第1話 忍びと姫の数奇な出会い
ハッピーエンド確約
五年後の未来。
少女は赤黒い、蛇とクラゲが混ざって煮えたような醜い獣を前に、愛おしげな笑みを浮かべている。
「私、凪と長い間旅をして、広い世界を見たわ。そして、たくさんの目標を持った」
女や弱い者が、誰も虐げられることのない、新しい国を作りたい。かつて無力だった姫君は、気高い夢と、人脈と、力を得た。だがーー。
「だけど、そこに凪がいないなら、意味がないから」
ノコギリに似た歯が、少女の視界を覆う。それは彼女の死と、彼の再生を意味した。
これは、一人の少女が、呪いに満ちた初恋を終わらせるまでのお話。
ーーー
炎が夜空を染め上げる様が、死をたたえる煉獄の宴のようで美しい。
「きゃーっ!」
「起きろ!皆、武器を構えろ!」
櫓から、火事と敵襲を知らせる早鐘が鳴り響いた。警護に当たっていた夜番が、「曲者だ!」と繰り返し叫びながら城内を走り回る。
この緋前国の領主とて、有事に備えがないわけではない。こんなときのために雇ってあった忍び衆は、すでに必死の攻防に当たっていた。城の外郭で、水堀から石垣を登ってくる輩を矢で射殺する者。本丸御殿に続く坂道で、敵を袋小路に追い詰め刺殺する者。そして、返り討ちに遭う者。次第に敵味方の区別もつかなくなり、双方の屍が折り重なっていく。
阿鼻叫喚の渦中、”それ”は静かに、本丸御殿の最奥に迫っていた。真っ黒な装束を纏った十六歳の少年は、名を凪という。緋前と敵対する蒼海国から遣わされた、緋前の領主の命を狙う忍びだ。
入り乱れる兵や忍たちの視線の隙間、炎の揺らめきが作るわずかな影の断層。その合間を縫って、凪はハヤブサのように進んだ。どれほどに不可侵の城塞も、地獄絵図のような戦場も、彼の前ではただの無風の荒野に過ぎなかった。
「き、貴様!うぐっ……」
十人ほどの手練れの護衛をあっさりと切り捨て、凪は最奥の寝室の襖を開けた。鼻の奥を突くような焦げの匂い。赤黒い闇の奥で、大柄な影がゆらめく。
「大したものだ、我が兵も忍びも殲滅したのか」
絢爛な夜着を着込んだ中年の男が、低い声でつぶやいた。凪は短剣を構え、標的の心臓を確実に刺し止められる角度を探る。目の前の獲物は間違いなく、緋前国の領主・九条貞盛。貞盛はこの絶望的な状況にあって、不気味に口角を上げている。
「だが下僕の連中など、いなくなればまた、こしらえればいいだけのこと。まずは……貴様からだ」
貞盛の肌に、赤黒い鱗のような光が浮かび上がる。反射的に、凪は後ずさった。本能が、破格の危険を告げている。これは、だめだ。
「服従せよ、下賎な忍び」
凪の目の前に、突如ドロドロした何かが浮遊し、覆いかぶさろうとした――その、刹那。
「な……っ……」
既に凪の刃が、背後から貞盛の胸の正中を貫いていた。
「……貴様……」
貞盛の眼球が剝き出る。凪が背後に移動した気配など、貞盛は一切察知できなかった。凪の瞳は、どこまでも静かだ。
「任務完了」
凪が呟き、刀を引き抜こうとした、その瞬間だった。胸を穿たれ、血を吐き出しながら、貞盛が唸った。
「馬鹿め」
「!?」
逃げる間もなく、凪は自分の背中に異変を感じて戦慄した。大きな蟲が、体の内側に這いずりこんでくる感覚。
「っ……何をした……?」
とてつもなく気味が悪い。ただ、間もなく異物感は消え、気のせいだったのかと思いたくなる。しかし、貞盛は霞んでいく視界の端に凪をなんとか収めながら、不敵に笑っていた。
「赤竜の……加護を受けた人間は特別だ。殺せば……永遠に……呪われる」
「竜の加護?呪い? 笑えるな。そんなおとぎ話誰が……」
「忍び。お前は赤竜のしもべとして、永久に死なず、化け物としてこの世をさまよい続ける。憐れだな……」
そう言うと、貞盛はついに息絶えた。胸中に不安の影を宿しつつ、凪はふとあたりを見回す。すでに火の手は迫りつつあった。遠くで幾つもの悲鳴が聞こえるが、この部屋には貞盛と護衛の遺体以外、誰もいない。
そのはずだった。
「父上……」
