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生贄、誕生

 翌日、紗綾は嵐が回避できないと言った意味がよくわかった気がした。

 噂というものは予測不能なものである。

 どこからか生まれて、予想外の成長を見せる。そうかと思えば、いつの間にか消滅していたりもする。


 始めは昨日教室に残っていた女子が十夜との関係を興味本位で問うものだったのだ。

 もちろん、紗綾は知らないと答えたし、オカ研のことも話さなかった。

 紗綾も香澄もきつく口止めされているからだ。

 言ったところで誰も信じてくれるはずがないのだから、口にできるはずもない。


 けれど、十夜を知る人間がいた。彼が魔王と呼ばれていることを上の学年にいる兄弟から聞いた人間がいてしまった。

 彼の噂は決して良いものではない。実に悪名高き魔王である。

 それを聞いて昨日十夜に憧れを抱いていたらしい女子も、すっかり失望し、それ以上紗綾に話しかけようともしなかった。


 それでも、香澄だけはずっと側にいてくれた。

 何を言われても、毅然とした態度で接していた。



 その放課後、紗綾はまたオカ研の部室へと向かっていた。

 嵐に言われたのだ。

 そして、呼ばれていない香澄もついてきていた。嵐に今日は遠慮するようにと言われても強引に押し切ったのである。

 その表情は険しい。まるで今から戦地に赴くようでもある。


「怖い顔だねぇ、田端。八千草じゃないけどさ、女の子は笑顔がいいと思うよ」


 嵐は笑ってみせたが、香澄を笑わせることはできなかった。

 それどころか、その表情は余計に厳しさを増したのである。


「先生、お願いですから殴らせて下さい」


 拳を握り締め、香澄は言い放つ。

 真っ直ぐと嵐を見据えるが、その唇は怒りに震え、本気であることが窺える。

 それを察したのだろう。嵐は大慌てだ。


「いや、あのさ、それは黒羽、黒羽だって! 昨日言ったでしょ! いや、この際、八千草でもいい! あいつなら喜ぶから!」

「私は先生を殴りたい気分なんです」

「俺は可愛そうな先生なの! 俺も犠牲者なの! 生贄教師なの!」


 噂の中で、嵐は魔王に脅されていることになっていた。

 しかし、紗綾も香澄もそれは違うと感じていた。 人徳というものなのかもしれないが、女生徒達に囲まれ、同情されて喜んでいるようにも見えた。

 少なくともオカ研での彼は可愛そうなイケメン教師ではない。

 何か事情はありそうだが、少なくとも十夜より立場が下という様子ではなかった。


「ああなるの、わかってたんですよね? 昨日の見る限り先生は全然可哀想じゃありません!」


 香澄ははっきりきっぱり物を言う。

 同じことを思ったとしても紗綾は同じようには言えない。


「そうかもしれないね」

「大体、先生は先生らしくないんですよ。何で先生になったんですか? 霊感商法で儲けようと思わなかったんですか?」


 さすがに失礼ではないかと紗綾は思ってしまう。

 そもそも、それを判断するには随分と早い気もする。

 嵐も暗い表情で黙り込んでしまった。


「……就職するっていうことはさ、自分の心に嘘を吐くことだよ」


 沈黙の後、嵐は言った。あまりに寂しい言葉だと紗綾は思う。

 それに対して、香澄は眉を八の字にした。


「教師のくせに夢も希望もないことを言いますね。ここにどれだけ夢と希望に溢れた若者がいると思ってるんです?」


 彼も決して軽々しく言っているわけではないようなのだが、進路指導には向かないだろう。


「自分の夢を叶えられる人間がどれだけいるか、知ってる? 本当に自分がなりたいものになれる人間がどれだけいるか……いや、まだわからないと思うし、わからない方が幸せなんだけど」


 夢を目指す学生がいたなら、本当に失望するかもしれない。

 大人としての経験談なのかもしれないが、教師という職業に就いた男が言うには不似合いだ。


「先生はなりたくて先生になったんじゃないですか?」


 志すものがあったのではないかと香澄は問う。


「俺は……黒羽と一緒なんだよ。大学生の時、夢を追っていった友達がみんな夢に敗れたのを見たしね。まあ、それでも気が付いたらみんな結婚してたりして、本当の負け組はどっちかわからないけど。いや、俺は初めからそんな戦場にも立たせてもらえてないのかもね……」


