある。
やがて圭斗が息を吐き、強張っていた善美の体から力が抜けていったのが、紗綾にもわかった。
「終わったの?」
控え目に問う紗綾に圭斗は微かに微笑む。
「退けたっスよ」
「良かった……」
泣き出しそうな善美の頭を撫でることしか紗綾にはできなかった。
大丈夫だと自分が言ったところで何の説得力もないのに、と心のどこかでは思いながら。
「これで終わりならいいんスけどね……」
「え……?」
それはどういうことなのか、聞こうとしたところで圭斗がすっと自分の人差し指を唇へと持っていく。
「まあ、このことは内緒ってことで」
これでも尚サイキックであることを隠したいのか。
けれど、何も言うことはできないまま、足音が耳に入ってくる。
勢いよく扉を開けて入ってきたのは十夜だった。
善美はノックなく開けたことを咎めはしない。
紗綾は息が荒いままの十夜と目が合う。
いつも冷酷なほど落ち着いた彼がこれほど取り乱しているのを見るのは初めてではないが、珍しいものである。
前にもピンチに陥った時、そうして駆け付けてくれたことを紗綾は思い出す。彼は変わっていない。
その後を追ってきた嵐もまた息が乱れているが、紗綾達を順に見て、十夜の代わりに問うた。
「無事?」
「見ての通り、何もないっスけど」
圭斗は何事もなかったように答える。
善美はまだ平静を取り戻していないが、何も語らない。
紗綾も口止めされた以上、何かを言う気はなかった。
「いや、そう言われても、何かあった後にしか、見えないんだけどさ」
嵐は溜息を吐く。
平然としている圭斗と戸惑う紗綾、それはあまり変わった光景ではないが、明らかに善美に元気がないことはごまかせなかった。
「俺にはわかんないっス。紗綾先輩、何かありましたっけ?」
圭斗に話を振られて、紗綾は首を横に振った。
彼との約束もあるが、紗綾自身は何もわからなかったのだから、嘘ではないのだと心の中で言い訳をする。
しかしながら、嵐は目を細め、圭斗を見る。もう欺かれる気はないらしかった。
「あのさ、榊、何か力を感じたんだけどさ」
「そんなこと言われても、俺、ただの人なんで」
鋭い視線を受けて、圭斗は肩を竦めた。
「ああ、そうだね。そう言うなら、君はただの人なのかもね。そういうことにしておくよ」
疲れもあるのか、嵐はそれ以上の追及を諦めたようだった。
そして、紗綾はじっと自分を見詰める十夜の視線に気付いた。
彼は何かを言いたげではあったが、ただそれだけだった。