振り返ると、そこには子どもがいた。小袖の裾は、凪が斬った護衛の血に染まり、炎の光に揺れている。貞盛には二人の息子と、一人の娘がいるという。息子のほうは先ほど味方の忍びが始末したが、娘はどうやら生き延びていたらしい。
「なぜ殺したの?」
齢十一の咲耶姫は、父親の残骸の傍らに立つ凪の姿を、じっと見つめた。鈴の鳴るようなその声には、悲しみと絶望が滲んでいる。だが、そんなものは、凪がこれまで通り過ぎてきた日常と同じだ。
「任務だから」
冷静に言うと、凪は踵を返した。蒼海国の領主は、緋前国を配下に置きたがっていた。だが、貞盛を殺す命を受けたのは、それだけが理由ではない。
――貞盛は死なねばならぬ。あれの力は、いずれ緋前のみならず、この世を滅ぼす。
それを聞いたとき、凪は、よくある為政者の戯言だと思った。しかし、先ほどの不可思議な出来事を思い返すと、もしかしたら、という嫌な予感が過ぎる。
「父上は私を可愛がってくれました。母上や兄上と過ごした毎日はかけがえのないものでした。城のみんな、大切な家族でした。それをあなたは、全部壊した」
静かに語る幼い咲耶の横を、凪は無言で通り過ぎた。渡り廊下はすでに火の海。さて、どうやって逃げようか。
「私、あなたを殺してやりたい」
凪の血に濡れた袖が、小さな手にしっかりと掴まれた。不意打ちの行動に、凪は思わず目を丸くして振り返る。怒りを称えたあどけない眼差し。しかし、瞳は濡れていなかった。
「……ふっ……はは」
凪はくすぐられたように吹き出した。もちろん、姫君は微動だにしない。
彼女は何も知らない。優しかったという父親の本性も、恵まれていた暮らしの裏で、どれだけの人間が犠牲を払ってきたのかも。そして、最下層の汚れ仕事を引き受ける忍たちの思いや矜持も。ただーー。
「ちょっと羨ましい。殺してやりたいって、思ったことないから」
凪も思えていたら、幾分よかったかもしれない。こんなに多くの人間を、殺すしか選択肢がないのなら。
「いいよ。俺の仕事は城の陥落と領主の殺害。姫君を殺すことまでは任務じゃない。君がどう生きるかは、君の自由だ」
そう言って、凪は咲耶に手を差し出す。
「来て。ここはもう落ちる」
まもなく、本丸御殿は燃え崩れた。そこから生還した者があるなど、誰が想像し得ただろうか。
さて、翌朝。
緋前の外れにある寂れた寺で、寝起きの凪は命を狙われていた。
「うーん……」
自分の腰に跨り、眼前に短刀を向けている咲耶を見上げながら、凪は困り顔をする。寝ている間も、何度か同じことをやられた。まるで、兎に腹の上で戯れられているかのようだ。緊迫感が全くない。
「おはよ」
「……おはようございます」
「はは、敵に礼儀正しいね。少しは寝られた?……わけないか」
「……っ」
そのとき、咲耶は一瞬、ばつが悪そうに目を逸らした。だが、凪には理由がわからない。
「ちょっと顔洗ってくる。その間に、逃げてもいいよ」
凪は咲耶を腰からひょいと持ち上げて脇にどかし、あくびをしながら裏庭に向かった。あれだけの命を奪った夜に、釈迦像の前で寝起きするなんて、我ながら良い度胸だ。
(違和感、抜けないな)
苔だらけの池に自らの姿を映し、凪は唇を結ぶ。九条貞盛を殺したとき、体内に何かが流れ込んだあの感覚。痛みこそないものの、前の自分とは、何かが変わっている気がする。
意を決し、凪は背中を覆う衣を剥いだ。
「……!?」
濁った池の表面に、変わり果てた背中が映った。皮膚に染み付いた黒い紋様。蛇のように渦巻く、不気味なアザがそこにある。
「おやおや、それは……」
不意に背後からしわがれた声がしたので、凪はハッとして衣を直し、振り返った。そこにいたのは、貧相な袈裟に身を包んだ、高齢の僧侶。確かに殺気は感じなかった。この坊主は一体何者なのだろう。
「赤竜の呪いを受けましたね」
僧侶は憐れむように言った。赤竜。その言葉は、貞盛も口にしていたものだ。
「赤竜って……」
「緋前の土地神で、九条の一族に籠を与えてきた竜です。今や邪神となった呪わしい存在。このままでは、あなたは」
初夏の日差しの下、突風で、木々の影が不気味にざわめき立つ。
「人を喰らいながら永遠にこの世を彷徨う、意志のない獣と成り果てるでしょう」