 なぜ、嵐がこれほどまでに悲観するのか、わからなかった。


「先生って悲しい男ですね」

「男って言うのは悲しい生き物なんだって言っておくことにするよ」


 会話に入っていけないまま、紗綾は本当に生徒と教師の会話だろうかと思っていた。

 きっと、嵐も、香澄もどちらも変わっているのだ。

 それとも、本当におかしいのは自分の方なのか。


「本音が出るのはここでだけ。ただの恨み言だけど。まあ、矛盾してるんだよね。俺はここが好きじゃないけど、心にもないことを言わなくて済むから嫌いじゃない。別に黒羽も八千草も悪くないんだけどね……俺の心の問題だから」


 オカ研の不気味な扉の前で嵐は言う。

 この扉の向こうの一室にどれほどの意味があると言うのか。肝心なことはまだ話してもらっていない。


「哀れな羊なんて言ったら月舘は不安になるかな? でも、大丈夫。きっと、月舘だけは俺達と同じにはならないから」


 きっと、嵐は安心させようと笑ったのだろう。

 しかしながら、その笑みはあまりに寂しげだった。

 それでは、きっと彼は、彼らは救われないのだ。


「さて、うちの魔王様がそろそろ苛立ってる頃かな?」


 そして、魔界への扉はまた開かれた。



 既に十夜は仏頂面でソファーに座り、光は菓子をつまみながら漫画を読んでいた。


「さて、黒羽、お前は別の方法を試してくれたかな?」


 十夜が文句を言う前に嵐は問うた。


「結果は同じだ」

「ってか、クロちゃん顔色悪くない? 何かあった?」

「貴様には関係ない」


 十夜は撥ね退けたが、確かに彼の表情は良くなかった。

 自分が正しいことを証明するために徹夜でもしたのだろうか。

 いや、まさか。紗綾は思うが、真相を聞けるはずもない。


「うわっ、冷たい! 聞いた? 同じ部の仲間なのに、部長なのに、先輩なのに、ひどいと思わない? 思うよね? ひどいひどーいっ!」


 光は大袈裟なリアクションをするが、誰も気にしない。

 彼のオカ研での位置付けとはそういうものらしい。オカ研に限らないかもしれないが。


「卑怯だとは思わないんですか?」

「卑怯? じゃあ、田端はさ、俺達が悪いと思うの? 何もしていないのに」

「でも、紗綾だって何もしてません!」


 彼らが悪くないなら誰が悪いと言うのか。

 否、誰も悪くないとしても香澄は怒りをぶつける先がほしいのだろう。


「彼らは魔女狩りをしたいんだよ」

「魔女狩り……?」


 あまりに現実的でない言葉、いつの話をしているのだと紗綾は思う。

 それは、やはり香澄も同じだったらしい。

 わけがわからないとその顔に書かれているようでもある。


「異能者を認めたくないの。君と同じで信じないの。だから、異端者と忌避する。俺たちも別にそれでいいし、恨みもしない」

「私は大丈夫です」


 意を決して紗綾は言う。

 もう怖くはなかった。

 ずっと考えてみたが、違う誰かが自分の代わりになる姿を見ることの方がきっと怖いのだ。


「じゃあ、契約成立ってことで、付添い人にはそろそろ出て行ってもらおうかな? あとのことは俺たちに任せてほしいし、君にだって行くところがあるよね?」


 話を纏めるためだけの、それだけの時間だった。

 ついてきたのは香澄の意思だが、彼女には用があった。

 陸上部に行くはずが、妙なことに巻き込まれているのである。そう考えると彼女にも不幸がふりかかってしまっているとも言えるのかもしれない。


「変なことしたら承知しませんからね!」


 香澄は納得しているとは言い難い様子だったが、もう何も言うまいと思ったようだった。


「あ、陸上部入るなら、二年の副部長の司馬ってやつと仲良くしておくといいと思うよ」

「ご親切にどうも」


 その司馬も関係者なのか。けれど、それを香澄は聞こうとはしなかった。

 だから、紗綾も聞かない。


「私は味方ですから。そこのところお忘れなく。いえ、紗綾の、紗綾だけの味方ですけどね! 紗綾、何かあったらすぐに呼んでよね、絶対に全速力で駆け付けるからね!」


 立ち上がり、威勢よく香澄は言った。まるで捨て台詞である。


「何かあった時にはサービスしてあげるよ」


 嵐はひらひらと手を振って香澄を見送る。

 何か、というのは聞くまでもないだろう。



 結局、何かの間違いだったと言われるわけでもなく、紗綾は正式に生贄になった。

 最初の頃こそ、十夜は自分の力に間違いがないことを証明しようとしていたが、すぐにそれも止めた。無駄だと気付いたのだ。

 歓迎会で魔女――毒島鈴子に散々罵倒されながら、彼女が後に認めた理由を説き明かそうとして、できなかった。

 だから、未だに誰もわかっていないのだ。オカ研にとっての最大の謎を解き明かす者はいない。

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